第3章 鐘の影を聴く
翌朝のルッカは、霧の向こうから静かに目を覚ました。
陽の光は薄く、鐘の音だけが街の形をはっきりと描いている。
わたし――ピッコロは、旧大聖堂の屋根の上にいた。
下では、キアーラが修復作業を始めている。
机の上には古い祭壇画。
その絵には、六つの鐘が描かれていた。
だが、ひとつだけ――青く光っている。
キアーラは細い筆で埃を払った。
「……赤の下に、青。」
ロレンツォが隣で息をのむ。
「この青……まさか、フィレンツェのものと同じ?」
「成分を調べてみるわ。」
光の下で、粉末がかすかに煌めく。
ニッケルを含む合成顔料――1970年代以降のもの。
本来ここには存在しないはずの色。
キアーラは低く囁いた。
「やっぱり、“返された青”……。」
ロレンツォが頷く。
「色が旅をしている。
誰かが運んだんじゃない。
街そのものが、記憶を移してる。」
わたしの羽が震える。
その青は、もう瓶の中の顔料ではなかった。
風を吸って、鐘の音として息をし始めている。
◆
昼過ぎ。
リーヴォがやってきた。
修復室の扉を開けると、
絵の具と古い木の匂いが混ざった空気が流れ出す。
「こんにちは。約束どおり来たよ。」
キアーラが微笑んだ。
「よく来たわ。ちょうどいいところだったの。」
祭壇画を見せると、リーヴォの瞳が大きく開いた。
「この鐘……動いてるみたい。」
「動いてる?」ロレンツォが眉を上げる。
「うん、音が見える。」
キアーラが息をのむ。
リーヴォの瞳の中に、青い光が揺れていた。
絵の中の青が、反射して彼の瞳の奥に溶け込んでいる。
「ねえ、ピッコロ。」
少年が天井を見上げて呼んだ。
わたしは梁の上で鳴き返す。
“どうしたの?”
「鐘の影って、音の形なの?」
“そうかもしれない。”
「じゃあ、音を描けたら、影も描ける?」
“描けるとも。君が聴けるなら。”
リーヴォはうなずき、紙を取り出した。
青い鉛筆が走る。
鐘の音が響くたびに、紙の上に円が生まれる。
一度、二度、三度――六度。
そして、真ん中に小さな空白。
「七つめの音が、まだ聴こえない。」
少年の声が震える。
キアーラがそっと膝をつき、囁く。
「七つめの音は、未来の鐘よ。まだ鳴っていないの。」
その言葉の直後、
塔の上で風が渦を巻いた。
霧が裂け、光が差し込む。
鐘が、ひとつ、鳴る。
低く、古い音。
塔の影が広場を横切り、
その中に――青い線が一筋走った。
キアーラが息を呑む。
「……見える?」
「うん。鐘の影の中に、誰かが立ってる。」
リーヴォの声は震えていた。
風が強くなり、影の中の“誰か”が手を伸ばす。
指先からこぼれる光の粉――青い欠片。
リーヴォが一歩前へ出た。
「この人、知ってる気がする。」
わたしは羽音で答える。
“それは昔、約束をした人だよ。”
少年が光を掴んだ瞬間、
鐘が七度、鳴った。
影が溶け、青い光が彼の掌に残る。
キアーラはその光を見て微笑んだ。
「リーヴォ、それは“音のかけら”。
未来の鐘を鳴らすための色。」
空が明るくなり、霧が晴れる。
鐘の影は消えた。
けれど、少年の掌には確かに“青”が宿っていた。
わたしは屋根の上で鳴いた。
六度、そして七度。
ルッカの空が、静かに呼吸を始める。
――街が、自分の未来を聴こうとしている。
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