幸運のツケ③
坂本の足は、鉛を詰め込まれたように重かった。 それでも、背後からは村人たちの突き刺さるような視線があり、後退することは許されない。
祭壇代わりのストレッチャーまで、あと数歩。 近づくにつれて、鼻をつく臭いが変化した。線香の煙たさの奥に、消毒用のアルコールと、排泄物が漏れたようなアンモニア臭が混ざっている。 それは「死」の臭いではない。「管理された病」の臭いだった。
ごとり。
また、布団が動いた。 風ではない。中で何かが、激しく痙攣している。
「……おい、これ」
隣にいた田所が、ひきつった声で囁いた。「生きてるぞ。中で誰か、生きてるじゃねえか!」
坂本はゴクリと唾を飲み込み、ストレッチャーの脇に立った。 掛布団の隙間から、中が見える。
そこにいたのは、子供だった。
拘束衣のような白い布で、手足を胴体にきつく縛り付けられている。口にはゴム製の猿轡が噛ませられ、声を出すことも許されていない。子供の目だけが、ギョロリと動いていた。白目が黄色く濁り、焦点が合っていない。強力な鎮静剤か、あるいは幻覚剤を打たれているのだろう。
さらに坂本を戦慄させたのは、子供の皮膚だった。肌の表面に、無数の黒いミミズが這いずりまわっているように見えた。
いや、違う。それは皮膚の下、静脈が真っ黒に変色し、まるで意思を持つかのように並びを変えている。血管が文字の形に隆起している。
『 奉納 』 『 厄受 』 『 一二四番 ・ 満杯 』
文字は皮膚の上にあるのではない。体内に押し込められた真っ黒なヘドロが、皮膚の薄皮一枚を通して透けて見える。
子供の体に流れているのは、血液ではなく真っ黒な「厄」で満たされているのではないか。
ううー、ううー。 猿轡の隙間から、くぐもった呻き声が漏れる。 子供は助けを求めているのではない。体内に詰め込まれた真っ黒なヘドロが飽和し、内側から肉体を食い破られそうになって、苦悶しているのだ。
「……まだ、生きてるじゃないか!」
坂本は思わず叫んでいた。「これを燃やすのか?生きたまま!」
振り返ると、岩田が冷ややかな目で見下ろしていた。
「燃やしませんよ。そんな勿体無いこと」
岩田は事務的に、手元のバインダーに何かを書き込みながら言った。 「この世は幸と不幸の均衡の上にあります。この器はあなた方のような幸運な方のバランサー。ですが、この器の許容できる不幸はもう一杯になった。だから、蓋をして、村の地下にある『貯蔵庫』へ移すだけです。そこで、ゆっくりと時間をかけて、中で熟成した不幸が枯れるまで、生き続けてもらいます」
死なせてすらくれない。死ねば不幸が霧散するから。この子供は、村中の、いや、坂本たちのような「運の良い人間」が排出した汚泥を一身に背負わされ、永遠に地下の暗闇で腐り続けるのだ。生きたバランサーとして。
「さあ、拝みなさい」 神職の老人が低い声で命じた。
「お前たちが五体満足で、今日までヘラヘラと笑って生きてこられたのは、この子が代わりに泣いていてくれたおかげだ。感謝しろ。そして、その罪の一部を持ち帰るんだ」
坂本は膝から崩れ落ちそうになった。ポケットの中の画用紙が、熱を持ったように重く感じる。
これは、この子が描いた絵だ。光のない地下室で、正気を失いかけながら、黒いクレヨン一本で塗りつぶした心の叫びだ。
自分は、加害者だ。この村に来たことで、被害者になったのではない。のうのうと生きてきた時点で、すでにこの理の一部だったのだ。
「……っ」 田所が嗚咽を漏らし、その場にしゃがみ込んだ。
ミキは顔面蒼白で、震えながら合掌している。
坂本もまた、震える手を合わせた。目の前の子供と目が合う。子供の目が、スッと細められた。それは助けを求める目ではなかった。
『おまえも、こっちにおいで』
言葉にならない呪詛が、直接脳内に響いた気がした。
「これにて、引継ぎの儀を終了とする」 神職の老人の声が響き渡ると同時に、屈強な男たちがストレッチャーを乱暴に押し出し、奥の暗がりへと運んでいった。遠ざかる子供の呻き声が、耳にこびりついて離れない。
「さ、宿へ戻りましょうか」岩田が、何事もなかったかのように明るい声を出した。 「明日は村の案内がありますから。逃げようなんて思わないでくださいね。山道は夜になると、出るんです。熊よりももっと、たちの悪いものが」
坂本たちは、逃げる気力すら奪われていた。外に出ると、夜の闇が村を覆い尽くしていた。点々と灯る家の明かりが、すべて監視の目のように見えた。
ポケットの中の「ツケ」を握りしめ、坂本は深い絶望と共に、長い夜の始まりを迎えた。
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