浸食②
ザッ、ザッ。
足音は宿舎の玄関前でピタリと止まった。ノックはない。呼び鈴もない。ただ、障子越しに複数の黒い人影がゆらりと浮かび上がった。
「……誰だ」
田所がミニカーを抱きしめたまま、獣のような声で唸った。「俺の車を盗みに来たのか? 渡さねえぞ」
坂本は息を殺し、障子を凝視した。外から、ぼそぼそとした話し声が漏れてくる。
「具合はどうや」 「まだ早い。馴染んどらん」 「薬が足りんか」
それは、家畜の肥育具合を確認するような、あるいは実験動物の経過観察をするような、感情のない会話だった。
薬。 その単語が、坂本の混沌とした脳を冷水のように叩いた。 やはりだ。食事か、お茶か、あるいはこの充満する線香の煙か。 何らかの向精神作用のある成分を使われたのだ。
ガタン! 突然、玄関の引き戸が外から激しく揺すられた。 鍵はかけていたはずだが、古い建具は悲鳴を上げ、隙間から埃が舞う。
「ひっ!」
ミキが短い悲鳴を上げ、手鏡を取り落とした。鏡面が畳の上で鈍い音を立てるが、割れはしなかった。
「あー、坂本さん。起きてますか?」
聞き覚えのある声。役場の岩田だ。昼間の愛想の良さは微塵もなく、深海の底から響くような低い声だった。「夜分にすみませんね。念のため、戸締まりを確認しに来たんですよ」
「確認なら結構です!」 坂本は声を絞り出した。「帰ってくれ!」
「いえいえ、そうはいきません。村の夜は危ない。獣も出るし、何より、気が触れた人間が徘徊すると困りますからね」
カチャン。 金属音がした。 続いて、ガリッ、ガリッという、硬いものが木部に擦れる音。
坂本は戦慄した。 外から鍵をかけているのではない。 打ち付けているのだ。閂か、板切れを。
「な、何してやがる!」
田所が跳ね起きた。ミニカーを懐に入れ、玄関へと突進する。
ドン!と田所が体当たりをするが、引き戸はびくともしない。外から完全に固定されている。
「開けろ!ここから出せ!警察呼ぶぞ!」
田所が叫び、扉を蹴り飛ばす。 しかし、外の岩田は落ち着き払った声で答えた。
「警察なら、村の駐在さんがそこにいますよ。ねえ?」 「ああ。異常なしだ」 別の男の声。太く、威圧的な響き。
絶望が坂本の胸に広がった。 公権力も、ここでは村の掟の一部でしかない。
「朝まで大人しくしていてください」
岩田の声が続く。 「皆さんが持っているその品物は、村の穢れを吸ったスポンジです。一晩かけて、貴方達の体温と魂で温めて、その穢れを貴方達自身に移し替えてもらわないと困るんです」
「ふざけるな!」 坂本が叫ぶ。
「おやおや、人聞きが悪い。貴方達は『選ばれた』んですよ。幸運の代償を払う光栄な役目にね」
笑い声が聞こえた。岩田だけではない。外にいる数人の気配が、クスクスと忍び笑いをしている。「しっかりと抱いて寝てくださいね。夢の中で、あの子が遊びに行きますから」
足音が遠ざかっていく。 ザッ、ザッ、ザッ……。 静寂が戻った部屋に、田所の荒い息遣いだけが響いた。
「畜生……畜生!」
田所は扉を叩き続けていたが、やがて力が抜けたようにその場にへたり込んだ。 そして、またブツブツと呟き始めた。 「大丈夫だ。俺の車は無事だ。誰にも渡さない」
田所は懐からミニカーを取り出し、愛おしそうに頬ずりを始めた。その頬に、赤錆がこびりついて血のように見える。
「ねえ」
部屋の奥から、ミキの声がした。 彼女は手鏡を拾い上げ、また化粧を再開していた。 「出られないなら、綺麗にしなきゃ。あの子が来るんでしょう? 迎えに来るんでしょう?」
彼女の顔は、ファンデーションの厚塗りで能面のようになっていた。口紅が大きくはみ出し、耳元まで裂けたように赤く引かれている。
「二人とも、しっかりしろ!」 坂本は田所の肩を揺さぶり、ミキの手からコンパクトを奪い取った。「薬を盛られたんだ!あいつらの暗示にかかるな!」
「うるせえ!」
田所が坂本の手を振り払い、獣のように睨みつけた。 「お前、俺の運を狙ってるんだろ!あいつらとグルか!?」
「違う!」 「寄るな!殺すぞ!」
田所は部屋の隅にあったガラス製の灰皿を掴み、構えた。その目は本気だった。焦点が合っていないが、殺意だけが明確に坂本に向けられている。
坂本は両手を上げて後ずさった。 駄目だ。話が通じない。 この閉鎖空間で、気のふれた二人と一晩過ごす? いや、自分だって限界だ。 ポケットの中の画用紙が、ドクン、ドクンと脈打っている錯覚が消えない。
そして、どこからか音がした。
カリ……カリ……カリ……。
ネズミが壁をかじる音? いや、違う。 クレヨンで、画用紙を塗りつぶす音だ。
坂本は戦慄して自分のポケットを押さえた。 音は、ポケットの中からではなく、床下から聞こえてきていた。
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