幸運のツケ②

 玄関をまたぐと、そこはもう別の世界だった。外の湿り気とは違う、もっと濃密で、脂っこい空気が漂っている。白檀の香りに混じって、防虫剤のナフタリン、そして古本屋の奥のような黴の臭いが鼻腔に張り付く。


 案内された広間は、三十畳はあろうかという大広間だった。天井は高く、梁は黒く煤けている。部屋の四隅には行燈が置かれ、ゆらゆらと頼りない橙色の光を放っていた。


「……なんだ、こりゃ」 田所が素っ頓狂な声を漏らした。


 広間の中央には、焼香台へと続く長い花道のようなスペースが空けられている。その両脇――畳の上に、赤い毛氈が敷かれた小さな台座が、点々と、まるで海の「浮島」のように配置されていた。


 それぞれの「島」の上には、脈絡のない品々が置かれている。ブリキの車、片方だけの靴、角の擦り切れた絵本、そして画用紙に描かれた稚拙なクレヨン画。  どれも、明らかに幼い子供の持ち物だ。


 一見するとほほえましい思い出の品だが、しかし、そうは見えなかった。薄暗い照明の下、それらの品々は黒ずんで見え、まるで周囲の光を吸い込んでいるかのような、質量のある「重み」を放っていた。


「並んでください」

 岩田に背中を押され、坂本たちは列の最後尾についた。先客がいる。村人たちだ。十数人の村人が、無言で列を作っている。彼らは喪服ではなく、泥で汚れた作業着のままだった。手には数珠ではなく、なぜか厚手の軍手をはめている者もいる。


 列の先頭、焼香台の脇には、白装束を着た老人が立っていた。村の神職だろうか。老人は、焼香を済ませた村人が「浮島」の品物を一つ手に取るたびに、深く頭を下げて何かを呟いている。


「あの、あれは何をしてるんですか?」ミキが小声で岩田に尋ねた。


「形見分けですか?」


「いいえ」

岩田は真顔で答えた。 「『ゴミ出し』ですよ」


「は?」


「あそこに置かれている品物は、今回の『依代』となられたお子さんが愛用していたものです。つまり、その子自身の念と、村中から吸い上げた『厄』が、最も染み付いている高濃度の汚染物です」

 岩田は、放射性廃棄物の処理について語るような口調で続けた。

「一箇所にまとめておくと、臨界点を超えて村に災いが溢れ出します。だから、こうして少しずつ小分けにして、皆で持ち帰り、それぞれの家で『消化』するんです」


 ―消化。その言葉の意味を考える暇もなく、列が進んだ。


 前の村人が、浮島の一つから「子供用の傘」を手に取った。その瞬間、村人の肩がガクンと沈んだように見えた。物理的な重さではない。目に見えない鉛の塊を背負わされたような、苦悶の表情。

 村人は傘を大事そうに抱えるのではなく、忌々しい汚物を扱うように体から離して持ち、逃げるように出口へと走り去っていった。


「冗談じゃねえぞ」

 田所の顔色が蒼白になっている。「俺たちにも、あれを持っていけってのか?」


「当然です。貴方達は、外から来た新しい『処分場』なんですから」

 岩田の声から、完全に感情が消えた。「幸運のツケを払いに来たんでしょう? だったら、他人の不幸を少しばかり背負って帰るのが、道理というものです」


 逃げ場はなかった。広間の入り口には、屈強な青年団のような男たちが、腕組みをして立ちはだかっている。 坂本の番が近づいてくる。 心臓が早鐘を打つ。


 すぐ前の列にいた中年女性が、震える手で「ぬいぐるみ」を掴んだ。 熊のぬいぐるみだ。片目が取れていて、綿が飛び出している。

 女性がそれを掴んだ瞬間、 『……あ、そぼ』 微かに、だが確かに、ぬいぐるみの綿の中から声がした気がした。女性は悲鳴を上げそうになる口を手で押さえ、涙目でぬいぐるみを鷲掴みにして走り去った。


 次だ。坂本の番が来た。


 神職の老人が、濁った目で坂本を見据える。

「さあ、選びなさい。お前の業に見合った、重たいやつを」


 坂本は、目の前の浮島を見下ろした。残っている品は少なかった。その中で、ひと際異彩を放つものがあった。

 黒いクレヨン一本で塗りたくられた、画用紙。何が描かれているのか分からない。ただ、黒い渦巻きのようなものが、幾重にも、幾重にも重ね書きされ、紙が破れるほど強く塗りつぶされている。


 直感が告げていた。 ―これには触れてはいけない。


 だが、後ろの岩田が、坂本の背中をトンと突いた。「どうぞ。それがお気に召したようですね」


 坂本は、何かに操られるように右手を伸ばした。 指先が画用紙に触れる。

 奇妙なことに、数年前もものに見える絵は、クレヨンの黒い線はまだ新しかった。べとり、と濡れていた。

 コールタールのようにねばつく黒が指紋の溝を侵し、皮膚の裏側、自分の内側へ浸透してくる。これは汚れではない、自分の一部がこの黒と同化してしまったと直感した。

 坂本は吐き気をこらえながら画用紙を丸め、ポケットに押し込んだ。ポケットが急に数キログラム重くなった気がした。


「結構」

神職の老人が満足げに頷いた。 「では、仕上げだ。あの方に挨拶をしてきなさい」


 神官が指差した先。 広間の一番奥、祭壇があるべき場所。 そこには棺も、遺影もなかった。


 あるのは、無機質な金属製の医療用ストレッチャー。 そしてその上に、何重にも重ねられた分厚い布団が、こんもりと盛り上がっていた。


 坂本が息を呑んだその時。 布団が、ごとり、と動いた。

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