最終話 真実、そして別離

 短い休暇を邸で過ごしたウィルフレッドが、寄宿学校へ戻る汽車に乗るため、駅へ向かう馬車に乗り込もうとした時、不意に思い出した様子で振り返り私を見た。

「そう云えばクリスティアーノさん」

「私かね」

「以前何処かでお会いしてますか? 最初にお話した時も少し思ったんですが、初めて会った気がしなくて」

「……それは」

 少々言葉に詰まった。私が人外であることを知っているのは、あの絵を前にした時共に居たセフィとエイダだけだ。

「ウィル兄様、その件につきましては吃驚する仕掛けがありますのよ。次にお戻りになられた折に種明かし致しますから、暫くお悩みくださいな。そうしたらまた邸に帰りたくなるでしょう? 偶にしかお戻りにならないんですもの、セフィは退屈ですの」

「秘密の仕掛けがあるのかい? じゃあ次の休暇も寮には残らずに邸に戻るしかないかな」

 軽く笑って応じると、ウィルフレッドは馬車に乗り込んで家族と私に軽く手を振った。グレッグが合図して馬車は走り出す。名残惜し気な様子で馬車を追うように駆け、見えなくなるまで手を振っていたセフィが落胆したように云う。

「これでまたウィル兄様に会えないんですのね。ああ、私も同じ寄宿学校に行きたいくらいですわ」

「それは女性の地位向上を目指して革命するしかないだろうな。これでも今は随分と女性に優しい時代に進歩しているけれどね」

「先は長いですわね、その計画では……今すぐ一緒に行きたいくらいなのに。でも就学するのは十一歳ですから、私は今から学校に行く理由が見つからないし……」

「本気で企むのは止めた方がいいと思うぞ」

 真顔で思案に耽るセフィに釘を刺して、邸の中に戻るよう促すつもりで彼女の肩に手を掛けた。その刹那。

「──!!」

 稲妻めいた衝撃が全身を貫いて、私はセフィの中に『何か』を見た。セフィが驚愕の瞳で私を見返す。

「今……」

「いいや、気のせいだよセフィ嬢」

「見えましたわ、何かが! 貴方の触れた場所から何かが流れ込んで、何か……何かが……」

「気のせいだ、忘れたまえ」

「でも」

「いけない。これは君の為にならないものだよ。忘れなさい」

 繰り返した。そうだ。これは『良くない記憶を呼び起こす』ものだ。だからこの娘の為にも。

「私もそろそろ旅立たねばならぬ。だから──忘れなさい」

 華奢な肩に触れた掌を強く握り込んで私はそれだけ云った。絞り出す思いで。

 ──何故。

 臙脂の絨毯が敷かれた長い廊下を客室へと進みながら私は思う。

 何故これまで察する事も出来ずにいたのだろう。それとも気付きたくなかったのだろうか。こんな見え透いた簡単な事実から目を叛けようとして私は。

 けれど。

 けれど叶うなら。

 気付かぬままこの邸から旅立つ事が出来ていたなら──いや。

 こんな形にしかなれはしなかったのだ、多分、あの娘とは。きっとこのためにあの日、私は彼女に──と、巡る思いの中、私は客室にあった荷をまとめ旅立つ身支度を整える。そこへ。

「クリス様!? ねえ、ご様子がおかしいですわ。それに先程何か」

 セフィが後を追って駆け寄り、私の腕を掴もうとするのをやんわりと振り解いて云う。

「触れるな……!」

 低く抑えた声を絞り出した。

「触れないでくれ、頼む」

 気付いてしまうから。君が。


 セラフィーナがジェラルドの転生した存在であることに。


「……!」

 私は片手で顔を覆って天を仰いだ。

 あの時いつの日か転生する事を希って、喰らうことなく往くべき場所へと還したあの青年の魂魄。それがこんな場所で出会うと誰が思う? 気付かなかった。気付けなかった。先刻彼女の肩に触れたその瞬間まで、少しも。思えば彼女が伯爵令嬢と云う事もあってかその身に触れるのは避けていたように思う。触れればその刹那、判ってしまう事を半ば知っていたのだろう。だから触れられなかったのだ。

「君は知らぬままでいた方が良かろう。だから私に触れてはならぬ」

「知らない方がよろしいことなどありませんわ。後で悔やむ事になろうとも、真実を知らずにいて良い事などありはしません」

 真っ直ぐにこちらを見つめる海色の瞳に既視感を覚えたのも、それがジェラルドと同じ眼差しであったからなのだと、今更のように思い知らされる。この瞳をずっと見ていた。

「強気だな。本当に後悔するぞ」

「しません、絶対に。仮令悔やむ事となっても構いませんわ。貴方がそんな──哀しい眼差しをなさるほどの事があるのなら、寧ろ知らなければならないと思いますもの」

「……ならば視るがいい。これが君の『記憶』だ」

 私はセフィの腕を掴んで引き寄せ抱き竦めた。押し寄せる記憶の奔流。私の腕の中で絶筆の筆を取った、死を目前にしてさえも絵筆を離さなかったジェラルドの最期。腕の中で小さな身体が僅かに震えた。

 細い背中を抱いた腕を解き、セフィの瞳を覗き込むと海色の濡れた眼差しが揺れた。それはもう知ってしまった色だった。

「……視え、ました……貴方と暮らしていた頃の私が。私は画業に務める男性だった事があったのですね。いつも小さな画廊へ絵を持ち込んでは生計を立てて、暮らすには困らない程度の収入があって。今の私のように裕福ではないけれど満ち足りてました。けれど叶えたい希みがあって──これは何? これがあの、前世の記憶とか云う……?」

 セフィは少々混乱している様子で呟いた。自分自身に確かめるが如くに。私は身を引き裂かれる気持ちで応えた。

「そうだよ。君は君の希みを自ら勝ち取ろうと生きていた。そして君は今を生きるよりも随分と昔に私と出会っていた。名もなき画家のジェラルド・ピエリとして、束の間の刻を共に過ごしていた。私は君の転生を希み、待っていたのだよ。いつか再び君が幸せな生を享ける事を確かめる為に」

 生まれ変われるならば幸福に生きられるよう願った。ヒトならざるモノ、神を否定するモノでありながら神に運命を託した。どうか幸福な生を享けてくれと祈った。魔性であることも顧みずに祈った。巡り会う事は叶わずともただただ幸福に生きることを。

「クリス様はずっと御存知でしたの? 私をジェラルド・ピエリと知って──ああ、違いますわね。貴方がヒトではない事を告白して下すった折にはそのような事は仰らなかったのですもの。ではいつから?」

「先刻、君の肩に触れた瞬間に気付かされた。君の魂魄がジェラルドのものだと、君に触れた時に知ったのだ」

 知らぬままでいたなら、何と云う事もなくこの邸を出て再び新たな旅へと向かい、二度と巡り逢わぬままこの娘は生を終え、違う時代へと転生したのかも知れない。それでも。

 知ってしまった。あの日私の腕の中で鼓動を止め体温を失い、指先から硬直して死出の旅路へと向かった青年は今、少女の成で私の前にいる。これは出会わなければならない事と決まっていたとでも云うのであろうか。

「だからあの日私は、貴方をこの邸へと連れ帰ったのかも知れませんわね。魂が覚えていたのかしら、貴方がクリスティアーノであることを」

「判らぬさ。それでも私達は出会ってしまった。だから今私はここに在る」

「私にも判りませんわ。ただ私共の馬車の前に倒れた貴方を見つけた時、貴方が悪い人だとは少しも思いませんでしたの。何処かで知っていたのかも知れませんわ。貴方と会っていた遠い昔を。これまでセラフィーナとして生きていた事に偽りは御座いませんけれど、覚えていますの。今更のようですけれど思い出しましたの。貴方は誰よりも近い場所で私を見守ってくれていた事を」

 つうと透き通った涙が白い頬を伝い落ちた。堪らぬ思いで私は胸元のヴロォチに手を遣った。ジェラルドの遺髪を封じた冷たい水晶が、今は酷く熱い。この石の中でジェラルドが喪った魂魄との再会を歓んでいるようにも感じられて、痛いほどに熱い。

 セフィの眼差しがヴロォチを捉えた。するりと伸ばされた指が石に触れる。

「私の遺髪でしたのね。いえジェラルドの、と云うのが正しいのでしょうけれど──不思議ですわ、懐かしい心地さえ致しますの」

「欲しいかね?」

「え?」

「望むなら君にやろう。そして私はこの邸を出る」

「そんな、だって漸く私は貴方を」

「だからだよ」

 私は云う。

「この邸から旅立たねばならぬ。思い出したのだから尚更だ。いつまでもここに留まっている訳には行かぬ。君の──あたらしい人生を幸福に生きて貰う為にも、私はもうこの場所にはいられぬのだ」

「何故ですの? こうして再びお会い出来て、互いにそれを理解して、それでも尚共にいることが叶わないなんて」

「簡単な事さ」

 真実だけが全てではない事など、この娘にはまだ理解の及ばぬものやも知れぬが。

「今の君はジェラルドではない。『ジェラルドの記憶を持ったセラフィーナ』だ。それは君自身もそう云ったではないか、セラフィーナとしての生は偽りでないと。同じ魂のうつくしさを持っていても違う個体なのだから、君は君の生命を全うせねばならない。私と共に在る事など叶わぬことだよ」

「でも……!」

「君は君のお父上とお母上、そして兄上を捨てられるのか。エイダも残して私について来られるのか。人間の女の身で私と共に生きる事は容易くはないのだぞ」

 漸く見つけたお前を手に入れる事が叶わずにいて良いのではない。ただお前には生きて欲しい。このような環境に生まれ落ちたならば、今生ではもっと幸福に生きる事も出来よう。それを奪う事など私は求めない。

「かつて君は云ったな、ジェラルドは私に喰らわれて血肉となり私と共に生き延びる事を望んだはずだと。それは今の君もそうなのか? しかし仮令そう望まれていようとも、君はこの伯爵家の令嬢として今の生を全うする事こそが私の望みなのだ。君は私の願い通り転生した魂でこうして私とまた出会ってくれた。それだけで充分なのだよ。理解しなさい」

「……」

 セフィは言葉を失う。ジェラルドの記憶を持った上でこのように私と対峙したのだ。迷いもあろう。けれど私はこの娘を連れ出す事は望まぬのだ。

 ──と。

「お嬢様? どちらにいらっしゃるのですか!? どうしてそう目を離すとお逃げになるんですか。今日もそろそろ家庭教師の方がいらっしゃるので、お部屋にお戻りください。何処にいらっしゃるんです?」

「ああほら早速エイダが君を探している。逃げられぬよ」

「でも」

「聞き分けなさい──君が年老いた時幸福でいられなかったらその時は、今度こそ君を喰らうと誓おう。だから今はさようならだ」

 海色の眼差しが涙に濡れて煌めく。その美味しそうな魂の色そのままにうつくしく透明に光る。私は滑らかな柔らかい頬を辿り、顎に指を絡めた。

「迎えに来る。約束を残そう」

 囁いて。

 幼さの抜け切らぬ少女の唇にそっと接吻した。涙の味を舐めとり、解放する。

「幸せになりなさい、レディ・セラフィーナ・エルフィンストーン・アールス・オーゼロフ。君に逢えて良かった」

「クリス……」

 哀しみの色濃い声音を背中で聞いて、私はエルフィンストーン邸を去った。途中廊下ですれ違ったエイダが不思議そうに私を見たが、特別言葉は掛けない。魔性の者に出会ったことも、エイダにはひと時の記憶としていずれ過去になる。ジェラルドだった頃を知ってしまったセフィが、初めて会った時に云っていた『恋をしたい』と云う願いを叶えられるかは私の知るところにはならないが、それでも。

 私とこうして巡り逢った悪戯な運命を呪ったとしても、この縁があったならばいずれ彼女が年老いてその鼓動を止める時、私は再びセフィとまみえるだろう。

 そうして。


 君は永遠の眠り姫の如く、私の裡で生を閉じるのだ──。



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永遠の眠り姫 蒼月里美 @yue_aotsuki

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