浸食④

ポタリ、ポタリ。  


 天井板の隙間から垂れてくる粘着質な液体が、坂本の頬を濡らし、顎を伝って泥の地面へと落ちた。 鉄の臭いが鼻腔を焦がす。


「おい、ミキ!どうした!」


 田所が隙間から懐中電灯の光を上へ向けた。


 光の筋が、畳の隙間を突き抜け、部屋の中を切り取る。そこに見えたのは、横たわったミキの顔だった。いや、それはもう顔とは呼べなかった。


 彼女は、持ち帰った手鏡の破片を握りしめていた。


「綺麗にしなきゃ」


 彼女はそう繰り返していた。その言葉通り、彼女は自分の顔面の皮膚を、まるで果物の皮でも剥くように、鏡の破片で削ぎ落としていたのだ。 白く塗り固めたファンデーションの下から、鮮やかな赤色が溢れ出し、畳を染めている。


 彼女の目は見開かれたまま、床下の坂本と目が合った。  


 動かない。


 喉元には、致命的な一筋の裂傷があった。


「う、うわあああああ!」 田所が悲鳴を上げた。「死んでる! 自分でやりやがった!あの女、狂って!」


「静かに!見つかりますよ!」  


 坂本は田所の口を塞ごうとしたが、遅かった。


 ドカドカドカ! 宿舎の玄関付近で、乱暴な足音が響いた。今の悲鳴を聞きつけた村人たちが、封鎖した扉を破壊して踏み込んできたのだ。


「――『壊れた』か」


 頭上から、岩田の冷淡な声が聞こえた。 驚きも、悲しみもない。機械が故障したのを確認するような口調。


「残りの二匹はどこだ?」 「姿が見えません!畳が剥がされています!」 「床下か。ネズミのごと逃げよって」


 ガタン! すぐ頭上の畳が踏み抜かれた。埃と木屑が降り注ぐ。 長い銛のような棒が、床下の闇を突き刺してきた。


「ひいっ!」 田所が泥の上を転げ回って避ける。


「行くぞ、田所さん!急げ!」


 坂本は匍匐姿勢のまま、手足をフル回転させて泥の海を掻いた。 腐ったぬいぐるみやカビた本が腹の下で潰れ、不快な音を立てる。まるで過去の犠牲者たちの死骸の上を這っているような錯覚。


「待て!置いてくな!」 田所が泣き叫びながらついてくる。


 前方、基礎コンクリートの割れ目。


 あそこだ。あそこから外気が漏れている。 坂本は頭から穴に突っ込んだ。狭い。コンクリートの断面が肩に食い込み、皮膚が裂ける。 だが、痛みを感じている暇はない。


 背後では、床板が次々と剥がされ、複数の懐中電灯の光が床下を舐め回していた。 「いたぞ! 奥だ!」 「燻り出せ! 火を使え!」


 正気か。家に火をつけるつもりか。 坂本は最後の力を振り絞り、体をねじ込んだ。上着のポケットの中で、あのクレヨンの塊がゴリゴリと肋骨を圧迫する。 ぬるり、と体が抜けた。


 外だ。冷たい夜気が肺を満たす。そこは宿舎の裏手、鬱蒼とした竹林の中だった。  雨上がりの湿った土の匂いと、竹の青臭い匂い。


 続いて、田所が這い出してきた。泥と蜘蛛の巣まみれで、片手にはまだあの錆びたミニカーを大事そうに握りしめている。


「はあ、はあ、出られた」 田所が地面に倒れ込む。


「休んでいる暇はありません。追手が来ます」 坂本は立ち上がり、闇を見透かした。 宿舎の方からは、「逃がすな!」「山狩りだ!」という怒号と、犬の吠える声が聞こえ始めていた。


 村の地図は頭に入っていない。だが、来た道へ戻るには、村の中心部を抜けなければならない。そこは敵の巣窟だ。かといって、反対側の山へ入れば、岩田が言っていた「熊よりタチの悪いもの」――おそらくは、村の暗部を守る罠や番人――に遭遇するだろう。


「どっちに行く?」


 田所が震える声で聞いた。


 坂本は、竹林の隙間から見える村を見下ろした。村の各所、家々の軒先に提灯が灯り始めている。その明かりが、ゆっくりと動き出し、一列になってこちらへ向かってきているのが見えた。  松明を持った村人の行列。それはまるで、百鬼夜行のような、あるいは巨大な火の蛇がのたうっているような光景だった。


「……山だ」


 坂本は決断した。 「トンネルは封鎖されているはずです。山を越えて、隣町へ抜けるしかない」


「山って……遭難するぞ!」 「ここで捕まって『処分』されるよりはマシです」


 坂本は竹林の奥、黒々とした闇が口を開ける獣道へと足を向けた。ポケットの中のクレヨンが、再び熱を持ち始める。  


『かいて、かいて』


 脳内の声が強くなる。坂本は歯を食いしばり、その声を無視して走り出した。


 逃走劇の幕が上がった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る