第1話 利益線の彼方

明治二十三年、一八九〇年。帝都東京に、遅まきながら近代国家としての骨格が整いつつあった。大日本帝国憲法が発布され、第一回帝国議会の開会を目前に控えたこの年、内閣総理大臣の地位にあった山縣有朋は、一通の意見書をしたためていた。


外交政略論。

後に日本の針路を決定づけることになるこの文書において、史実の彼は、国家の独立自衛のためには固有の領土である主権線を守るだけでは不十分であり、その安危に密接に関係する区域、すなわち利益線を防護しなければならないと説いた。そして、その利益線の焦点こそが朝鮮半島であると断じたのである。

しかし、この世界線の山縣の筆先は、異なる軌跡を描いていた。


国家独立自衛の道は、主権線を防御し、利益線を防護するにあり。主権線とは国之疆土なり。利益線とは、その勢力、我が主権線の安危に緊切なる関係ある区域をいう。

執務室の窓から見える冬の空は、高く澄み渡っている。山縣は筆を墨壺に浸し、一呼吸置いてから、力強い筆致で続きを書き記した。

我が帝国の利益線は、朝鮮半島にあらず。彼の地は大陸勢力の角逐場にして、一度足を踏み入れれば底なしの泥沼となる。我が国の利益線は、対馬海峡より北、オホーツク海、ベーリング海に至る北太平洋の環状線にあり。

彼は、かつて一八八〇年に著した隣邦兵備略において、清国の軍備増強を警戒しつつも、これをアジアの友邦として提携する可能性に言及していた。


しかし、現実の清国は眠れる獅子などではなく、朝鮮半島に対する宗主権を固持する旧態依然とした帝国であった。

大陸に関われば、必ずや清国と衝突する。そして背後には北極熊、ロシアが控えている。陸で彼らと戦ってはならない。島国の利を活かし、海を堀とし、波を城壁とするのだ。

山縣の構想は、陸軍軍人でありながら、極めて海洋的なものであった。彼は徴兵令によって集めた国民軍を、大陸への遠征軍としてではなく、長大な海岸線を守り、北方の島々へ展開するための水陸両用戦力として育て上げていた。

だが、この山縣の持論は、当時の政界においては異端もいいところであった。


同年十一月、第一回帝国議会が開会されると、山縣内閣は民党の激しい攻撃に晒された。立憲自由党や立憲改進党といった民党勢力は、政費節減と民力休養を掲げ、政府の予算案に真っ向から反対したのである。

衆議院の予算委員会において、自由党の代議士が詰め寄った。政府は富国強兵の名の下に、国民に過重な負担を強いている。特に北洋警備や北海道開拓になど、巨額の国費を投じる必要があるのか。民力休養こそが急務ではないか。

これに対し、山縣は壇上で冷然と言い放った。

諸君は国家の安危を如何に考えておられるか。シベリア鉄道の敷設が進めば、ロシアの脅威は目睫に迫る。大陸に兵を出さぬ代わりに、我らは北の海を鉄壁とせねばならぬ。これは侵略のための軍備ではない。生存のための軍備である。


史実では、土佐派の切り崩しという裏工作によって辛うじて予算を通した山縣であったが、この世界でもその政治的狡猾さは健在であった。彼は、農村の地主層を基盤とする自由党の一部に対し、北関東や東北地方への鉄道敷設と引き換えに、北進予算への賛成を取り付けたのである。利益誘導と言われればそれまでだが、山縣にとって議会とは、理想を語る場ではなく、妥協と取引によって実利を得る場に過ぎなかった。


そして明治二十七年、一八九四年。山縣の信念を試す最大の危機が訪れる。

朝鮮半島南西部で発生した農民反乱、東学党の乱である。

朝鮮政府の無策と腐敗に抗議して蜂起した農民軍は、瞬く間に勢力を拡大した。朝鮮政府は自力での鎮圧を諦め、宗主国である清国に出兵を要請する。これに呼応して、日本国内でも対外硬派の世論が沸騰した。

清国軍が朝鮮に入れば、日本の権益が脅かされる。天津条約に基づき、日本も直ちに出兵すべきである。外務大臣の陸奥宗光さえも、この機に乗じて朝鮮における日本の影響力を拡大しようと画策していた。参謀次長の川上操六に至っては、独断で混成旅団の動員準備を進めていたほどである。


六月二日、緊急の閣議が開かれた。会議室の空気は、主戦論一色に染まっていた。

閣下、今こそ好機であります。清国を朝鮮から叩き出し、極東の覇権を握るべきです。

川上操六が熱弁を振るう。他の閣僚たちも、それに同意するように頷く。だが、首相の座を伊藤博文に譲り、枢密院議長として軍部に隠然たる影響力を持っていた山縣は、その場に重苦しい沈黙をもたらした。

ならぬ。

山縣の低い声が響いた。

出兵はならぬ。清国が兵を出すなら出させておけ。

川上が色めき立つ。それでは朝鮮は清国の属国に戻ってしまいます。明治維新以来の朝鮮開国政策が無に帰しますぞ。

構わぬと言っているのだ。

山縣は立ち上がり、軍人たちを見下ろした。

貴様らは、あの半島の泥濘を知らぬ。清国と戦端を開けば、戦場となるのは朝鮮全土だ。勝ったとしても、後に残るのは荒廃した土地と、日本を恨む民衆、そして疲弊しきった国庫だけだ。我が国の国力で、大陸での長期戦は支えきれぬ。


しかし、国民の怒りは収まりますまい。軟弱外交との批判は免れません。

陸奥が懸念を示すと、山縣は不敵に笑った。

国民の目は、北へ向けさせればよい。朝鮮などくれてやれ。その代わり、我々は清国と取引をする。彼らが朝鮮での宗主権を主張するなら、我々には台湾、そして北洋での自由な活動を認めさせるのだ。

山縣の決定は絶対であった。日本政府は六月、清国に対して朝鮮への出兵を通告されたが、これに対して「朝鮮の内乱鎮圧は清国軍に委ねる」という異例の回答を行った。

これにより、日清戦争は回避された。


東学党の乱は、清国軍の介入によって凄惨な弾圧の末に鎮圧された。朝鮮半島における清国の影響力は決定的となり、ソウルには清国兵が我が物顔で闊歩することとなった。日本国内では、政府の弱腰を弾劾する声が渦巻いた。自由党や改進党は「国辱外交」と叫び、右翼壮士たちは山縣邸の門を叩いた。

だが、山縣は動じなかった。彼はこの屈辱をバネに、別の方向へと国力を集中させていったのである。


大陸への野心を捨てた日本は、浮いた軍事費とエネルギーを、北海道の開拓と艦隊の建造、そしてアラスカ・北米方面への移民奨励へと注ぎ込んだ。北の海は広大で、資源に満ちている。そこには、政治的腐敗も、数千年の因習もない。あるのは、切り拓くべきフロンティアだけだ。


明治二十八年。清国が朝鮮を事実上の属領として支配を固める中、日本は静かに爪を研いでいた。対馬海峡には要塞が築かれ、佐世保と舞鶴、そして函館の軍港には、最新鋭の装甲巡洋艦が並び始めた。

山縣は、舞鶴の鎮守府を視察した際、随行した若き将校にこう語ったという。

見よ。大陸の国々が領土を奪い合って血を流している間に、我らは海へ出る。いずれ、ロシアが凍らない港を求めて南下してくるだろう。その時こそ、我が水陸両用軍の出番である。戦場は朝鮮ではない。あの北の海だ。

山縣有朋、五十七歳。彼の視線の先には、やがて訪れる大国ロシアとの、しかし史実とは全く異なる形での衝突が、はっきりと見えていた。

(第2話へ続く)



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