第1話 記憶を失った勇者
銀髪の美少女いわく――俺は、魔王を討った勇者らしい。
数百年にも及ぶ人類と魔族の戦いは、これでようやく終息する。魔王が企てていた破壊と虐殺による侵略計画に恐れることもなくなる。これからの世界には、穏やかで美しい笑顔の花が咲きはじめるだろう……と、そんなふうに説明してもらった。
その前提を踏まえた上で、改めて理解する。
俺は――記憶喪失というやつに、なってしまったようだ。
「やっぱり、思い出せないの……? ねえ、アルくん……キミは、世界を救ったんだよ……?」
桃髪の少女は俺の右手をぎゅっと握りしめたまま、悲痛な声音で問いかけてくる。
――さて、どう言葉を返したものか。
幸いにも、俺は落ち着いて思考を回すことができていた。……目の前の美少女たちが俺の何十倍も取り乱しているから、そのおかげで逆に冷静さを保てているのだと思う。
まあ、ともかく。
この場面、この状況で、いったい俺はどんなふうに振る舞えばいいのだろうか。
明るく無邪気に笑ってみるべきだろうか。それとも冷静沈着に振る舞い、場を落ち着けることを優先すべきだろうか。はたまた、記憶があるフリをする――っていうのは、言わずもがな最悪の手だろうな。
「……ごめん。本当に、何も思い出せないんだ」
やがて俺が選んだのは、無難さを極めたような台詞だった。
表情には、苦笑いを浮かべておく。眩しい笑顔も、絶望に浸った表情も、どちらもふさわしくないと思ったから。
敬語を使わなかったのも、意図的な選択である――この少女たちと俺との距離感を考えれば、丁寧な言葉遣いはむしろ傷つけてしまうと判断したのだ。
と、桃髪の少女が、その薄い唇を噛みしめて、
「っ……何も、って……自分の、名前も……?」
「……うん」
頷く。
いわく、俺の名前は、アルジオ=フィルノートというらしい。
まるで馴染みのない、聞き覚えなんて一度もない名前。
「なら……あたし、の。あたしたちの名前も、覚えてない……?」
「……うん」
頷く。
この可憐な桃髪の少女のことも、美しい金髪の少女のことも、中性的な容姿をした銀髪の少女のことも。
彼女たちの名前を、俺はまったく覚えていなかった。
「っ……じゃあ、故郷、は……?」
桃髪の少女は、ぽつり、と声をこぼす。
「キミは……自分の故郷も、忘れちゃったの……?」
「故郷、は――」
少女の、何かに縋るかのような訊き方に対して、俺は、
「…………日本、だったと思う」
ぼんやりと、だけれど。
それでも俺は、自分の故郷のことだけは思い出すことができた。
そして、そのおぼろげな記憶が、俺の中で確信へと変わっていく。
(――そうだ、日本だ。俺は、日本人だったはずだ)
自分の名前はまったく思い出せないし、勇者として冒険の旅に出た記憶なんてない。
でも、俺の出身は日本で間違いないはずだ。どうしてかはわからないけれど、それだけは言い切れた。
――けれど。
桃髪の少女は、苦しげに唇を震わせて、
「っ、ニ、ホン……? そんな地名、あたし……聞いたこと、ないよ……?」
あぁ……そうか。
やっぱりそうなのか、と、俺は思う。
おそらく、ここは――日本とはまったく無縁の、どこか別の世界なのだろう。
俺の知る限りでは、勇者や魔王は空想の世界の話で、ゲームやラノベの内側での出来事に過ぎなかった。
だから俺が勇者で、魔王を倒したなんて……そんなの、とても現実の出来事だとは思えない。
――というか、そういう単語というか、知識系の記憶はちゃんと残っているんだな。何もかもを忘れたわけじゃないのかと思うと、ほんの少しだけ安心できた。
「だって、アルくんは……キミの故郷は、ラーエル、じゃないの……?」
「ラーエル……ごめん。知らない地名だ」
「……そ、っか。アルくん……ほんとに、ぜんぶ忘れちゃったんだ……っ」
桃髪の少女の、俺の右手を握りしめる強さが、さらに強まった。
重苦しい空気が、木造の部屋の中に充満していく。
それに耐えきれなかった俺は、少女の顔から視線を切って、
「でもさ、ほら。時間が経てば、もしかしたら――」
と、ちょっとでも前向きな言葉をかけようとした、その瞬間だった。
彼女の白い手に――淡い緑の光のようなものが、いつの間にか生じていて。
「……っ、《
何かを。
彼女はたしかに、何かを唱えたように見えた。
同時。俺の右手から全身へと、あったかい感触が流れていく。
穏やかな春風が身体の中を吹き抜けていくような、奇妙な感覚。なんとなくだけれど、俺の全身が癒やされていく心地がした。
それは、まるで――魔法、みたいな。
(いや、まさかとは思うが……本当に、魔法だったりするのか?)
勇者とか、魔王とか。
その話を聞いたとき、俺はこんなふうに思ったのだ。
まるで――異世界に来たみたいだな、と。
「《
何かの呪文のような言葉。
身体から疲労感が抜けていく、不思議な効力。
そして、光源も火種もなく光を放っている、桃髪の少女の白い両手。
(もしかして、俺――異世界に転生してた、のか……?)
いや……これは、あくまで推測でしかない。
自分が誰なのかも、彼女たちの話が本当なのかも、この場で眠っていた理由も、俺には何ひとつわからないのだから。真相を確かめる術など、もちろん持ち合わせていない。
でも。いま目の前で起きている不思議な事象はまさに、俺の知識の中にある魔法にそっくりで。
だとしたら俺は――この異世界に転生し、勇者としての旅に出た結果、それらの記憶を全て失ってしまった、ということなのだろうか。
(……っ、ていうか、それより――)
俺が思考を巡らせている時間は、たっぷり数十秒ほどはあったはず。
そのあいだ、ずっと……桃髪の少女は、魔法(?)の詠唱を繰り返していて。
「《
「えっ、えっと、あの……?」
これ……たぶんだけど、止めたほうがいいよな?
だけど俺は、彼女の名前を知らなかった。だからどう声をかけていいのかわからなくて、結局、何も言えなくなってしまう。
桃髪の少女の曇った目は、ますます曇っていくばかりで……、
「《
「ぁ……っ! フェリナ、ダメ!」
と――そのときだった。
金髪の少女が、いきなり桃髪の少女の背中へと抱きつきいた。
桃髪の少女の華奢な身体が、俺のもとから強引に引き剥がされる。
「っ、離して……離してよ、エルティナちゃん!」
桃髪の少女はじたばたと足掻き、俺のほうへと手を伸ばそうとしてきた。
その声音は、聞いていられないくらいに悲痛なもので。
「あたしがっ、あたしの治癒魔法が、きっと不完全だったから……っ、だから、あたしが治さないと! あたしが、アルくんを……っ!」
「っ、ダメよ! このままじゃ、フェリナの魔力が!」
「あたしのことなんかどうだっていい!! 今は、アルくんの記憶を――」
「フェリナっ!!」
遮って、金髪の少女が叫ぶ。
びくんっ、と桃髪の少女の肩が震えた。そんな彼女のことを、金髪の少女はそっと優しく抱擁して、
「……フェリナ。私たちの命は、彼が守ってくれたものなのよ? なのに……そんなこと、言っちゃダメよ。わかる、でしょ?」
「っ……う、ん。でも、でも……っ」
桃髪の少女の白い頬に、またしても、涙が流れ落ちる。
その声音には、後悔が色濃く混じっていて。
その瞳は、完膚なきまでに曇りきっていて。
「アルくんは……誰よりも、頑張ったのに……誰よりも、報われなきゃいけないのに……っ、」
「………………っ」
金髪の少女が、わずかにうつむく。
「なのに――記憶がない、なんて……っ、そんな、の……酷い。酷すぎる、よ……っ」
「っ、フェリナ……」
ぎゅう、と。金髪の少女が、桃髪の少女の華奢な身体を抱きしめなおす。
と……その直後。
もうひとりの少女が深く息をついた音を、俺は聞いた。
「……もーっ。フェリちぃ、エルりん。ふたりとも、ちょっと落ち着きなってばっ」
銀髪の美少女は、ただひとり、この場で平静を装った態度を取ってくれていた。
装った、と断定できるのは――彼女の瞳の奥には、隠しきれない闇のようなものが渦巻いていたからだ。あくまでこの銀髪の少女は、自分の中の困惑や動揺を封じてくれているだけなのだろう……と、一目でわかる。そんな瞳の色だった。
「今いちばん混乱してるのは、ほかの誰でもなく、アルっち本人のはずだよ? ふたりがそんなんじゃ、アルっちがもっと困っちゃうでしょ?」
「っ……そ、っか。そう、だよね……ごめんね。あたし、あたし……っ」
「もーっ! こら、フェリちぃ! 泣かないでってばぁ!」
と、その銀髪の少女は、今度は俺へと目線を向けてくる。
「アルっち、ごめんねぇ。起きたばっかりなのに、うるさくしちゃってさ」
「え? いや、俺は……大丈夫、だけど」
「ま、あの怪我だったんだもん。ちょっと記憶が欠けちゃうくらい、無理もないよねぇ」
そういうわけだから、と、彼女は言葉を挟んだ。
「アルっちもいろいろ整理したいだろうし、ボクらはちょっと席を外すよっ。……夜、また様子を見にくるから。それじゃあ、またね! アルっち!」
などと一方的に話し終えた銀髪の少女は、残りふたりの少女を連れて、そそくさと部屋を去って行った。
ばたん、とドアが閉まる音。
そんな俺の瞳に焼きついていたのは――部屋を出る直前に見た、銀髪の少女の頬に垂れていた涙。
……とりあえず、まあ。
ひとりきりになった俺は、思いっきり空気を吸い込んで、
「……――――はあああああぁ。お、重すぎて、押しつぶされるかと思ったぁ……」
全力で、息を吐く。
あぁ……痛い。めちゃくちゃ痛い。胃と心臓とその他もろもろの臓器が、みしみしと激しい悲鳴を上げていた。
最初、勇者だの魔王だのと聞いたときは、嘘くさい話だなと思ったのだが――彼女たちの反応を見るに、きっと、俺は本当に勇者だったのだろう。
そして。
あの三人の美少女は、そんな
「だとしても……なんか、こう、重すぎなかったか……?」
俺と、彼女たちは――本当に、ただの仲間だったのだろうか?
しかし俺には、一切の記憶がない。日本出身だったはずだという根拠のない自信と、異世界転生に巻き込まれていたんじゃないかという真実味の欠落した推測だけが、今の俺の知識と記憶を構成する全てだ。
だから確信などしようがないし、もちろん、断定なんてできっこない。
だけど……だけど、どうしてなのだろうか。
俺にとって、彼女たちは。
どうしてか――仲間なんて言葉じゃ足りない、もっと特別な存在だったような気がした。
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