浸食①

 宿舎に戻ったときには、完全に日が落ちていた。

 山間の夜は早い。窓の外は墨汁を流し込んだような漆黒で、街灯一つない闇の奥から、得体の知れない蟲の声だけが鼓膜を震わせていた。


​ 六畳二間の和室。

 坂本、田所、ミキの三人は、通夜ぶるまいとして運ばれてきた夕食の膳を前に、誰一人として箸をつけられずにいた。


​「……なあ」


 沈黙を破ったのは田所だった。彼は部屋の隅で頭を抱え、畳の目を指でなぞっている。


「あのガキ、生きてたよな?」

​「……ええ」


 坂本は短く答えた。喉が渇いて張り付いている。


「間違いありません。生きた子供でした」

​「だよな。生きてたよな。じゃあ、俺たちが持たされたこれは、なんだ?」


 田所の視線が、自分の足元に置かれた物体へ向く。

 彼が儀式で選んだ――いや、選ばされたのは、タイヤの取れたブリキのミニカーだった。塗装が剥げ、赤錆が浮いているそれは、蛍光灯の下で鈍い光を放っている。


​「……ゴミよ。あいつらが捨てたかった、汚物」


 ミキが震える声で言った。彼女は持ち帰った曇った手鏡を、両手できつく握りしめている。


「ねえ、考えたくもないけど……あいつらの言うことを真に受けるなら、これって……」


​ 彼女はゴクリと息を飲み、引きつった顔で坂本を見た。


「私たち、『呪い』を分けられた……ってことじゃない!?」


​ その言葉は、部屋の空気を一気に凍り付かせた。


「あの子に溜まってた『不幸』とか『厄』とか……それを小分けにされたってことでしょ? 私たちでゴミを処理させる気なのよ。ねえ、これを持ってたら、私たちどうなっちゃうの?」


​ 坂本は何も答えられなかった。

 否定したかったが、上着のポケットの中にある画用紙の感触が、それを許さなかった。


 黒いクレヨンの塊。

 取り出したくない。見たくもない。


 だが、奇妙なことに、ポケットの中のそれは**「熱」を帯びているように感じられた。まるで、体温を持った小さな生き物が、布越しに太腿へしがみついているような、生々しい温かさ。

 それはミキの言う通り、ただのモノではなく、何かの「種」である証拠のように思えた。


​「食事、どうしますか」


 坂本は恐怖を振り払うように、強引に話題を変えた。


 村人が置いていった食事は、妙に豪勢だった。山菜の天ぷら、川魚の塩焼き、そして猪肉の鍋。

 だが、どれも色が悪い。天ぷらは冷え切って油が白く固まり、猪肉はどす黒い赤色をしている。


​「食えるかよ、こんな気味の悪いもん」


 田所が吐き捨てた。「毒が入ってるかもしれねえぞ」


​「でも、食べないと体力が持ちません。明日の朝一番で、ここを出るにしても」


 坂本は箸を取り、冷えた味噌汁を一口すすった。

 塩辛い。舌が痺れるほど塩分が濃い。

 だが、空腹という生理現象は恐怖をも凌駕する。一度口をつけると、胃袋が痙攣して食物を求めた。

 坂本につられて、ミキも、そして田所も、恐る恐る箸を伸ばし始めた。

​ それが、間違いだったのかもしれない。

 あるいは、この部屋に焚き染められた香のせいか。


​ 食事を終えて三十分もしないうちに、部屋の空気が変わり始めた。

 世界が、ぐにゃりと歪むような感覚。

 遠近感が狂い、天井の木目が人の顔に見え始める。


 田所が、突然笑い出した。

 ヒヒ、ヒヒヒ、と乾いた笑い声。


​「どうしました、田所さん」

「いや、なんでもねえ。……ただ、思い出したんだよ」


 田所は、あの錆びついたミニカーを手に取っていた。

 そして、子供が遊ぶように、畳の上でそれを走らせ始めた。

 ガー、ガー、と畳を擦る音が響く。


​「俺が借金作ったのはよ、パチンコなんだ。最初は勝ってたんだ。運が良かったんだよ。……この車みてえにな」


 田所の目が、虚ろだった。瞳孔が開いている。


「なあ、これ、よく見るとすげえ高級車じゃねえか? 売れば金になるぞ。いや、これ自体が金でできてるんじゃねえか?」

​「田所さん、しっかりしてください。それはただのブリキです」


 坂本が止めようと手を伸ばすが、田所はその手を乱暴に払いのけた。


「触るな! 俺の運だ! 俺が引き取ったんだ!」


​ 田所はおかしくなっている。

 極限のストレスか、それとも食事に何か混ぜられていたのか。

 坂本はミキの方を見た。

 彼女もまた、異変の中にいた。

​ ミキは持ち帰った手鏡を、至近距離で凝視していた。


「違う」


 ブツブツと呟いている。


「こんな顔じゃない。私の顔はもっと綺麗だったはず。あの子が吸い取ってくれたんでしょう? 私の醜さを」


​ 彼女は化粧ポーチを取り出し、狂ったようにファンデーションを塗り重ね始めた。白く、白く、厚く。

 その顔はもはや生きている人間の肌色ではなく、あの儀式で見た子供の顔色――死人のような蝋色に近づいていく。


​ 坂本は恐怖で後ずさり、壁に背中をぶつけた。

 自分だけは正気を保たなければならない。

 そう思った瞬間、ポケットの中で「ガサリ」と音がした。

​ 画用紙だ。

 丸めて突っ込んだはずの画用紙が、ポケットの中で勝手に広がろうとしている感触。

​ 坂本は悲鳴を押し殺し、上着を脱ぎ捨てようとした。


 だが、手が勝手に動いた。

 まるで誰かに操られるように、ポケットからその画用紙を引き抜き、畳の上に広げてしまった。

​ 黒いクレヨンの渦巻き。

 部屋の薄暗い照明の下で、その黒色がぬらりと光った。

​ 渦巻きが、回っている。

 いや、目の錯覚だ。しかし、見れば見るほど、その黒い円の中心が奥へ奥へと沈み込み、底のない穴のように見えてくる。


​『……て』

​ 声が聞こえた。


 耳ではない。脳の芯に直接響く、あどけない、しかし怨念に満ちた声。


​『かいて』


​ 書いて? 何を?

 坂本は気づくと、自分の手帳に挟んでいたボールペンを握りしめていた。

 画用紙の黒い渦巻きが、空白を求めている。

 この絵は未完成だ。もっと黒く、もっと深く塗りつぶさなければならない。

 

 ――自分の命で。


​「うわあああああ!」


​ 坂本はボールペンを放り投げ、頭を抱えて畳に転がった。

 幻聴だ。幻覚だ。

 村人の言う通りだ。この品物には、強いストレスと暗示がかかっている。

 あるいは、ミキの言った通り、本当に「呪い」が伝染したのか。


​ だが、理屈で分かっていても、震えは止まらない。

 田所はミニカーに話しかけ、ミキは顔を真っ白に塗りつぶし、坂本は黒い絵から視線を逸らせない。


​ その時だった。

 静まり返っていた宿舎の外、砂利を踏む音が聞こえた。

 ザッ、ザッ、ザッ。


 一人ではない。複数人の足音が、ゆっくりと、宿舎を取り囲むように近づいてくる。

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