第3話 氷原のフロンティア

大正三年、一九一四年。欧州の火薬庫が爆発し、世界は大戦の渦に巻き込まれた。

ロンドンからの電報が霞が関に届くや、外務大臣加藤高明は参戦の好機と捉えた。史実において彼が目論んだのは、ドイツが中国山東省に持つ権益の奪取と、対華二十一ヶ条要求による大陸利権の拡大であった。しかし、この世界線の日本には、大陸への野心など欠片も存在しない。


元老山縣有朋は、葉山の別邸で報告を受けた。七十六歳の老躯は、しかし海風に鍛えられた古木のように強靭であった。

欧州の喧嘩か。勝手にやらせておけ。

山縣は茶を啜りながら、側近に言った。

英国との同盟義理はある。知らぬ顔はできぬが、深入りは無用だ。支那のドイツ利権など、毒饅頭もいいところだ。食えば腹を壊す。我らは南洋の島々を拾い、あとは北の守りを固めるだけでよい。


日本は日英同盟に基づき対独宣戦布告を行ったが、その行動は極めて限定的であった。海軍は赤道以北の南洋諸島を占領し、インド洋へ駆逐艦隊を派遣して通商破壊に対抗した。陸軍に至っては、欧州戦線への派兵要請を「北方の守りが手薄になる」として一蹴した。


中国大陸では、袁世凱政権が列強の圧力を受けながらも独立を維持していた。日本が山東出兵を行わず、二十一ヶ条のような恫喝も行わなかったため、中国の対日感情は奇妙なほど穏やかであった。むしろ、欧州列強が去った後のアジア市場において、日本は「押し売りの軍人」ではなく「良き商人」として、軽工業製品を売りまくり、空前の大戦景気を謳歌することになった。


そして大正六年、一九一七年。山縣が予言した通り、巨象ロシアが倒れた。

ロシア革命。帝政が崩壊し、ボリシェヴィキ政権が誕生すると、ユーラシア大陸北部は無政府状態の混乱に陥った。


好機なり。


山縣の眼が怪しく光った。彼は直ちに寺内正毅首相と、参謀本部次長となっていた愛弟子、田中義一を呼びつけた。

露国の混乱は長引く。赤化の波が東へ及べば、我が帝国の北門を脅かすことになろう。これ防ぐは国是なり。ただちに居留民保護を名目に、浦塩(ウラジオストク)へ出兵せよ。


シベリア出兵である。史実では不明確な目的と撤退時期を巡って迷走し、多大な犠牲と不評を買ったこの出兵も、この世界線では明確な「領土的野心」と「防衛戦略」に基づいて行われた。


目標はバイカル湖以東。

日本軍は、冬のシベリアに特化した装備でウラジオストクに上陸すると、シベリア鉄道沿いに破竹の勢いで西進した。北樺太とカムチャツカを既に領有し、寒冷地戦のノウハウを蓄積していた日本軍にとって、混乱した赤軍パルチザンや白軍残党の掃討は、さしたる難事ではなかった。


大正七年、一九一八年。米騒動の混乱を経て、原敬による本格的な政党内閣が誕生する。

平民宰相と呼ばれた原は、本来山縣のような藩閥政治家とは水と油の関係にある。しかし、この老獪な二人は、「北洋開発」という巨大な利権の前に、奇妙な握手を交わすことになった。


原さん、貴公の党は鉄道がお好きなようだが。山縣は古稀庵を訪れた原に語りかけた。

シベリアの鉄道は長いぞ。満鉄など目ではない。あの鉄路を復旧し、沿海州の資源を内地へ運ぶ。その利権、政友会で使いこなせるか。


原はニヤリと笑って答えた。

我田引鉄と批判されますが、国益になるならば、地の果てまでも線路を敷きましょう。シベリア、結構なことですな。大陸の泥沼に金を使うより、よほど株主に説明がつきます。


原政権下において、日本はシベリアからの撤兵を行わず、逆に現地に親日的な傀儡政権「極東共和国」を樹立させた。バイカル湖を自然の防衛線とし、その東側を事実上の日本の勢力圏としたのである。オホーツク海は完全に日本の内海となり、サケ・マス、カニといった水産資源、そして北樺太と沿海州の石油・石炭・木材が、安価に日本本土へと流れ込んだ。

そして、山縣の視線はさらに東、太平洋の対岸へと向けられた。

アラスカ。

かつてロシアが保有し、一八六七年に米国へ二束三文で売却された「スワードの冷蔵庫」。当時の米国は、この寒冷地の統治に関心を持たず、人口も希薄なまま放置されていた。


大戦後のパリ講和会議、そしてそれに続くワシントン会議において、日本全権団は驚くべき外交カードを切った。

全権の幣原喜重郎は、米国務長官ヒューズに対し、こう切り出した。

我が国は、中国における門戸開放、機会均等、領土保全を全面的に支持します。山東省におけるドイツ権益も、即時中国へ返還すべきと考えます。また、海軍軍縮に際しても、貴国の提案する比率(対米六割)を甘受しましょう。

ヒューズは目を丸くした。日本と言えば、大陸での特殊権益を主張し、海軍力で米国に対抗しようとする厄介な存在だと認識していたからである。その日本が、中国市場を米国に開放し、軍縮にも応じるという。


その代わり、と幣原は続けた。

北太平洋における我が国の「特殊な生存権」を認めていただきたい。具体的には、アラスカ準州の共同開発、および将来的な譲渡に関する優先権です。貴国にとって、かの地は飛び地のお荷物でしょう。しかし、海洋国家たる我々にとっては、北の防壁なのです。


米国にとって、中国という巨大市場へのアクセスは死活問題であった。その中国市場の門戸開放を日本が保証し、かつ太平洋の安全保障上の脅威(日本海軍の増強)が消えるのであれば、不毛の凍土アラスカなど安い代償であった。


一九二二年、ワシントン条約と同時に、「日米北太平洋協定」が秘密裏に調印された。

これにより、日本はアラスカにおける広範な経済活動の自由と、事実上の移民・開発権を獲得した。表向きは米国領のままであったが、アンカレッジやジュノーの港には日の丸を掲げた漁船や商船が溢れ、日本語の看板が立ち並ぶようになった。実質的な「経済的領有」の始まりである。


山縣有朋、八十四歳。

彼は元老として、宮中からこの一連の外交的勝利を見届けていた。史実であれば、この時期の山縣は病に伏し、あるいは世を去っていたはずである。しかし、北の冷気が彼の命脈を保たせていたのか、老怪物は未だ健在であった。

彼は日記にこう記している。

大陸の土は赤い。血の色だ。北の氷は青い。理性の色だ。我らは青き道を行く。中国四億の民を相手に商売をするのはアメリカに任せればよい。我らは誰もいない氷原に、新たな国を創るのだ。


大正デモクラシーの風が吹く帝都東京。カフェーではモボ・モガがコーヒーを飲み、活動写真小屋は満員であった。大陸での戦争がないため、軍部の政治的発言力は史実ほど肥大化しておらず、政党政治は謳歌されていた。

しかし、その繁栄の裏で、陸軍の中枢では静かな変革が進んでいた。永田鉄山ら「一夕会」の将校たちは、もはや精神論や白兵突撃を信奉する旧弊な集団ではなかった。彼らは極寒のシベリアやアラスカでの過酷な環境を克服するため、機械化、航空化、そして兵站の科学的管理を徹底的に推し進める「テクノクラート集団」へと変貌していたのである。

彼らが仮想敵とするのは、中国でも米国でもない。雪解けと共に復活しつつある、赤き帝国ソビエト連邦であった。


昭和の動乱が、北の空から近づいていた。だが、それは太平洋を焦がす炎ではなく、凍てつくブリザードとして日本に降りかかることになる。

(第4話へ続く)


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