魔法を使うとゾンビに喰われるので、静かに食べて寝るだけにした。
高屋敷シボ
第1話 石のパン、祈り
石段の手摺りに、子供の手が乾いたまま残っていた。
茶色く変色した小さな掌。五本の指。骨と皮膚が時間となって積層を生み出す。
乾いた手は、もう誰も掴まない。石畳の溝には黒い染みが這い、壁の窪みには蝿の死骸が堆積している。
扉が鳴る、風なのか、鼠なのか。 音だけが、風よりも長く残る。
中から漂ってくるのは埃と、それから甘ったるい、何かが終わった匂い。
斜面に張りつく村は、灰茶色の石で組まれている。かつては山麓の酪農村だったというが、今は誰もいない、誰も動いていない。
路地の奥に倒れた荷車の下から、干からびた脚が突き出している。広場の井戸の縁には、頭を垂れたままの女の死蝋。
夜になれば遠くの谷底から呻きという呻きがひしめく。それは生者のものではない。
【羊と鐘亭】
広場に面した酒場の看板は、文字が半分剥げていた。扉は半分開いたまま、蝶番が錆の花を咲かせている。
俺は短剣を抜き、扉を押し広げた。
床の上には食器の破片。テーブルには食事の残骸、皿の上で黴が完全に乾き切り、灰色の粉となって積もっている。椅子は倒れ、カウンターの隅には誰かの靴が片方だけ。
災禍の中、ここにいた人間たちは逃げたのか、それともここで朽ちたのか。天井の梁に、何かの布が引っかかっている。服だろうか。
ニナが無音で入ってくる。黒い官服に身を包んだ、小さな体躯の魔法使い。右手の指先に極小の炎が灯る。いつも、一瞬だけ息を止める。魔力出力を最低限まで絞った初級魔法。群れを呼び込まないための。
その炎を、木の枝にもらって松明代わりにして歩を進める。
彼女の視線がカウンターの奥を指す。
階段だ。
地下へ続く石段は狭く湿っている。だが不思議なことに、黴の匂いはしない。壁に触れると、ひやりとした。石の冷気ではない、魔力的な冷たさ。降りた先に小部屋が二つ。奥に、淡く発光する文字列、保冷のルーンか。魔法が刻まれた特別な材で造られた扉だ。低出力のものなら群れには感知されない。
当たりだ。扉を開ける。
中はひんやりとして長居したくないほどだ。陶器の壺が棚に並び、天井から麻布に包まれた塊が吊るされている。
俺は最初の壺の蓋を外した。中には黒パンが四つ。表面は石のように硬化し、叩くと金属音に近い音が鳴る。
次の壺、これは干し肉の束。最後の棚、布に包まれたチーズの塊。山羊のものだろう。布地に油が染みている。小さな袋には干し果物、イチジクか。
ここ一週間、俺たちが口にしたのは路傍の木の実と掘り起こした根菜だけだった。それに芋虫だって二度食べた。
これは、ごちそうだ。
ニナが壺の一つに手を伸ばす。パンを二つ取り出し、干し肉とチーズも持つ。俺は別の棚で赤ワインの瓶を見つけた。コルクが割れている。瓶口に鼻を近づける。強烈な酸の匂い。だが腐敗臭ではない。長い時をかけ、ゆっくりと酸化しただけ。まだ飲める。
荷を抱えて階段を上がる。一階のテーブルは避けた。窓際の、まだ埃の薄い場所を選ぶ。
反対側の奥、何重にも板で打ち付けられている扉が目に入る。
かすかに、何か、内側から叩く音がする。
俺は見ない。ニナも、見ない。食事の準備をいつも通り執り行う。
ニナがパンを手に取る。指先に再び炎。彼女の魔力制御は異常なほど精密だ。弱火、中火、強火と使い分けられる。パンの表面だけを、じっくり炙っていく。硬化した表層が徐々に表情を変える。茶色から、焦げ茶へ。香ばしい匂いが立ち昇る。かつての小麦の香り。
彼女は干し肉を取り出し、ナイフで削ぎ始める。肉は岩塩で処理されているのか、表面に白い結晶が浮いている。薄く削ぐと、半透明になって、薫煙と山椒の匂いが立ち上る。チーズは硬い。ナイフの刃が入らない。彼女はチーズを思い切り壁に叩きつけ、砕いていく。破片はまるで小石のように堅い。断面には小さな気泡の痕と、油の滲み。
パンの上に、肉片を並べる。その上にチーズの破片を散らす。最後に、小さな陶器の瓶からオイルを数滴。オリーブではない、菜種か何かだろう。黄色がかった透明な液体が、肉とチーズに染み込んでいく。
俺はそれを受け取った。
まず匂いを嗅ぐ。炙られた穀物、塩漬けの肉、発酵した乳、菜種油。それぞれが長い時間を経て、どこか抽象的な食卓の記憶を形成する。
齧る。
歯が砕ける音、ではない。パンが砕ける音。表面の炙られた層は硝子のように脆い。だが内側はまだ僅かに弾力を残している。唾液を含むと、膨らむ。繊維がほどけていく。そこに肉の塩気、チーズの酸味と脂。噛むほどに、味が複層的になる。
塩は舌の先端で鋭く、脂は舌の奥で重く、酸は頬の内側で広がる。燻製の香りが鼻腔を抜ける。山椒がかすかに痺れを残す。
飲み込む。喉を通る感覚が、妙に生々しい。
コルクをナイフで穿り取り、ワインを口に含む。酸っぱい。だがそれは腐敗ではなく、時間の味だ。果実の甘みは既に消えているが、代わりに何か木質の苦みが残っている。冷めた祈りを、液体にしたような味。
もう一口、パンを齧る。今度は意識的に、ゆっくりと噛む。昔、このパンを焼いた人間の手を想像する。小麦を捏ね、発酵を待ち、釜に入れる。焼き上がったパンを棚に並べ、いつか食べる日を夢見る。だけどそのいつか、は停まったまま。
チーズの破片が奥歯に挟まる。舌で押し出すと、微かに血の味がする。歯茎を切ったらしい。ワインで流し込む。酸が傷口に染みるが、どうでもいい。旨い。
ニナは自分の分を黙って食べている。彼女の咀嚼は規則的だ。十二回噛んで、飲み込む。また十二回。彼女の喉が動くのを見る。
視界の端に、何かが映る。
カウンターの隅。小さな木の椅子。背もたれに羊の彫刻。座面には擦り切れた布。カウンターの柱には、ナイフで刻まれた線が何本か。身長の記録。一番上の線の脇に、小文字で『アレン、六歳』と刻まれている。
カウンターの上には、小さな木のカップが一つ、伏せて置かれている。綺麗に、恣意的に。誰かが最後に、丁寧に伏せて置いたのだろう。もう使わない、と分かっていたから。
俺は視線を戻す。手元のパンを見る。残りは半分。
「パン、焦げてるぞ」
ニナが顔を上げてパンに目線を移す。彼女の目が俺を睨む。嘘だと分かっている。だが何も言わない。また視線を落とし、咀嚼を続ける。十二回。飲み込む。
パンを大口で噛みちぎる。喉が詰まる。ワインで無理やり流す。
ニナが黙って瓶を差し出す。俺は受け取り、また飲むが咽る。
遠くから、声が聞こえる。谷底の群れ。だがここには来ない。この村は、たまたま奴らの通り道にならなかった。ただそれだけのことだ。
空になった皿は、それだけで少し救いがある。
もう一度、地下へ。
残りの備蓄を確認する。壺の中に、まだチーズがある。干し果物も。別の壺にはラスク。その壺の底に、何やら小さな紙片が挟まっている。
取り出す。炎で照らす。
『神よ、また明日もこのパンにありつけますように。アンナとアレンにも、どうか温かい食事を』
走り書き。インクは褪せ、紙は黄ばんでいる。いつかの祈り。
アンナとアレン。妻と息子。あるいは娘と息子だろうか。誰かがここに備蓄を隠し、祈りを残した。明日もここに来るために。子供たちに食事を与えるために。
だが、明日は来なかった。
俺は紙片を、壺の底に戻す。
「全部、持っていくのか」
ニナが言う。淡々としたいつもの調子だ。
俺は壺を見る。チーズの塊、干し果物の袋、ラスク。
手を伸ばす。壺を持ち上げる。重い。
もう一度、持ち上げ、置く。
「半分だけだ」
「......誰も来ない」
ニナの声に、今日初めて、感情の影が差す。
「そうだな」
「でも、残すのか」
「残す」
彼女は頷く。それ以上は何も言わない。
俺は壺から、チーズを半分だけ取り出す。干し果物も半分。ラスクは二つだけ。残りは、そのままだ。
誰も来ないなんてことは分かっている。ここに備蓄を隠した人間は、もう生きていない。アンナもアレンも、生きていない。他の人間だって。
それでも、半分だけ残す。
理由は分からない。ただ、全部を持っていく気にはならなかった。
地上に戻る。二階へ。
部屋にはベッドが二つ。炎でもって蜘蛛の巣を焼き払い、埃を払う。毛布を敷くと、窓の端に、月がかかっているのが見える。
ニナは窓際に立ったまま、どこかを見渡している。彼女の背中は細く、動かない。たまに呼吸をしているのか、不安になるほどだ。
谷の方角で、低いざわめきが連続する。俺はベッドに横になった。
あの小さな木のカップのことを考える。アレンは何を飲んでいたのか。ミルクか。薄めた酒か。
俺の息子が好きだったのは、温めた山羊乳だった。
目を閉じる。
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