浸食③
カリ、カリ、カリ。
その音は、間違いなく床下から響いていた。 ネズミが柱を齧る音にしては規則的すぎる。まるで誰かが、床板の裏側で硬い爪を立て、執拗に文字を刻んでいるようなリズム。
坂本は息を潜め、四つん這いになって床の間へ近づいた。畳と敷居の隙間から、腐った冷気が吹き上げている。
「おい、何してる」
背後で田所が低い声を上げた。手にはまだ重そうなガラスの灰皿が握られている。「そこに何がある? 抜け穴か? 俺を置いていく気か?」
「静かにしてください」 坂本は唇に指を当て、田所を制した。
「床下に何かいるんです」
「いるわけねえだろ! 幽霊かよ!」 「人間ですよ。もしくは、動物か」
坂本は畳の縁に指をかけ、力を込めた。湿気を吸って重くなった畳は、バリバリという音を立てて持ち上がった。その下には、杉の荒板が敷かれていた。だが、床の間の前の板だけ、釘が打たれていないように浮いている。
坂本は意を決して、その板を剥がした。
プン、と濃厚な異臭が立ち上った。 古い油、カビ、そして何かが干からびた臭い。 坂本はスマホのライトを点灯させ、床下の闇を照らした。
「うっ……」
光が照らし出した光景に、坂本は言葉を失った。
そこはただの床下ではなかった。 言うなればゴミ捨て場だった。 何十、いや、何百という「供物」が、そこに投げ込まれていたのだ。
変色した人形、錆びついたミニカー、カビだらけの絵本、腐って原形をとどめていない何か。 それらがうず高く積もり、地層のようになっている。 この部屋は「来客用」ではない。 儀式で部外者に持たせた「穢れ」を、部外者が持ち帰らずにここに置いていった場合、あるいは発狂して死んだ場合、その所持品を廃棄するためのダストシュートの真上だったのだ。
そして、そのゴミの山の上で。 二つの赤い目が光った。
巨大なドブネズミだった。猫ほどもある大きさのネズミが、捨てられたクレヨンを齧っていたのだ。カリ、カリ、という音の正体はこれだった。ネズミはライトの光に驚きもせず、赤黒い目でじっと坂本を見上げ、キーッと鋭く鳴くと、奥の闇へと走り去っていった。
「なんだ、ネズミかよ」
田所が肩の力を抜いた。「脅かしやがって」
「待ってください」 坂本はネズミが消えた先を照らした。 床下の空間は意外に広い。そして、ネズミが逃げ込んだ基礎コンクリートの一角に、人が一人通れそうな通風孔の亀裂――いや、誰かが人為的に壊して広げたような穴が開いていた。
「あそこから、外に出られるかもしれません」
玄関は釘付けにされている。窓には鉄格子がはまっている。だが、この床下なら。
「行きましょう、田所さん、ミキさん」坂本は立ち上がり、二人を促した。
「ここを抜けて村を出るんだ」
「嫌よ」
ミキが鏡から目を離さずに答えた。 「出たら、呪いが拡散しちゃう。ここで浄化しないと、私が、綺麗にしてあげないと」 彼女は自分の頬を爪で引っ掻いていた。
ファンデーションの下から血が滲んでいるが、痛みを感じていないようだ。
「ミキさん!」 坂本が肩を掴もうとすると、彼女は悲鳴を上げて払いのけた。
「触らないで! 汚れる!」
完全に理性が飛んでいる。説得している時間はない。 坂本は田所を見た。
「田所さん、あんたは正気だろ?ここにいたら殺されるか、あの女みたいになるぞ」
田所は灰皿を下ろし、少し迷うような素振りを見せた。だが、その目はまだ疑心暗鬼に揺れている。
「……罠じゃねえのか? お前、俺を暗いところに誘い込んで、後ろから頭を割る気じゃねえだろうな」
「そんなことするわけないでしょう」
坂本は苛立ちを隠せなかった。「いいから来てください。俺が先に行きます」
坂本は上着のポケットを押さえた。画用紙の感触がある。 捨てていきたい。この床下のゴミの山に、一緒に放り込んでしまいたい。 だが、そうしようとすると、指が動かなくなった。
『捨てたら、許さない』
そんな声が聞こえた気がしたからだ。あるいは、村人に「持ち帰らなければ死ぬ」と刷り込まれた恐怖が、呪いとなって身体を縛っているのか。
クソッ。 坂本は毒づきながら、床板の隙間に足を滑り込ませた。 埃っぽい闇の中へ、身体を沈める。
床下は匍匐前進でしか進めない高さだった。顔のすぐ横に、何十年も前の誰かが捨てた市松人形が転がっている。その髪の毛が伸びて、坂本の頬を撫でたような気がして、悲鳴を呑み込んだ。
「早くしろよ」 頭上から田所の声がした。彼も意を決して降りてきたようだ。
ミキは部屋に残った。化粧をしながら、ブツブツと独り言を続けている。彼女を助ける術は、今の坂本にはなかった。
坂本は肘と膝を使って、泥とゴミの上を這った。 目指すは、ネズミが消えたあの穴。 外の空気が流れ込んできている。風を感じる。
あと数メートル。 穴に近づいたとき、坂本は奇妙なものを見つけた。基礎のコンクリート柱に、新しい傷跡があった。何かが引きずられたような跡と、赤黒い染み。そして、落ちていたのは一本の注射器だった。
医療用の注射器。中身は空だ。ラベルには手書きで『鎮静剤』と書かれている。
坂本の脳裏に、あの布団の中で蠢いていた子供の姿が蘇った。あの子も、この床下を通って運ばれたのか? それとも、ここで「処理」された誰かがいたのか?
思考を中断させるように、背後でガタン! と大きな音がした。田所が降りてきた音ではない。
もっと重い、何かが落ちた音。
「おい、坂本」 田所の震える声が聞こえた。 「ミキが……」
坂本が振り返ろうとした瞬間、頭上の床板の隙間から、ポタリと生暖かい液体が垂れてきた。 坂本の鼻先に落ちたそれは、鉄の味がする赤黒い雫だった。
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