払い戻し①

世界が、黒一色に塗りつぶされた。


 轟音はなかった。代わりに、ボフッという、巨大な腐敗した果実が破裂したような、湿った音が響き渡った。檻の中の少年と、坂本のポケット。その二点から噴出した「黒い泥」は、津波のように地下空間を洗った。


「ぐああっ!」 「なんだ、これ!熱い!」


 前列にいた青年団の男たちが悲鳴を上げた。泥を浴びたのではない。泥が触れた瞬間、彼らの持っていた鉈の柄が折れ、懐中電灯が爆発し、天井の岩盤が「たまたま」その頭上に落下したのだ。


 不運。


 本来なら数十年かけて分散して起こるはずの「人生の不運」が、この一瞬に凝縮されて降り注いだ結果だった。


「ひっ、ひぃぃ……!」


   岩田が腰を抜かして後ずさる。彼の足元まで泥が迫っていた。岩田は慌てて逃げようと踵を返したが、その拍子に、泥で濡れた床に足を滑らせた。ごくありふれた転倒。しかし、倒れた先に、先ほど男が落とした鉈の刃が、上を向いて転がっていた。


 グチャリ。


 岩田の喉元に、鉈が深々と突き刺さった。声も上げられず、岩田は白目を剥いて痙攣し、自分の血と黒い泥の中に沈んでいった。


「うわああん!僕の運が!僕の運が溢れてる!」


 狂喜の声を上げたのは、血まみれで転がされていた田所だった。彼は恐怖するどころか、足元を流れる黒い泥を「石油」か「黄金」だと錯覚したのか、這いつくばって泥を啜り始めた。


「うめえ!濃厚だ!これがあれば勝てる!」


 その直後、彼の頭上の蛍光灯が落下し、ガラス片が全身に突き刺さったが、田所は笑うのを止めなかった。彼はもう、痛覚すら「快楽」という名の幸運に脳内で変換されていたのだ。


 坂本は、泥の飛沫を浴びながらも、奇跡的に無傷だった。いや、違う。ポケットの中の画用紙が、熱を放って坂本を守る「結界」になっていた。


『君は、運び屋だから』 少年の声が聞こえた気がした。


 坂本は顔を上げた。檻の中。少年はもう立っていなかった。彼はベッドの上で崩れ落ち、その身体は急速に炭化――いや、泥化して溶け始めていた。彼は自分の肉体というダムを決壊させ、貯め込んだ全ての呪いを解放して、自らを消滅させようとしていた。


 ガラガラガラ!


 周囲の棚が崩壊を始めた。拘束されていた子供たち――「人形」たちが、泥流に飲み込まれていく。点滴のチューブが引きちぎれ、拘束具が外れる。彼らは自由になった。泥の中で、手足をバタつかせながら、しかしその表情はどこか安らかに見えた。もう、無理やり生かされる苦痛はないのだから。


「……逃げなきゃ」


 坂本は震える足で立ち上がった。出口の鉄扉は、岩田の死体と崩れた岩で半分塞がれている。だが、人間一人が通る隙間はある。


 坂本は田所を見た。彼は泥の海の中で、笑いながら沈んでいく。


「田所さん!」声をかけたが、田所は虚ろな目でこちらを見上げ、ニヤリと笑った。


「……大当たりだ」それが最後の言葉だった。天井から崩落した巨大な換気ダクトが、彼を完全に押し潰した。


 助けられない。坂本は唇を噛み切り、鉄扉の隙間へと身を躍らせた。


 背後で、地下施設全体がきしむ音がした。この空間自体が、村の業を支えきれずに崩れ落ちようとしている。


 排水管の中を、坂本は走った。後ろから黒い波が迫ってくる。


 チャプ、チャプ、という水音ではない。ゴオオオオオという、何万人の怨嗟の叫び声を含んだ濁流の音だ。


 滑る足元。何度も転び、汚水にまみれながら、坂本はひたすら上流の穴――あの、山中から転がり落ちてきた入り口を目指した。


 光が見えた。


 月明かりだ。坂本は泥だらけの手でコンクリートの縁を掴み、懸垂の要領で体を持ち上げた。全身の筋肉が悲鳴を上げる。だが、下から迫る死の気配が、火事場の力を引き出した。


 這い出る。夜の森の冷気。坂本は地面に転がり、そのまま這って穴から離れた。


 直後。ドボン!!

 穴から黒い噴水が吹き上がった。間欠泉のように噴出した泥は、周囲の草木を一瞬で枯らし、触れた岩をひび割れさせた。だが、それは止まらなかった。溢れ出た泥は、重力に従って下へ――つまり、村の方角へと流れ始めたのだ。


「……ああ」


 坂本はその光景を見て、戦慄した。村人たちは、この泥を少しずつ小分けにして、外へ捨てようとしていた。だが、ダムは決壊した。数十年分の濃縮された不幸が、今、一気に村へ還っていく。自分たちの出したゴミで、自分たちが埋もれていく。


 下の方で、半鐘の音が狂ったように鳴り響き始めた。


 そして、悲鳴。火事ではない。土石流のような「闇」が、家々を飲み込み始めていた。

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