第2話 空に落ちるとはどういう事か

 空に落ちた――はずだった。しかし、目に映る景色は見慣れた住宅街のつまらない風景などではなく異国情緒溢れる街角だった。


 静かな街だ。


 誰かが坂道を登るたび、石畳がぎしりと足音を返す音が聞こえる。

 赤茶けた瓦屋根が肩を寄せ合うように並ぶこの街は、どこか時間から取り残されたようだ。電線がなく、車の音もない。ただ風が、誰かの洗濯物を揺らす音だけが聞こえる。


「ここは……?」


 僕の呟きに、いつの間にか隣に立っていたノルンが微笑む。


「《鯨》の中だよ」

「《鯨》の中だって? 時間旅行じゃなかったのか?」


 僕の問いかけに答える前に、ノルンは「足痛くない?」と問いかけてきた。

 言われてみれば靴下のままだ。謎に靴を手渡してきたのはこういう事だったのか。


「で? 質問に答えてくれよ」

 靴を履きながら問いかける。


「《鯨》には過去が内包されてるの。詳しい話は後でしてあげる」


 目に映る全てが真新しいせいで、おのぼりさんのようにキョロキョロしてしまう。

 路地に目をやると、小さなカフェの看板が軋みながら揺れているのが見えた。看板にはどこの国かわからない文字で「召し上がれ」と書かれている。何語かわからないのに、何故か読めた。


「アニメみたいな街並みだよね」


 ノルンの言葉通り、どこか異世界めいている。重厚な木製の扉、剥がれた漆喰、遠くに見える教会の十字架、などなど。アニメのロケ地になりそうなくらいだ。


「今は何年だ?」

 これがタイムトラベルなのだとしたら、僕は今過去にいるはずだ。


「西暦二〇一五年だよ」

「十年前か……」

「そういうこと。君にやってもらいたいことがあるんだけど、歩きながら話そうか」


 僕達は、坂道を上っていく。道中、すれ違う人達は皆やせ細っていた。


「あまり豊かな国じゃないみたいだな」

「そうだね。チャウシェスクの落とし子って聞いたことある?」

「いや、初耳だな」

「まあ、簡単に言うと孤児だよ。孤児が孤児を作ってストリートチルドレンが溢れる。私はそんな悪循環の三世代目なの」


 言葉を失った。

 僕はまだノルンの事を何も知らない。それでも彼女からは「知」のニオイを確かに感じ取っていた。そんな彼女が、教育とは対極に位置するストリートチルドレンだったとは微塵も思わない。


「ここでハンバーガーを買ってきて」


 すごくわかりにくいが、眼前の店はバーガーショップのようだった。

 ノルンからお金を貰って入店すると、油とパンの香ばしい匂いが迎えてくれた。


 僕は適当にチーズバーガーのセットを頼み、店員さんに紙幣を渡す。ここでもやはり、異国の文字が読めた。通貨単位すらわからないのに、金額だけは不思議と理解できる。


「買ってきたよ」

「ありがとう。じゃあ、移動しよう」


 僕達は再び坂を上る。だんだんと、人気が減ってきた。


「これから君には、過去の私に会ってもらう」

「過去のノルン?」

「言ったでしょ、私は君に救ってもらったの。この時代の私は物乞いをしていた。私にハンバーガーを渡して、上手いこと口説いてあそこの家に連れてきて」


 そう言ってノルンは僕のアパートにも負けず劣らずのボロ家を指した。


「そうしたら、今回のミッションは終了。私はその辺で待ってるね」

「……後で諸々説明してもらうからな?」

「もちろん。いってらっしゃい。あ、そうそうこの頃の私は名前がないから、君がつけてあげて。ノルンじゃなくてもいいよ」


「よしわかった、太郎って名付けてやろう」

「君は太郎って名前の女の子を好きになれるの?」


 人様に名前をつけるなんて、とんでもない大役を仰せつかったものだ。僕は古い建物と建物の隙間、レンガが崩れた裏路地、そこに足を踏み入れた。

 酷い有り様だった。通りから一本外れただけなのに、ドブ川のような水の流れと、ゴミの山だ。据えた臭いが鼻を刺激する。


 そんな掃き溜めの片隅にしゃがみ込む、小さな人影があった。

 ぼさぼさの銀髪。薄汚れたワンピース。膝を抱え、虚ろな目をしている少女。

たぶん、あの子がノルンだろう。


「君の名前は?」

 僕はその子に近づき問いかける。

 近づいてわかった。間違いない、この特徴的な天色の瞳はノルンだ。


「……なまえなんてない」


 ノルンの言った通りだ。名前すらない人間がいるなんて、ちょっと信じられないな。

 さてどんな名前をつけたものかと悩んでいると、ぐ~という腹の音が聞こえた。


 そうだよな、名前なんかよりご飯が先だ。僕はハンバーガーを少女に差し出した。しかしどうした事か、彼女は手を伸ばさなかった。


「食べていいんだよ」

 そう言うと。少女はチラチラと怯えた目で僕を見ながら、伸ばしては引っ込めを繰り返す。きっと、人の優しさに慣れていないんだ。


 辛抱強く差し出し続けていると、やがてハンバーガーが醸し出す魅力的な匂いには抗えなかったのか、少女は受け取りバクバクと元気よく頬張りだした。


「んっく!」

「そんなに慌てなくても、ハンバーガーは逃げないよ。これを飲みな」


 勢いよく食べ過ぎて喉を詰まらせた幼女ノルンを見て、慌ててジュースも差し出した。

 腹が満たされた事でホッとしたのか、いつしか彼女は泣きながら笑っていた。


「話には聞いていたけど、まさかノルンがなあ……」

「ノルンって、わたしのこと……?」


 しまった。せっかく命名権をもらったのだから、ノルンにふさわしい超絶可愛い名前を名付けてあげようと思ったのに。もう引っ込みがつかない。


「ああ、そうだよ。君の名前だ」

「ノルン……わたしのなまえ……」


 まあ、嬉しそうだからいいか。それに「ノルン」には北欧神話の運命の女神という意味がある。大人ノルンがそれっぽいし、それこそこうなる運命なのかもしれない。


「ゆっくり食べるんだぞ、ノルン」

「うんっ」


 幼女ノルンがハンバーガーを食べ終えるのを見届け、いよいよ本題に入る。


「君は、《考古学者》になるんだ」

「こーこがくしゃ?」

「過去を守るために頑張る人の事らしい」

「よくわかんない……」

「まあそうだろうな」


 何を隠そう僕だってよくわかっていない。上手いこと口説けって言われても、現時点で僕が把握しているノルンの情報なんてそれくらいなんだもの。


「僕と一緒に来てくれないか?」

「いっしょに行ったらおなかいっぱい食べられる?」


 やけくそでストレートに誘ってみたが、正解はこれだったらしい。幼女ノルンの方から口説かれる条件を教えてくれた。


「食べられるとも。ちょっとお勉強をしないといけないかもしれないけど」

「おべんきょう、してみたい!」

「よし。じゃあ行こう」


 それからノルンに指定された家に幼女ノルンを連れて行った。


「それじゃあ僕はこれから買い物に行ってくるから、少しここで待っていてくれ」


 そう騙くらかして、僕は家を出た。大人ノルンと合流しようと思ったのだ。

 外に出て少しも歩かない場所に彼女はいた。


「お疲れ様。無事に幼女を誘拐できたみたいだね。一部始終見てたよ」

「人聞きの悪い事を言うな。君がやれって言ったんだろう」

「まあそうなんだけどね。それで? 結局名前は何にしたの?」


「ノルンになってしまった」

「もったいない。せっかく君好みの名前に変えられるチャンスだったのに」


 僕だってそう思ってる。しかし口走ったんだから仕方ない。


「君が自己紹介してなければ、スペシャルに可愛い名前をつけてたはずなんだ」

「どうかな。君は何度やってもノルンって名付ける気がするよ」


 なんでだろう、僕もそう思う。過程は変わっても、結局ノルンって名付けそう。


「じゃあ《今》に戻ろうか。ここら辺で手頃な高さの建物はどこだったかな」

「ちょっと待て。なに恐ろしい事を言っている。まさかとは思うが――」

「戻る時も当然飛び降りるんだよ?」


 ふざけんじゃない。別に高所恐怖症ってわけじゃないが、好んで紐なしバンジーなんて何回もやりたくない。


「やらないと帰れないよ?」


 結局、僕は引きずられるように近くにあったアパートの屋上に連れて行かれた。

そうして僕は、再び――


空に落ちた。

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