集積所③

 滑り落ちた先は、底なしの奈落ではなかった。数メートルの傾斜を転がり落ち、ドチャリと泥水の中に着地した。


「うぅ」

 坂本は全身の痛みに呻いた。スマホの画面が割れていないか確認し、周囲を照らす。 そこは、直径二メートルほどのコンクリート管の中だった。足元にはくるぶしほどの深さの水が流れている。雨水ではない。鼻を刺すような塩素の臭いと、もっと生臭い、解体場の排水のような臭いが充満していた。


 頭上の穴からは、男の怒鳴り声と犬の吠える声が遠く聞こえるが、入ってくる気配はない。ここが何であるかを知っているからこそ、村人もおいそれとは足を踏み入れられない聖域――あるいは禁域なのだろう。


 坂本は痛む足を引きずり、水流の上流へと向かって歩き出した。下流へ行けば村の排水口へ出るかもしれないが、そこには見張りがいるはずだ。ならば、この管が繋がっている「源泉」へ向かうしかない。


 チャプ、チャプ。水音がコンクリートの壁に反響する。進むにつれて、壁面に奇妙なものが目につき始めた。壁の至る所に、お札が貼られているのだ。湿気でボロボロに腐り落ちているが、どれも逆さまに貼られている。封印ではなく、何かを呼び込むための呪詛のように。


 さらに進むと、鉄格子のはまった分厚い鉄扉が現れた。鍵はかかっていない。いや、蝶番が錆びついて壊れかけている。坂本は全身の体重をかけて扉を押し開けた。


 ギイィィィ……。不快な金属音と共に、扉が開く。その先には、想像を絶する空間が広がっていた。


 地下の大広間だった。かつては防空壕か、あるいは鉱山の採掘場だったのかもしれない。むき出しの岩肌とコンクリートで固められた壁。天井には裸電球が数個、切れかけた蛍光灯のようにチカチカと明滅している。


 そして、その広い空間には、無数の「棚」が並んでいた。図書館の書架のようにも見えるし、養蚕のための蚕棚のようにも見える。だが、そこに並べられているのは本でも蚕でもなかった。


 人間だった  子供たちだ。


 三段ベッドのような木の棚に、何十人もの子供たちが寝かされていた。全員、白い拘束着を着せられ、手足を棚の支柱に縛り付けられている。点滴のチューブのようなものが腕に刺さり、天井から吊るされたタンクから、黄色い液体が滴下されている。


「なんだ、これ」坂本はあまりの光景に、吐き気を催して口元を押さえた。


 ここは病院ではない。『貯蔵庫』だ。岩田が言っていた言葉の意味を、最悪の形で理解した。


 子供たちは、身じろぎもしなかった。生きているのか死んでいるのかも分からない。ただ、胸がわずかに上下しているのだけが、生命活動の証拠だった。彼らの顔や手足には、あの儀式の子供と同じように、びっしりと経文のような文字が墨で書かれている。


 坂本は震える足で、一番手前の棚に近づいた。十歳くらいの少女だった。彼女の顔は、苦悶の表情で固まっていた。そして、その皮膚の下で、黒い血管のようなものが脈打って動いているのが見えた。「不運」や「穢れ」といった概念的なものが、ここでは物理的な汚染物質として血管を流れているかのようだった。


 棚の端に、木札が下がっていた。

『七拾八番 ・ 飽和・経過観察中 』


 飽和。もうこれ以上、不幸を吸えない状態。だからこうして、薬漬けにして意識を奪い、死なない程度に生かし続けているのだ。死ねば中身が漏れ出すから。まるで使用済み核燃料をプールで冷やし続けるように。


「殺して……」


 微かな声がした。坂本は弾かれたように周囲を見回した。  誰だ? 少女か?  いや、少女の口には猿轡がされている。


「殺して……」


 声は一人ではなかった。棚のあちこちから、うわ言のような、虫の羽音のような声が重なって聞こえてきた。彼らは意識がないはずなのに、魂だけがこの無限の地獄から解放されることを願って、悲鳴を上げ続けているのだ。


 坂本は後ずさった。ここは地獄だ。村人たちは、自分たちの平穏な生活、ささやかな幸運を守るために、これだけの数の子供を犠牲にしているのか。これが「忌み分け」の正体か。


 その時、上着のポケットが熱くなった。あのクレヨン画だ。ドクン。心臓の鼓動に合わせて、画用紙が脈打つ。


 『ここだよ』  『あけて』


 脳内に響く声。坂本の視線が、広間の一番奥、特別に頑丈そうな鉄格子の檻に吸い寄せられた。他の棚とは違い、そこだけ隔離されている。  そして、その檻の中から、強烈な視線を感じた。


 あの子だ。今夜の儀式で、坂本が「ツケ」を受け取った、あの男の子だ。


 男の子は、檻の中のベッドで上半身を起こしていた。猿轡は外されている。その目は、爛々と輝き、暗闇の中で金色の光を放っていた。そして、ニタリと笑った。


「来たね」


 子供が喋った。その声は、少年のものでもあり、何百人もの老人のしわがれ声が重なったような、不協和音のような響きだった。


「僕の半分を、持ってきてくれたんだね」

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