もう次が欲しくなってる

(仙頭水羽 視点)


 洗面所の曇りガラス越しに見えた外は青白い。

 冷たい蛇口を開け、洗う前からふやけていた手を洗う。

 冬の早朝。水道水は凍るように冷たい。

 そのはずが、火照った体が冷えてくれなかった。


 まさか私が、男の人に触れられるなんて……。


 ふと及川さんがシェアハウスに来てくれた日のことを思い出した。


 ***


「水羽、冬休みも近いけど何か予定あんの?」


 帰り道。駅前のアーケード。

 一足早いイルミネーションが輝き、店頭からはクリスマスっぽい曲が流れていた。


「いや何も。私の予定はない」

「良かったぁ〜。水羽に男の影がなくて、クリぼっち仲間だね」

「ぐぅ! ぐやじぃ!!」


 クリスマスを男性と過ごす。

 それは世の女性の憧れだ。


 男性は人口の十分の一。

 男性と付き合える女性はごく一部の限られた人間だけ。

 そもそも男性と親しく会話できる関係にすら、極々一部の勝ち組しかなれない。


 ……でも一部はいる。

 殆どの女は有り余る性欲を持て余し、指を咥えて見ていることしか出来ないが、勝ち組はこの世に存在するのだ。

 それが羨ましくて、妬ましくてたまらない。


「ぐぐぐ、知ってて聞いてきたな」

「あはは、そんなことないって。水羽、顔は可愛いんだから」

「はぁ〜私がぁ?」

「うん、よく見れば、だけど。一般人オーラが強すぎて気づかない」

「平凡中の平凡を地で行く女ですから。男子のことは遠目で見るしかできないし」


 悲しい……けれどそれが私。

 近くに男子がいることは、たまにあった。

 だが平凡な私が話しかけても相手にされなかった経験しかないので、今や冷たい眼差しを恐れて遠目で見ることしかできない。


「冬休みの予定、他はないの?」

「他すらない。正月ガチャのために石掘りするくらい」


 バイトもせず、サークルにも入らず、家に帰ったらゲームをするだけの私。

 これまた悲しい話だ。


「じゃあまた遊びに誘うよ」

「うん、お願い」

「おけ。また、明日」


 友達と別れると、1人ため息をつく。


「今日の夕飯どうしよ。カップ麺残ってたっけ?」


 親元を離れシェアハウスで生活しているにもかかわらず、生活力は皆無。


 少し前まで大家さんが世話を焼いてくれていたけど、亡くなられてからシェアハウスの秩序は崩壊した。


 主食は缶詰、レトルト、カップ麺。ゴミ袋はコンビニ弁当の包装容器で、パンパンに膨らんでいる。

 まともな食事は取れていないし、部屋には脱いだ服、乱雑に置かれた小物、見たことがない雑誌が、足を滑らさんばかりに散らかりまくっている。


 そんな光景が目に浮かび、家に帰るのすら億劫だったが、待ち受けていたのは想像と真逆の光景だった。


 ピカピカの家、テーブルに並べられていた豪華な手作り料理……そして。


「初めまして。さ、座って」


 綺麗なお兄さんがいた。


 私は見惚れた。

 家に男性がいるという事実……だけではない。

 こんなに綺麗な男の人に初めて出会ったからだ。


 その人は、私たちのために料理を作ってくれたという。


 唐揚げを食べる所作。

 ふーふーと冷まし、ちろりと潤んだ唇を舐めとる姿。

 鮮烈な光景に興奮して熱を持ち、乾いた喉に生唾が流れ込んだ。


「ん? 食べていいよ?」


 不審に思われないよう震える手で箸を伸ばす。

 口にしてみると、あまりに絶品。無我夢中で久々のご馳走にありついた。


 そんな私たちを見るお兄さんは、慈しむような優しい目をしていて、こんな男神のような男性がいるんだ、と思った。

 同時に、そう歳が離れていないのに、子供扱いされているようで顔が熱くなった。


 でもそんな恥ずかしさだって、どこか心地がいい。

 不思議と暖かな気持ちになって、胸がときめく。


 こんな夢のようなひとときを過ごせたことに、天に感謝した。

 それくらいの幸福を得たのに、ひとときで終わらなかった。


「最後の子以外は改めまして。母のあとに大家を務めます、及川幸です。みんなが頑張れるように、掃除、洗濯、料理、その他のこともサポートしたいと思ってます。今日から空き部屋に住みますので、何かあったら遠慮なく訪ねてくださいね」


 綺麗なお兄さん、及川さんは今後も世話を焼いてくれると言った。


 しかも、同居して……。


 心臓は高鳴る。一生分の鼓動を使い切ってしまいそうなほど高鳴る。


 聞くと、及川さんは大家さんの息子。母の遺言から、私たちを心配して、来てくれたらしい。


 生前、お世話になった大家さんが、死後も天使をよこしてくれた。

 深く感謝して、絶対に胸を張れる自分になろう、と決めた。


 ——だが無理だった。


 及川さんとの同居生活。

 朝起きたら眩い笑顔で「おはよう」をくれる。

 早起きして作ってくれた朝食は美味しかった。


 帰ってきたら「おかえりを」をくれて、掃除してくれた綺麗なダイニングでご飯。

 お風呂も用意してくれるし、洗濯だってしてくれる。

 他にも至れりつくせりな上、フランクに接してくれる。


 お世話を焼いてくれるお兄さんなんて、想像上の世界にしか存在しないと思ってた。

 だが現実に存在し、間近で浴びた。

 平凡で、男友達すらいなかった私の胸が、高ならない時なんてなかった。


 それに、及川さんは無防備だ。

 掃除機をかけている時、平気で私にお尻を突き出す。

 襟の緩い服だって着て、胸元がチラチラ目に入る。

 及川さんはいい匂いがして、すれ違うたびにクラクラする。

 残り湯なんて気にせず先に入るし、風呂上がりの火照った肌と甘い香気を立ち上らせたまま、共有のスペースに来る。


 ただでさえ色気がある綺麗なお兄さんが、そんなことをするのだから、ムラムラして、悶えて、きゅうきゅう疼いて、何をどうしても集中なんてできっこなかった。


 散々な成果になるのは当然。

 だから皆の叫びは、怒りではなく、正当な切実な悲鳴。


「おにーさんがエッチすぎて集中出来ないんです!!」


 そんな私たちに、及川さんはあまりに艶かしく言ったのだった。


「なら、頑張ったご褒美にHなこと、し・て・あ・げ・る♡」


 ***


 水を止める。

 共用のタオルで拭うのは申し訳なく、自分のハンカチを使う。

 それも及川さんに洗ってもらうのだと思えば、罪悪感の混じった興奮を覚え、甘い息が漏れ出した。


 さっき、いや数時間前の甘美な感覚を思い出して、また体が火照り出す。


 ぶんぶん、と首を横に振り、窓を開けて早朝の冷たい空気で肺の中を満たした。


 にしても、凄かった……。あれが男の人に触れられるってこと……。

 自分の体が自分のものではないみたいにくねり、疼き、甘い快感に支配された。


 及川さんの言葉は嘘ではなかった。


 どうして及川さんは、私たちにこんなことをしてくれるのだろう?


 理由は聞いた。

 でも女性の性に対して、男性は嫌悪感を示す。

 だからこんなのあり得ない。訴えられたら確実に負ける事案だ。


 それなのに、私たちの成功を願って、頑張ったご褒美としてくれる。


 一万歩譲って、他の子ならわかる。私と違って可愛いし、才能だってあるから。


 だけど及川さんは私にもくれた。平凡でどうしようもない私にもくれた。


『凄い、もう出来たんだ。頑張ったね』


 優しい笑顔に、ぽっ、と胸に火が灯る。


『じゃあ、ご褒美だね。おいで、


 どうして? 誰にも見向きもされない、平凡な私のために、どうしてそこまでしてくれるの? どうして……どうして?


 息が荒ぐ。火照り、胸が切なくなり……もう次が欲しくなっている。


 理由はわからない。

 だけど私を見てくれるのは、及川さんしかいないのは確かだった。


 ベッドに入り、ぎゅっと目を閉じる。


 及川さん……。

 及川さん。及川さん、及川さん、及川さん。

 甘い息を漏らしながら、なんとか眠りについたのだった。

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