第4話 忘れえぬもの

 或る食卓の席。

「……何だこれは。苦いな」

 瑞々しさに満ちた野菜のようだが、咀嚼するとじわりと苦味が拡がる。美味とは云い難いサラドが卓子に上がり、私はつい眉を顰めた。そんな私にセフィは怪訝な様子で云った。

「何って、チシャのサラドよ。召し上がったことはなくて?」

「チシャ? 乳草のことか」

 乳草は生食の野菜で、収穫の折切り口に白い水分が滲むことからそう名付けられたものだ。サラドやソテェで食するが苦味を好まぬ向きもあるようで、これまで契約した人間にも嫌う者がいた。

「あら、随分と旧い云い回しをなさるのね。お祖母様がこれを乳草と呼んでらしたわ。病み上がりのお身体によろしくてよ。お召し上がりなさいな」

「これは好かぬ」

「まあ」

 セフィは愉快そうに笑った。

「でしたらこちらのお肉を包んで召し上がって? 私も幼い頃はそうしましたの。ちょっぴりお行儀悪いですけれど」

 云われて、やむなくソテェされた鹿肉と共に食すと肉の臭みとチシャの苦味が相殺して食べやすい。

「成程、これなら食べられるな。作法としては褒められたものでもないが」

「子供を持つ年頃になった時食べられないと困るだろうと、お母様に云われましたの。慣れてしまえばそのままで戴けるようにもなりますし」

 澄まして云う。そういうセフィもまだ子供のようなものだが、それは云わずにおいた。こういう家柄では早い婚姻も珍しくないことも鑑みると、少女は早く大人になろうとする。

「アマーティ君」

 食卓を共にしていた伯爵は云った。

「セフィにそう云われておっては良くないぞ。その娘は好んで食さぬものも多い」

「お父様!」

「ははは。否定は出来まい?」

 伯爵が云うと、夫人も小さく声を立てて笑った。

「あなたはセラフィーナで遊ぶのをお止しくださいな。だからこの子はいつまでもあなたにべったりなのですよ?」

「お母様まで私を子供扱いですの?」

「子供だろう」

「子供でしょう」

「子供だと思うが」

「今どさくさに紛れて何か仰ったクリス様とは後でじっくりお話致しましょうか」

 何か云われた気がするが、仲の良い親子は微笑ましい。こういう関係でいられるのは良い事だと、そっと胸元のヴロォチに手を遣る。彼には得られなかった平穏な親子の関係だ。

 邸に雇われた料理人に謝辞を述べ、食事を終えた我々は各々卓子から席を立つ。

「ああ、そうだセフィ、ちょっとおいで」

 私に続いて食堂を退室しようとしてたセフィに伯爵が声を掛けた。

「クリス様、ちょっと失礼致しますわね。なぁに、お父様」

 父親の元に駆け寄るセフィを見送り、私は退席する。この頃は過去に契約した者たちの成功と終焉を物語めかして話し聞かせるのが常となっていた。呪わしい話ばかりではあったものの、そういったものと無縁の育ちであるセフィには新鮮に映るらしかった。皮肉なものだ。我が邪悪さがお育ちの恵まれた姫君の好奇心を満たすのだから。

「クリス様!」

 セフィの声が背を叩く。

「お父様が貴方を知っているように思われた理由が判りましたの。お父様の蒐集品室をご覧になって」

 客室へと戻りかけた私の後を追って、セフィが小走りに駆け寄って来た。エイダがその傍らにラムプを掲げている。先程伯爵と何やら話し込んでいた理由はこれか。ラムプもなしに見られぬものとは? 私は首肯して彼女の華奢な背を追うと、伯爵が蒐集した品を集めた部屋には美術品や古めかしい甲冑などが整然と並べられていた。その夥しい絵画の一枚を前に立ち止まったセフィが呼吸を弾ませて云った。

「この絵に描かれている魔物が、クリス様にとてもよく似ていらっしゃるのよ。恐ろしいのにうつくしくて、邪悪なものの筈なのに優しくて、不思議な絵ですの。ご覧になってくださいな」

 ラムプに浮かぶ大きなキャンバスに目を遣ると。

「……!」

 息を呑んだ。

「これ、は」

 何故だ。

 どうしてこれがこのような場所にある? まさか。まさかこんな。

「あまり高名な画家ではないみたいなんですけど、好事家の間では評価の高い画家さんなのだそうよ。名を、ジェラルド・ピエリ。──この絵があったからなのかしらね、貴方に魔性を感じたのは」

 楽し気な少女の声を余所に思う。ジェラルド・ピエリ。それは契約を結ぶことなく終わったかつての獲物……いや、ただひとりいとおしく思った人間の青年。こんな場所でお前の絵と再会するなど誰が思う? ジェラルド、お前の絵は認められたのだな。懐かしむ思いでその画面に指を伸ばす。繊細でありながら力強くもある筆致で写し取られた魔性の者は、まごう事なき私の姿だ。

「……願いを叶え彼を我が糧としたならば、何かが違ったのだろうか」

 ぽつりとそう呟いて、ヴロォチを強く握った。このヴロォチの水晶には彼の髪の毛を封じている。あの青年を喰らうていたなら、彼は私の一部として永らえることも出来た。ジェラルドに会うまでは当たり前にしていた事なのだから。魂を喰らい、肉体を頭ごと喰らい我が血肉とし、天にも地にも堕ちる事のない永遠を与え生まれ変わる事もなく永らえる、生でも死でもない終焉。そうやって終わらせた命のただ一つさえ、私は記憶してはいない。身体の裡から泣き叫び解放を乞う魂の声なんてものは雑音でしかない。しかし彼ならば、私は私の裡に彼を住まわせ語らうことも。

「……様、クリス様!」

 セフィの声に私は我に返った。

「そんなに驚かれまして?」

「いや、ああ、すまない。ぼんやりしていた。懐かしくてつい、な」

「懐かしいだなんて、もしかしてこちらの絵画を御存知でしたの? お父様はこの邸に旧くからあるもので画家も有名な者ではないと。クリス様の故国のお方かしら」

「そうだな、『今の私』の始まりではあるから故国と云うのも間違いではないであろうな。この絵のモデルとなったのは私なのさ」

「え? これ、とても旧いものですわよ?」

「信じられぬやも知れぬな、私の本来の姿が魔性であると。もう何百年とこの世を彷徨い、生き続ける魔物なのだよ。そしてこの絵の作者であるジェラルドは私の──友だ」

「そんなお戯れを仰るなんて──御冗談ですわよね?」

 少女の眼差しが揺れる。その傍らでエイダが後退った。それまでになかった畏怖の色が浮かぶ。エイダのヒッと息を呑む音が微かに聞こえたのは、恐らく昏い室内でも私の金の瞳が煌めいて映ったのだろう。こういう室内でこそ私の眼差しは際立って魔をさらけ出す。

「これまでに」

 私は云う。

「私が話し聞かせた、魔物に魅入られ欲望を果たし喰らわれた人間たちの人生を、少しは記憶しているかな?」

「願いが叶った者は生きるでも死ぬでもなく、魔性の身体に取り込まれて消えないという、あのお話かしら? あれは物語なのでは」

「否」

 それを語るのは容易い。

「全て現実だよ。彼等の魂は我が身の裡にある。今も泣き叫んでいるのだよ。終わらせてくれ、死なせてくれ、解き放ってくれ──と」

 転生も叶わぬ魔性に取り込まれた亡者たちの悲哀。食すことに憐みを覚えたのはジェラルドに巡り合ったからだ。澄み渡る魂に疵をなすばかりの希みを刻み、うつくしいものを描くことのみに生きた男。私は彼を愛したのだろうかという疑問は消え遣らぬまま数百年の刻を永らえた。

「私には出来たのだよ。その青年が宮廷画家になる夢を叶えることも、悪性の腫瘍を消し去り命を長らえさせることも。けれどそれをしなかったのは彼との出会いを尊重したかったからだ」

 古の彼方となった、けれど深く刻まれた記憶は褪せることなく私の中に留まり続ける。

「彼の望みを彼自身の実力で勝ち取らせ、私との契約とならぬよう、死して私の贄とならぬよう、幸福な最期を看取りたかったのさ。なんという女々しさだろうな。可笑しいだろう? 笑ってくれたまえ。彼を失って以降ただの一人として喰らうことなく生きた。朽ち果てるまで魔力を行使して下級使い魔の餌にしてやるだけで生きている。愚かだと、私でさえも思うよ」

 誰に話す事もなかった過去。この少女に語り聞かせた処で戸惑わせるだけだろうに、それでも話してみたくなるのは、彼女の瞳が懐かしさを誘うためだろう。何故ならそれは。

 ──似ている気がしたから。

 そう、似ているのだ。彼の──ジェラルドの眼差しに。

 セフィは暫し押し黙った。エイダさえも私への畏れを忘れた様子でこちらを見つめる。魔を背負いながら何と云う矛盾かと呆れたかもしれない。憑り殺す事無くヒトとしての死という祝福を与えた愚かさを。

「祝福ですって? そんなことに囚われて生きるでも死ぬでもなく彷徨い続けていたと仰るんですの?」

 静かに、独白に近い声音でセフィは云った。

「貴方が真実魔の者であるなら御存知ですわよね? 祝いと呪いは表裏一体。祝福を求む裏側で呪いが生まれる事もあるのだと」

 ラムプに照らされた薄闇の中でさえもうつくしい色白の肌と淡い金髪が仄かに浮かび、美貌の少女はいやに大人びた表情で密やかに言葉を紡ぐ。

「その方に死の祝福を捧げたと仰るなら、私が貴方を呪って差し上げてよ? 恨んで差し上げても良いですわ」

 しずかな声音。

「救えたはずなのにそうはなさらなかった。みすみす見殺しにした。それはお相手の方を失いたくないただの欲望。生まれ変わって来世こそ幸福に在れと希ったから。そんなの愛なんかじゃないわ。身勝手な欲望よ。お相手の方は寧ろ貴方の糧となって死すことを望んだ筈だわ」

 ついと腕を伸ばし、しなやかに細い指が私の頬に触れる。セフィの大きな海の瞳は濡れて揺れていた。

「だって今の貴方はこんなにもボロボロなんですもの。このような様の貴方をお相手が望んだと思って? 判らないのなら私が云って差し上げますわ。私は貴方の中で貴方の糧となって生き続けたかったと」

「願いも満たすことなく死なせたのはエゴだと思うかね? そうだったやも知れぬ。彼は私がヒトではない事を知りながらも短い期間ではあったが共に暮らした。そこには私が彼を殺しはしないとの信頼ゆえと、そう受け止めたものだったがね」

「あら、きっとそれは私でも信じましたわ。殺されなどしないと。だって」

 彼女は言葉を探す素振りで、けれど続けた。

「貴方は魔性の者であっても、とてもお優しい方だと思いますもの。それにね」

 小さな笑みを浮かべて云う。

「チシャも食べられない魔性なんて、私は怖くなんてありませんわ」

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