第2章 修復士たち、影の街へ

午後のルッカは、鐘の音がよく響く。

街を囲む円形の城壁が、音を受けて返すからだ。

祈りも記憶も、閉じ込めたまま外にこぼれない。

だからこの街は、“音の器”とも呼ばれている。


その外周を、一台の古いワゴンが走っていた。

運転席にはロレンツォ、助手席にはキアーラ。

窓の外で光がくるくると踊り、

オレンジ色の屋根が波のように続く。


キアーラは膝の上で地図を広げ、

指先で街をなぞりながらつぶやいた。

「ルッカって、まるで円の中に閉じ込められた時間みたい。」


ロレンツォが笑う。

「閉じた街ほど、音が残るんだ。

 だからこそ、“鐘の街”って呼ばれる。」


荷台には、修復道具と顔料の試料瓶。

その中に一本だけ封を切らずにある――“返された青”。

フィレンツェから受け取った、あの色の残り。

瓶の内側に沈んだ粉が、午後の日差しにかすかに光った。


キアーラはその瓶をそっと撫でる。

「この青、もう過去のものになったはずなのに……。

 まだ息をしてるみたい。」


ロレンツォは短く頷いた。

「息をしてるのは街の方さ。

 色は風と同じで、次の場所を探している。」



ルッカの旧市街に入ると、音が変わった。

車輪の軋みがやわらかくなり、

遠くの鐘楼の響きがゆっくりと重なる。

街の石は丸く磨かれ、風の匂いは葡萄の葉のように甘い。


二人はサン・ミケーレ広場に車を停めた。

キアーラは窓を開け、深く息を吸う。

「空気が軽い……。でも、音が深い。」

「ここは“影の街”なんだ。」

ロレンツォが応える。

「陽が低いから、塔の影が長く伸びる。

 それを“時間の影”と呼ぶ人もいる。」


広場では子どもたちが遊び、鳩が水を浴びていた。

その中に、ひとりの少年が混ざっていた。

灰色の瞳、紙と鉛筆。

塔を見上げ、鐘の音を数えている。


「いち、に、さん……ろく!」


声が空に溶けた瞬間、

キアーラの胸の奥に小さな既視感が走る。

――六度。

その数は、あの夜フィレンツェで聴いた鐘と同じ。


ロレンツォが車から降りた。

「……行こう。呼ばれてる気がする。」


キアーラが近づくと、少年は振り向き、照れたように笑った。

「こんにちは。」

「こんにちは。君は鐘を数えてたの?」

「うん。今日は六回。でも昨日は七回だったんだ。」


その言葉に、ふたりの指が同時に止まる。

七回――。

あの夜、“mutatio completa est”が響いた数。

過去が赦され、色が返された回数。


「この街でも、同じ音が響いているのね。」

キアーラが小さく呟く。

少年が首をかしげる。

「同じ? フィレンツェでも、七回鳴ったの?」

「ええ。その音が、ここまで届いたのかもしれない。」


リーヴォの目が輝いた。

「じゃあ、僕の紙もつながってるんだ!」

そう言って、折りたたんだ紙を広げる。

六つの丸と、その中央に小さな点。

キアーラは息をのんだ。


「……mutatioの印。」

ロレンツォが低く呟く。

「六つの鐘の中心――空白の場所。」


風が鐘楼を抜け、鐘がひとつ鳴る。

その響きの中に、七度目の残響が隠れていた。

ピッコロ――わたしは上空で旋回しながら、その音を聴く。

鐘が街を結び、人を結び、

“返された青”を次の手へ運んでいくのを。


キアーラは少年の肩にそっと手を置いた。

「ねえ、リーヴォ。明日、修復現場を見に来る?

 古い鐘の絵があるの。あなたに見てほしいの。」


リーヴォは迷ったあと、小さく頷いた。

「うん。……約束する。」


その言葉に、わたしの羽が震えた。

“約束”――

この街の鐘は、それを数えるために鳴っているのかもしれない。


風が鳴る。

六度、そして七度。

ルッカの空が、ゆっくりと回り始めた。

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