第5話 しあわせのひととき

 陽光の射し込む窓に目を遣ると、外から小鳥たちの啼き交わす囀りが聞こえた。

 夜が明けたか。私は寝台に身を起こした。

 かつては特に睡眠を必要としない身体であったのだが、魂魄も肉体も喰らう事を止めてしまって以来、眠りもヒトのような食事も要する構造に変化したらしかった。ヒトを超越する者であったのにヒトと変わらない生き方。とは云っても人間ほど頻繁な睡眠や食事が必要なわけでもなく、ほんの僅かばかり膚に触れればその者の精気を吸収しエネルギィと成せるのだが。

 昨夜は随分と旧い話をしてしまったものだ。けれどこの胸裏に深く刻まれたあの青年を想う気持ちは忘れ得ぬもの。児戯のような恋に似たそれを、悔んでも恥じてもいない。それよりも私がヒトでなく魔族であることがセフィにとって忌まわしきものとならぬか、些か気懸りにもなった。伯爵の耳に入ればこの邸での滞在も続かぬであろう。平穏も終わるか。そのようにみえた。

 だが。

「クリス様。お目覚めでいらっしゃるかしら?」

 少女の声が聞こえた。

「どうした? 入っても構わぬが」

 応えると、かちゃ、と扉が開いてセフィが勢い良く室内に駆け込んで来た。

「とても吃驚致しましたの、聞いてくださる? 先程電報が入りまして、ウィル兄様がもう間もなくお帰りになりますのよ! 嬉しくて私、どうしたら良いのかしら。ねえ、お判りになりまして?」

「ううむ。生憎離れて暮らす肉親と云うものを知らぬのでな、私では判り兼ねるよ。嬉しそうだな、セフィ嬢?」

「嬉しいに決まっておりますわ。ウィル兄様、休暇でも時折にしか邸に戻られないのですもの。とても久し振りにお会い出来ますの。ああ、お兄様の好きな生姜の焼菓子を作らなくちゃ」

「菓子を焼けるのかね?」

 少々感心した。厨になど入った事もないのではと思っていたのだが。

「生姜をすり下ろして小麦粉を練って焼きますのよ。少し固いのですけれど、爽やかなお菓子が作れますの。私の得意でウィル兄様もいつもお喜び下さるんです。腕を奮いますからクリス様も召し上がってくださいね」

 はしゃぐ様子に少々圧倒される。無邪気なもので先程の懸念はあっさりと払拭された。この娘には要らぬ考えだったらしい。久しく会う兄君か。このような娘に慕われる兄も幸福であろう。

「それでは君はエイダと菓子作りなのだね? ならば私はオーゼロフ村を散歩させて貰おう。近頃は何かと世話になったものだ、解放せねばな」

「では失礼しますわね。でも朝食はまだご一緒出来ましてよ」

「そう急くな。着替えねばならぬのだからな。さあ乙女は退出するものだよ」

 セフィを追い遣って、私は絹の夜着を着替えいつも通りヴロォチを留める。ジェラルドの遺髪を封じているこの多面に磨かれた水晶のヴロォチは、肌身離さず身に着けているものだった。彼の髪は鮮やかな金髪だった為、ヴロォチはさながら金針水晶のように煌めく。今朝はひと際透き通って見えるのは、彼を喪った過去を吐露したことで私の中のわだかまりが幾らか解き放たれたのかも知れなかった。

 ずっと胸の裡は濁っていたのだろうかと食堂に向かう廊下を歩みながら思った。これまで誰に話す事もなかった、一人の絵描きとの魂に刻まれた記憶。ジェラルドの絵と再会して、彼に似た海の瞳がそれを思い起こさせた。

「不思議な娘だよ、セラフィーナ」

 そっと独りごちた。村へ出掛けたら蚤の市で何か見繕ってやろうかなどと考えながら。


 彼誰時のエルフィンストーン邸は蝋燭の灯りでオレンヂに浮かび上がって私を迎えた。馭者のグレッグが馬車を厩舎に向けて進める様子が目に留まる。セフィの用事ではないであろうから、噂のウィルフレッドが帰ったのだろうか。そう考えて問うてみた処、グレッグは幼子を見る眼差しで微笑まし気に目を細めた。

「久しくご家族がお揃いになられて、御主人様も大層お喜びでいらっしゃいます。お嬢様のはしゃぎようと云ったらそれはもう可愛らしくおられまして、我々も喜ばしい限りでございます」

「従者からもその様に思われるとは、いい主に仕えたようだな」

「お客様こそ、あの時セラフィーナお嬢様に救われたのは大層な御好運であったことと思います。あの方は御不自由にしておられる者を放っておけない御気性であられますから」

「その節は感謝している。ありがとう」

 グレッグに銀貨を握らせ、私は邸へ戻った。セフィへと髪飾りを見繕って来たのだが、兄君の帰邸にはこのようなささやかな贈り物など比になるまい。思わず微苦笑が漏れた。これでは兄君への嫉妬ではないか。

「ああ、クリス様お戻りですのね! ウィル兄様、この方ですのよ。とてもお優しい方」

 邸に入るなりセフィの明るい声がした。

「セフィ、そんなに引っ張らなくていいよ。僕はここにいるから」

 応える甘いテノールは優しく響いて、これがセフィの大切な兄君かと顔を上げると、兄妹と云われて納得出来る面差しがそこにあった。すっきりと整えられた短髪は明るい白金。瞳は母親譲りと思われる橄欖石の緑。スポォツを嗜むのか、優男然とした容姿に対してなかなか精悍な身体つきをしている好青年だ。

「ロード・ウィルフレッド・エルフィンストーン・アールス・オーゼロフです。妹の我儘に付き合わされているそうですね。困惑されてなければよろしいのですが」

「クリスティアーノ・アマーティだ。君がエルフィンストーン伯の後継者かね? セフィ嬢自慢の兄君と聞いている。いい娘だな、君の妹君は」

「恐縮です」

 握手と共にそう挨拶を交わすと、傍らでセフィがムッとした表情を浮かべる。

「ウィル兄様もクリス様も酷いこと仰るのね。私そんなに我儘かしら」

「我儘と云うか」

「まあ淑やかとは云えぬであろう?」

「お二人とも失礼なんだから! ふふっ」

 拗ねた顔をしながらも笑い出すセフィにつられて私達にまで笑みが零れる。このような妹を持った兄君も苦労が絶えまい。頃合いも良さげであったので、私は懐に収めていた銀細工の髪飾りをセフィへと手渡した。

「蚤の市で見つけた。百合の花を透かし彫りした銀細工が美しかったものでね。君の髪によく映えよう」

「素敵ですわ。頂いてしまってよろしいのかしら」

「寧ろ受け取って貰わねば私も立つ瀬がない」

「ふふ。では頂戴致しますわね。ねえエイダ、夕食の前に髪を結ってくれるかしら」

「かしこまりました。きっとよくお似合いになられますよ」

 エイダが微笑む。娘たちはこういう時の華やぎが愛らしい。きゃあきゃあとはしゃぎ声で廊下を行く二人を見送って、ウィルフレッドと笑い合った。

「良い妹君だな」

「そうでしょう?」

 当然と云わんばかりに応えるウィルフレッドはさも妹が愛おしいようで嬉しそうだ。

「あ、でもあげませんよ、僕の目に敵わない人には」

「ふふ」

「なんです?」

「父君にもやらぬと云われておってな。狙って見えるのかな、私は」

「あの娘を要らない男は許しません」

「……どちらなのだそれは」

 可愛がっているらしいことは非常によく判った。

「ああ、間もなく夕食の刻限です。外套は客間へどうぞ。セフィも髪を仕上げれば食堂に来る筈です」

 金の懐中時計を開いてウィルフレッドが云った。私は首肯して客室へと爪先を向ける。その後の晩餐は日頃より豪華な振舞だったのはウィルフレッドの帰省を祝しての事であろう。伯爵も葡萄酒が進み饒舌になって、ウィルフレッド不在の退屈とセフィの事、果ては私がここに厄介になった経緯も含めひどく愉し気に語った。真っ当に機能している家族の団欒というものは美しい。私は杯を煽りつつ話を聞いて過ごした。いつになく賑やかな食卓は華々しく、ヒトではない私でさえも心安らぐひと時となった。

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