第2話 黒板の追憶

 坂の街ヴァレナは、遠目にはまだ街という原型を保っていた。石の家々が斜面にへばりつき、尖った屋根の列が雲にかかる。あの家々の窓から、かつては明かりが漏れていたのだろう。今は、窓の奥が沈殿したような暗さを醸し出す。


 街道を外れて、割れた石畳を登っていく。足下の砂利が乾いた音を立てるたび、暗渠のほうから水の気配が漂ってくる。ざわめき、というより喉の奥で長く鳴り続ける唸りが、街の腹から滲んでいる。


 橋が一本、斜面の途中で折れていた。運河の跡は干からび、底に黒い泥だけが残っている。泥の上を、白いルーンが薄く流れていた。水の代わりに、魔力の残り滓が滞っているのだろう。どこへも行かない。街全体が、出口のない血管を抱えているみたいだった。


 俺は幼い頃、魔法使いに憧れていた。村の外れの丘に寝転んでは、遠い都市の灯を眺めながら、いつかあそこへ行き、杖の一本でも買って、世界を少し違う形で見たいという願望はあった。

 だが才能というやつは残酷だ。村の井戸に落ちた銀貨を拾う程度の小さな奇跡さえ起こせないまま、季節だけが俺を置き去りにしていった。今やただのおっさんだ。

 皮肉なことに、災禍が俺をここへ連れてきた。あの頃の夢の裏側みたいな街へ。


 ヴァレナ。交易と魔術工房で栄えた街だったという。坂道に石造りの家が密集し、細い路地が迷路のように絡む。古い都市構造。だが今は半分が崩れている。通りは瓦礫で塞がれ、壁には蔦が這い、硝子窓はどこもかしこも割れている。

壁面にルーン看板の残骸。


《魔導具修繕》《薬草局》《転移許可証発行所》《魔術師ギルド・ヴァレナ支部》

 文字は剥げ、石板は砕けている。


 広場に出ると、旧魔術師ギルド兼市民市場が骨をさらしていた。アーケードの屋根はところどころ崩れ、鉄の骨組みだけが空に穿っている。壁のルーン看板は半分欠けたまま、それでも薄く青白く瞬いていた。点いては消え、消えかけては点く。眠りについた街の寝言。


 入口脇の街灯が、唐突に灯った。油も芯もない石の柱が、勝手に呼吸を始めたみたいに。光は弱い。だが、奴らの呻きがほんの少しだけ強まる。俺は反射的に灯りの根元を蹴る。石は何も言わず、光だけが消える。身体に染み付いた動きだった。


 「ありがとう」


 ニナが小さく言う。声は、石の粉に吸われるみたいにすぐ消えた。彼女の腰のナイフは刃こぼれが目立っていた。柄の木も痩せている。

 俺は酒を調達したかった。ここ二週間、野宿で眠ってきた身体が、硬い床の上に疲労の形を塗り固めている。どこかに娼館があるならそこで寝ようなんて提案は、できる訳がない。だから代わりに、酒のことを考えた。


 市場の通りに入る。瓦礫の下から、乾いた香がふっと漂ってきた。薬草屋の区画だ。梁に吊られた束が、ひとつ、ふたつ、まだ残っている。

触ると粉になるほど乾き切っていた。指先に草の芯だけが残る。タイムだろうか、セージだろうか。ニナがナイフで一束だけ切り取っていく。中身なんかどうでもいい。ただ、人の匂いがする。それだけで心持ちが軽くなった。


 通りの奥に、酒場の看板が倒れているのを見つける。獣の頭を模した木彫りの看板。口の中が空洞で、そこに風が吹き抜ける。中へ入ると、カウンターの上に瓶が並んでいた。どれも空。底に残った黒ずんだ膜をどうにか舐め取る。埃の味だ。俺は瓶を一本だけ布に包んで鞄に入れる。中身はなくても、水か何かを入れるかもしれない。


 ギルドホールの扉は重かったが、蝶番は生きていた。中は広い。石の床の上に、丸い転移門の台座が沈んでいる。動かない円。床に描かれた魔術式は、長い間、誰の足跡も受けなかったらしい。台座の縁に深い爪の跡、床には黒く乾いた血痕のようなものが浮かんでいる。


 二階へ上がると、講義室があった。黒板が、まだ壁に張り付いている。白い粉の線が薄く残っていた。授業の途中だったのかもしれない。

魔術式の断片だろうか、俺には分からない。円と線と記号に複雑な図形。途中で途切れている。


 ニナはそこで足を止めた。

それから、手を伸ばす。指先で文字をなぞる。ゆっくりと。円を辿り、線を追い、記号を確認する。

止まる。手が、そこで止まった。

三十秒。一分。彼女は黒板の前に立ったまま。

俺は何も言わない。声をかける言葉が、どこにも転がっていない。


 階段を降りると、地下への入り口があった。石段を下ると、空気が一層冷たくなる。壁に保存のルーンが刻まれている。旧式の型だ。樽が並び、壺が積まれている。

 乾燥豆、硬い乾パン、塩の衣をまとった干し肉。人よりも食べ物の方が残るなんて、奇妙な話だ。


 樽の封がやけに新しい。灰の跡が床に残っている。誰かがここで火を使ったのだろう。壁には走り書きがあった。


『北のアブド海道に向かう。マリアを探す』


たったそれだけの言葉が、虫の抜け殻みたいに張り付いている。ここに生きた人間がいたのだろうか。俺たちも、同じ穴の中を歩いているのかもしれない。ニナが後ろで乾パンの袋を持ち上げた。

 戻ろうとしたとき、廊下の奥の部屋から、ごとり、と木が当たる音がした。扉は半開きだ。ニナと目が合う。彼女は頷かない。ただ、ナイフの柄を握り直す。


 警戒しながら部屋の中を覗くと、暗闇の中に胴だけの屍人ゾンビがいた。脚はなく、這う腕も半分落ちている。喉から湿った息が漏れる。まだ死ねていないらしい。ニナはためらわず、その首の根元へ刃を当てた。刃こぼれのせいで一度止まり、もう一度押し切る。音は小さく返り血はない。奴は、ふっと空気の袋がしぼむみたいに黙った。


 「ナイフ、替えないと」


 彼女の口ぶりは、天気の話と同じだった。

 

 「街を発つ前に探さないとな」


 広間に戻り、炉の跡に鍋をかける。

ニナが指先に小さな火を灯す。豆を水で戻し、干し肉を砕き、干した野草を放り込む。最後に、さっきの草束の粉をひとつまみ。


ゆっくりと沸騰させ、煮込む。

十分。二十分。匂いが立ち上る。

ハーブの香り。セージの苦みとタイムの青さが混ざったような。それに豆の土の匂い。肉の塩気と野菜の甘み。

ニナが指先が白く煌めく。浄化魔法か。ごく微弱な腐敗を抑える程度のもの。


 香りがより一層強くなる。俺は鍋を見る。中で豆が崩れ、肉の繊維がほどけている。野菜が溶けて、踊り出す。なんて光景だろう。


「できた」


ニナが火を消す。

俺は椀を受け取り、啜る。

熱い。舌と口蓋が焼ける。だが止まらない。また啜る。


舌に当たるのは塩と豆のざらつきと、遠い肉の面影だ。香草が、遅れてやって来る。世界のどこかにまだ季節があると教えてくれる香りだった。

肉の薄い旨味が天啓のようだ。野菜の繊維が歯に引っかかる。飲み込む。喉と胃が内から温まる。


もう一口。今度はゆっくり。豆を噛む。粉っぽいが悪くない。ハーブの後味が効く。苦いが、清潔な苦みだ。


「旨いな」


「うん」


ニナも黙々と口を動かす。規則的に。その顔はいつもよりも少しだけほころぶ。


 ギルド長の部屋の棚に、壺がひとつ残っていた。黒い茶葉。湯に溶くと、かすかな苦味と、ほんのわずかな甘さが滲む。魔力の味、と言えばそうなのかもしれない。俺には分からない。ただ、ここ最近感じていた喉のざらつきが軽くなった気がする。


 夜、屋上へ出る。天井の一部が朽ち、そこから月が覗いている。街は闇に沈み、運河跡の水面だけが月光を薄く返す。暗渠のほうから、また低いざわめきが続いている。


 毛布を敷く。俺は背中を預け、茶の渋みを飲み下す。ニナが隣に座る。膝を抱えたまま月を見て、同じく茶を啜る。


「この街、授業で一度来たんだ」


彼女が呟く。


「生徒たちと」


 それだけ言って、彼女は毛布に潜る。返事の代わりに、腹の中の温もりを確かめる。明日も、どこかでいい匂いがすればいい。そう思いながら、目を閉じた。

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