第2話 北洋の激浪
明治三十年代に入ると、極東の地図は、まるで黒いインクを垂らしたかのように変貌を遂げていた。
日清戦争を回避し、大陸への不干渉を貫いた日本の姿勢は、結果として清国の衰退とロシア帝国の南下を加速させた。一八九六年の露清密約、一八九八年の旅順・大連租借。ロシアは満洲をその鉄路で締め上げ、さらにその触手を朝鮮半島へと伸ばしていた。
朝鮮政府は、かつての宗主国である清国を見限り、今度はロシア皇帝の威光にすがろうとしていた。ソウルの街にはコサック兵が駐留し、釜山港にはロシア太平洋艦隊の艦船が頻繁に出入りするようになった。
日本国内では、臥薪嘗胆ならぬ、国辱への怨嗟が渦巻いていた。
北の守り神たる山縣有朋公は何をしておられるのか。朝鮮が
対外硬派の壮士たちは叫んだ。しかし、元帥陸軍大将となった山縣有朋は、その古希に近い身体に似合わぬ冷徹な眼光で、世界地図を睨み続けていた。彼の執務室の壁には、朝鮮半島の地図ではなく、オホーツク海を中心とした北太平洋の海図が掲げられている。
北緯五十度以南の樺太、そして千島列島。これらが我主権線であるならば、オホーツク海は我が内海なり。しかるに、露国はこの海を自国の湖の如く扱っている。
山縣が懸念していたのは、朝鮮半島の喪失ではなかった。彼が恐れていたのは、カムチャツカから千島沿いに南下し、北海道を脅かすロシアの海洋進出であった。ロシアは朝鮮半島での権益確保に忙殺される一方で、北洋における漁業権や制海権をも独占しようとしていたのである。日本の漁船が拿捕され、漁民がシベリアへ連行される事件が相次いでいた。
明治三十五年、一九〇二年。日英同盟が締結される。
史実ではロシアの満洲・朝鮮南下を阻止するための同盟であったが、この世界線における山縣の意図はより限定的かつ戦略的であった。すなわち、ロシア艦隊の封じ込めと、北洋における行動の自由の確保である。
英国にとっても、長江流域の利権さえ守られれば、満洲や朝鮮の支配者が誰であろうと関心は薄い。むしろ、日本が大陸深部へ侵攻せず、海洋勢力としてロシア太平洋艦隊を牽制してくれることは、英国の利益に合致した。
そして明治三十七年、一九〇四年二月。事態は沸点に達する。
ロシアが一方的にオホーツク海の公海部分における他国漁船の操業禁止を宣言したのである。これは、北進を国是とする日本にとって、まさに生存権への挑戦であった。
御前会議において、山縣は昭和天皇の祖父にあたる明治天皇に対し、静かに、しかし断固として奏上した。
大陸の泥炭地に足を踏み入れる愚は避けねばなりませぬ。然れども、北の海を奪われるは、手足を縛られるに等しき事態。皇国の興廃、この一戦にあり。但し、戦場は満洲の野にあらず、北溟の波濤にあり。
二月六日、日本はロシアに対して国交断絶を通告。日露戦争、後の世に言う北洋戦争の勃発である。
開戦と同時に、世界は日本の特異な用兵に驚愕することとなった。
日本陸軍は、鴨緑江を渡らなかった。遼東半島への上陸も行わなかった。主力となる近衛師団、第二師団を中心とする遠征軍は、輸送船団に分乗し、猛吹雪の宗谷海峡を北上したのである。
目標、コルサコフ(大泊)。
山縣が心血を注いで育成した陸軍海兵旅団が、氷結する海岸へと強襲上陸を敢行した。史実の旅順要塞攻略戦のような、無謀な正面攻撃による消耗戦ではない。海軍の艦砲射撃の援護の下、機動力を活かした上陸作戦であった。
ロシア軍は完全に意表を突かれた。彼らの主力が極東総督アレクセイエフの指揮下、遼陽や旅順といった満洲南部に集結していたからである。日本軍が朝鮮防衛のために半島へ上陸すると信じて疑わなかったロシア軍にとって、樺太への侵攻は悪夢以外の何物でもなかった。
樺太南部のロシア守備隊は孤立無援となり、わずか数週間で降伏した。しかし、山縣の戦略はそこで止まらなかった。
北へ。さらに北へ。
春の訪れと共に氷が解けると、日本軍は北緯五十度線を越え、北樺太のアレクサンドロフスクへ進撃。同時に、海軍の別働隊がカムチャツカ半島のペトロパブロフスクを砲撃、占領した。
大陸では、ロシア軍が日本軍の不在に困惑していた。彼らは朝鮮半島を完全に制圧し、釜山まで南下したが、そこで対馬海峡の鉄壁の要塞線と、日本海軍の哨戒網に阻まれ、一歩も海を渡ることができなかったのである。
陸の巨象ロシアは、海への出口を塞がれ、大陸の端で空しく足踏みを続けるしかなかった。満洲と朝鮮に展開した数十万のロシア大軍は、戦わずして補給線を維持せねばならず、その維持費はロシア財政を内側から蝕んでいった。
明治三十八年五月、日本海海戦。
バルチック艦隊は、ウラジオストクへの回航を目指して対馬海峡に現れた。東郷平八郎率いる連合艦隊は、これを迎撃。丁字戦法による殲滅戦が展開されたのは史実通りであるが、その戦略的意味は異なっていた。これは日本の本土防衛戦であると同時に、北洋における日本の覇権を決定づける戦いであった。
バルチック艦隊の壊滅によって、ロシアは制海権を完全に喪失した。極東のロシア軍は、朝鮮と満洲という広大な占領地の中で、補給を絶たれた囚人と化した。
九月、米国大統領セオドア・ルーズベルトの仲介により、ポーツマスで講和会議が開かれた。
全権大使小村寿太郎に対し、山縣は一通の電報を送っている。
朝鮮満洲ハ放擲スベシ。我ガ要求ハ、北緯五十度以北ノ樺太全土、沿海州沿岸ノ漁業権、及ビカムチャツカノ領有ニアリ。
ロシア側の全権ウィッテは、この日本の要求に耳を疑った。日本は勝利者でありながら、朝鮮と満洲における一切の権利を放棄し、ロシアの支配を認めるというのである。その代わり、極寒の不毛の地と思われていた北方の領土と海を要求している。
ウィッテにとって、それは望外の喜びであった。皇帝ニコライ二世のメンツを保ちつつ、実質的な利益(満洲・朝鮮)を確保できるからである。
講和は成立した。
日本は樺太全土と千島列島、カムチャツカ半島南部の領有権を獲得。さらにオホーツク海全域における排他的な漁業権を認めさせた。その代償として、朝鮮半島はロシアの保護国となり、満洲は事実上ロシアの勢力圏となった。
国内では、再び焼き討ち事件が起こりかけた。十万の将兵の血を流さずとも、多額の戦費を費やしたにも関わらず、朝鮮と満洲を捨てたことへの不満である。
しかし、山縣は冷然としていた。彼は凱旋した将校たちを前に、こう訓示したという。
地図を見よ。大陸の赤い処(ロシア領)はいずれ腐り落ちる。かの地には数多の民族がひしめき、反乱と裏切りが絶えぬ。ロシアは朝鮮という重荷を背負い、やがてその重みに耐えきれず倒れるであろう。その時、我らは北の海より、悠々とその巨体が沈むのを眺めればよい。
山縣の予言は、十年を待たずして的中することになる。
北洋戦争の勝利により、日本はオホーツク海を「北の地中海」とし、その海洋資源を独占する国家へと変貌を遂げた。北海道の開拓は急速に進み、函館や小樽は北洋漁業と貿易の拠点として、帝都東京を凌ぐほどの活況を呈するようになった。
そして、陸軍の中身も変質していた。かつて長州閥が牛耳っていた陸軍省と参謀本部は、北洋での上陸作戦を経験した「一夕会」の若手将校たち、すなわち永田鉄山や小畑敏四郎といった「北進派」が台頭し始めていた。彼らは精神論よりも、極寒地での兵站や総力戦体制の構築を重視し、山縣の構想する「海洋国家日本」の尖兵として育ちつつあった。
明治が終わり、大正の世が訪れる頃、山縣有朋は七十代半ばを迎えていたが、その意気は些かも衰えていなかった。彼の目は、次なる獲物、大戦の混乱に揺れるユーラシアの北東部、そして遥かなるアラスカへと向けられていたのである。
(第3話へ続く)
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