第3話 野営、塩
四日、街の石と坂と影を踏み続けて、足の裏の皮が一枚ぶ厚くなったころ、街道は途端に濃い草に覆い尽くされた。石畳の端が土に溶け、道の輪郭だけが残っている。空は低く、風は高い。背の荷は、灰の空の重さを真似しているみたいに圧し掛かった。 風の匂いが、少しだけ乾いてきている。季節が向きを変えた匂いだ。
巡礼宿の残骸が見えた。街道の外れにぽつりと立つ石の箱だ。屋根は半分落ち、柱は歯が抜けた口のように空を噛んでいる。けれど正面の庇だけは生き残って、雨風を少しでも防いでくれそうだった。背後の雑木林は黒く詰まっていて、木々の間の影が互いの肩を寄せ合っている。林は昼でも夜の顔をしている。あそこに入れば、風は弱いかわりに、こちらの耳が鈍る。
「ここで」
彼女は林を見もしないで言う。指先で乾いた葉の欠片を砕いて確かめている。言葉は少ないが、判断は速く的確だ。寒さと湿気は敵、というのが彼女の信条らしい。俺は一瞬だけ林のほうに目をやる。暗さが落ち着く気がした。けれど落ち着きは、体温の代わりにならない。
荷を下ろす。縄をほどき、布をめくり、鍋と斧と水袋と、干し肉の樽をひとつずつ並べていく。力仕事は俺の役だ。そう決めたわけじゃない。ただ、いつの間にかそうなっていた。ニナは荷の中身に触れないかわり、匂いと色と魔力の影だけを読む。
俺は庇の周りに積み上げる石の位置と風向きを決める。石の壁の角度、土の湿り、荷車の車輪の残骸。風を塞ぎ、見張りに使える面があるかどうかだけを考える。こういうことをしている間は、頭が軽い。軽さというのは救いに似ている。
林の縁で小枝を拾い、斧で細く割る。乾いた枝は簡単に裂け、木の匂いが一瞬だけ鋭く立って、すぐに消える。俺の腕は勝手に動く。疲労で動きは荒くなる。斧が石に当たって、火花が跳ねた。奴らを刺激したか、と一瞬身構えるが林を風がすり抜けていく音しか聞こえない。
足元には、白いものが散らばっている。人のものか獣のものか分からない骨だ。小さな頭蓋は半分土に埋まり、肋骨は草に絡まれて風で鳴る。もう肉も、匂いも無い。
ニナは林の手前で屈み、茸と木の実を拾う。指で押し、匂いを嗅ぎ、眉一つ動かさずにポーチへ入れる。いつか名前を尋ねたことがある。名前が必要なのは行商人だけだ、と彼女は言った。確かにこの世界で必要なのは食えるかどうかの境界線だけだった。
庇の下に戻り、鞄の荷物を整理していると薄い小さな布がころりと落ちた。小さな手袋だった。指の短い、子ども用の。土に触れても汚れの色が変わらないほど乾き切っている。
俺は止まる。止まった時間が、自分の身体の外側に一枚皮を作る。拾い上げると、軽い。軽さが胸の裏に刺さる。捨てたほうがいいことくらい分かっている。荷は軽ければ軽いほどいいし、もう誰の手にも戻らない。けれど俺は、その軽さを地面に戻せない。鞄の底に戻して、布の上からもう一度固く結ぶ。結び目が、必要以上に几帳面になる。
ニナは見ていないふりをする。見ていないのかもしれない。ただ、何も言わない。言葉がない代わりに、彼女は水袋を取り、掌で口を覆うようにして小さく息を吐いた。掌の隙間に薄い光が揺れ、水が一滴、二滴、瓶の底に落ちる。錬成は微弱で、時間がかかる。彼女の肩がわずかに上下し、呼吸が浅くなる。大量に錬成ができない訳ではない。もし魔力を少しでも強めてしまえば、群れにひき殺されるだけという話だ。
ニナが魔法で火を起こすのは簡単だ。指先を鳴らせば、焚き火くらいはすぐに生まれる。
けれど彼女はしない。
昼のあいだに何度も、水を一滴ずつ作ってきた肩が、もう軽くはないのを俺は知っている。魔力は、ため息みたいに薄く使うほうが長持ちする。
俺は黙って火床を作る。枯れ葉と枝を組み、煙が出ないように息を殺して燃やす。火が熾きたら、ちょっとずつ砂をかけてさらに縮める。強い炎は
鍋に湯を張り、乾パンを砕いて沈める。干し肉の粉を指先でつまみ、数えるように落とす。木の実は硬く、歯が割れそうだ。茸は匂いぎりぎり食えそうだ。ニナが枯れた香草の根っこを一本だけ渡してくる。黒い土の匂いが少し付いている。
「塩、使うか」
俺が言う。明日のために残すべきだ、とどこかで思っているのに空腹が味を渇望する。未来は、今の俺の荷の底に似ている。軽いのに捨てられない。
ニナは小さく首を振った。否定ではない。量の話だ。彼女はほぼ空の塩袋を取り、指でつまんでほんの少しだけ鍋に落とす。落ちた瞬間、湯気の匂いが変わる。味はきっとそこまで変わらない。それでも匂いが変わるだけで、俺の腹は騙される。生き延びるために、味を捨てない。彼女の判断は、いつも現実が先にある。
火は見えないくらい弱くされる。湯は沸かない。ただ温まる。それでいい。空腹は、熱に弱い。椀に注がれた粥は薄く、口に運ぶと豆のざらつきと、熱の輪郭だけが舌に残る。俺はそれを飲み下す。味はあまりない。でも温度がある。温度はそれだけで、腹の底を撫でる。
ニナは俺の椀に少しだけ多く注いだ。気づいたのは俺のほうだ。気づいたからといって、礼を言う言葉もない。俺たちはたぶん、そういう関係じゃない。
椀が空になると、腹の底にまた“次”が生まれる。俺は鞄の口を締め直しながら、次の街で手に入れたいものを指で数える。まず塩。油。乾いた豆。干し肉も。それと針と糸。靴底の革。ナイフも必要だ、彼女のナイフも結局ヴァレナで調達できなかった。それから、できれば清潔な布。
どれも贅沢じゃない。ただ、無いと少しずつ死んでいくものだ。
夜が濃くなるにつれて、風は強くなった。庇下に干した外套がぱたぱた鳴り、布の音が石の空洞で増幅される。俺は毛布の縁を縛り直し、荷物を枕にして横になる。荷は固い。固さが安心の形をしている。ニナは焚き火跡に灰をかぶせ、最後に一度だけ林と街道の向こうを見回した。俺には暗闇しか見えない。
風が途切れた瞬間、低地のほうから唸りが届いた。遠い。けれど遠さが、逆に数を想像させる。ざわめきが一度だけ濃くなり、また薄くなる。呼ばなければ上がってこない。呼んでしまえば、死ぬだけ。
目的なんてない。食べられるものと、体を横たえる場所。それが見つかるほうへ歩くだけだ。言葉にすると、馬鹿らしくなる。だが言葉にしないと、足が止まる。だから胸の中でだけ繰り返して、眠りの底へ沈める。
ニナの呼吸が隣で一定の間隔を刻む。俺の肩の痛みが、少しずつ遠ざかる。荷の底の小さな手袋の重さだけが、暗闇の中で光るみたいに残っている。光らなくていいのに、と思う。思ったことを、また明日の荷に詰めて歩くのだろう。
風が庇を叩く。庇はまだ持っている。今日の体温は守れた。守れたことだけが、眠りに入るための理由だった。
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