第3章 鐘の影を聴く

翌朝のルッカは、霧の向こうから静かに目を覚ました。

陽の光は薄く、鐘の音だけが街の形をはっきりと描いている。


わたし――ピッコロは、旧大聖堂の屋根の上にいた。

下では、キアーラが修復作業を始めている。

机の上には古い祭壇画。

その絵には、六つの鐘が描かれていた。

だが、ひとつだけ――青く光っている。


キアーラは細い筆で埃を払った。

「……赤の下に、青。」

ロレンツォが隣で息をのむ。

「この青……まさか、フィレンツェのものと同じ?」

「成分を調べてみるわ。」


光の下で、粉末がかすかに煌めく。

ニッケルを含む合成顔料――1970年代以降のもの。

本来ここには存在しないはずの色。


キアーラは低く囁いた。

「やっぱり、“返された青”……。」


ロレンツォが頷く。

「色が旅をしている。

 誰かが運んだんじゃない。

 街そのものが、記憶を移してる。」


わたしの羽が震える。

その青は、もう瓶の中の顔料ではなかった。

風を吸って、鐘の音として息をし始めている。



昼過ぎ。

リーヴォがやってきた。

修復室の扉を開けると、

絵の具と古い木の匂いが混ざった空気が流れ出す。


「こんにちは。約束どおり来たよ。」

キアーラが微笑んだ。

「よく来たわ。ちょうどいいところだったの。」


祭壇画を見せると、リーヴォの瞳が大きく開いた。

「この鐘……動いてるみたい。」

「動いてる?」ロレンツォが眉を上げる。

「うん、音が見える。」


キアーラが息をのむ。

リーヴォの瞳の中に、青い光が揺れていた。

絵の中の青が、反射して彼の瞳の奥に溶け込んでいる。


「ねえ、ピッコロ。」

少年が天井を見上げて呼んだ。

わたしは梁の上で鳴き返す。

“どうしたの?”


「鐘の影って、音の形なの?」

“そうかもしれない。”

「じゃあ、音を描けたら、影も描ける?」

“描けるとも。君が聴けるなら。”


リーヴォはうなずき、紙を取り出した。

青い鉛筆が走る。

鐘の音が響くたびに、紙の上に円が生まれる。

一度、二度、三度――六度。

そして、真ん中に小さな空白。


「七つめの音が、まだ聴こえない。」

少年の声が震える。

キアーラがそっと膝をつき、囁く。

「七つめの音は、未来の鐘よ。まだ鳴っていないの。」


その言葉の直後、

塔の上で風が渦を巻いた。

霧が裂け、光が差し込む。

鐘が、ひとつ、鳴る。

低く、古い音。


塔の影が広場を横切り、

その中に――青い線が一筋走った。


キアーラが息を呑む。

「……見える?」

「うん。鐘の影の中に、誰かが立ってる。」

リーヴォの声は震えていた。


風が強くなり、影の中の“誰か”が手を伸ばす。

指先からこぼれる光の粉――青い欠片。


リーヴォが一歩前へ出た。

「この人、知ってる気がする。」

わたしは羽音で答える。

“それは昔、約束をした人だよ。”


少年が光を掴んだ瞬間、

鐘が七度、鳴った。


影が溶け、青い光が彼の掌に残る。

キアーラはその光を見て微笑んだ。

「リーヴォ、それは“音のかけら”。

 未来の鐘を鳴らすための色。」


空が明るくなり、霧が晴れる。

鐘の影は消えた。

けれど、少年の掌には確かに“青”が宿っていた。


わたしは屋根の上で鳴いた。

六度、そして七度。

ルッカの空が、静かに呼吸を始める。


――街が、自分の未来を聴こうとしている。

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