8.急転
レースは三十キロを過ぎて二度目の折り返しを迎えた。秋の空っ風が私たち先頭集団に吹き付ける。
名古屋での世界陸上。コースは村田監督の予想通り、名古屋ウィメンズマラソンと似たり寄ったりなコースだった。
特に今走っている伏見通から出来町通、出来町通から大津通、大津通から環状線、環状線から再び大津通へ戻ってくるこの道。これは名古屋ウィメンズマラソンの二十五~三十五キロまでのコースと完全に一致している。
現在までのレース状況は三分二十秒で引っ張る先頭集団と、三分二五秒でついていく第二集団が形成され、今春の名古屋ウィメンズマラソンと同じような様相を呈している。
世界陸上は女子マラソン十傑に入るような記録は中々出ない。記録で言えば、日本のマラソン選手も太刀打ちできる記録が出る。
だが、短くスパートをかけてペースを乱す選手や中盤の数キロでいきなりのロングスパートを仕掛ける選手など、タフなレース展開を強いられる。
しかし、そんな変則的なレースプランを組んでいるのは私も同じだ。
私も中間点から徐々に加速を始め、二度目の折り返し手前の三十キロ地点で先頭集団に追いつくことができた。このようなレースプランを展開するのは、私のことを知らない世界のランナーからして中々にかき乱される存在であったことに間違いない。
前走・名古屋ウィメンズマラソンの極端なネガティブスプリットが成功した。だから、わざわざその作戦を変更してレースに挑むのはマラソン経験が浅い私にとっては悪手のように思える。そして、それは村田監督も大井ヘッドコーチも同意見のようだった。
レース一週間前に行われた作戦会議。そこにはゼルメイトの四人が前回と同じように集っていた。そして、この会議の内容を端的にまとめれば、「前回は二人とも最高の走りができた。コースもさして変わらない今回。レースプランも変えずに挑もう」という内容だった。
そのため、レース序盤から礼はアフリカ系の選手に混じってペースメーカーの外れたこの集団を引っ張っている。
今の私の狙いとしては名古屋市役所前の急激な登り坂まではこの先頭集団の最後方で前の選手を風よけにして、力を温存すること。そして、登り坂に入ったらスパートをかけ、東と並ぶこと。そうすれば、ゴール地点まで以前のような相乗効果が期待できる。
ふと沿道に目をやる。すると、「名古屋の星・鬼頭清美」と書かれた横断幕を持ったファンが私に声援を送る。そんな光景を見ると、「まるで、凱旋レースだな」と大井ヘッドコーチにレース前、軽口をたたかれたのを思い出す。
でも、そう思ってしまうかのような声援をこの三十キロ浴び続けてきた。世界陸上が自国開催ということもあって注目度が高いのはあるだろうが、礼や福永を呼ぶ声よりも私を呼ぶ声が大きいように思える。
もちろん私が名古屋生まれ名古屋育ちの生粋の名古屋っ子という要素も大きいだろう。だが、私が春に見せた名古屋ウィメンズマラソンでの走りが多くの人の心を打ったのではないか。村田監督に陸上が好きになってほしいと思いながら駆けたその走りは、視聴者にも伝播したのではないか。そううぬぼれてしまう。
今のところ息切れはほとんどない。脚の回転は滑らかで、体幹は微動だにしない。足も十分に残っている。この夏、みっちり取り組んできたスタミナ練習の成果が出ている表れだった。
だが、疲労度はまだ今春の名古屋ウィメンズマラソンの疲れが抜け切れていない感覚があった。
それもそうだろう。あれほどまでに過酷なレースの後はもう少し間隔をあけて、次のレースに出走する。だが、世界陸上を目標にしている手前、そんなわけにはならなかった。
少し無理をしてでも出走したかった。もう一度礼との真剣勝負で胸を焦がしたい。村田監督にさらに陸上が楽しいものだと感じてほしい。そして何より、苦労してつかみ取った世界の舞台で暴れたい。それはアスリートとして、そして一人の陸上を愛する者として根幹にある思いだった。
疲労感はもちろんある。だが、コンディションで言えば、高校時代と同等、いやそれ以上に好調かもしれない。あの頃の誰にも負けることがないような、「都大路の鬼」と呼ばれたときの無敵の感覚に近しい。
その感覚は、単なる好調ではない。あの春、村田監督のために、そして自分自身の陸上への情熱を取り戻すために駆けた、あの「極限の走りと勝利の体験」が、私の走りの次元を一段階引き上げたのだ。
私は静かに息を吸い込んだ。肺を満たす冷たい空気が、まるで新たなエネルギーを注入するかのようだった。
いよいよ、運命のエリアに差し掛かる。
市役所前の登り坂。
前回の名古屋ウィメンズマラソンでは、私がここで初めて集団の先頭に追いつき、スパートを仕掛けた「勝負の分かれ目」だ。そして、今回も、私のレースプランの核となる場所である。
私は、先行する礼の背中を見つめた。彼女は、アフリカ勢に混じって、依然として力強いリズムで集団をリードしている。相変わらず、タフな走りだ。
彼女の走りには、迷いがない。私はマラソン経験が浅い。このレースに出場する選手で一番浅いだろう。だが、前回のレースで、礼と共に走れば、相乗効果で結果を出せることは確実だ。
今回の作戦会議で決まったのは、「再現」だ。前回と同じく市役所前の登り坂までは、私はこの集団の風よけの恩恵を最大限に享受する。そして、登りに入ったら一気にペースアップし、礼と並ぶ。
もし、二人並んで坂を駆け上がることができれば、その後の残り七キロは、前回のような極限の競り合いから、再び二人で世界をリードする展開に持ち込めるはずだ。世界のランナーは、日本の二人がこんなにも完璧な切磋琢磨を見せるとは予想していないだろう。
若干のカーブののち、直線が見えてきた。その直線は目視でも急激な登り坂であることを訴える。
沿道の声援のボリュームが、一気に最大値まで跳ね上がった。
「清美ー!頑張れ!」
「鬼頭!ここで仕掛けろ!」
やはり前走、ここで仕掛けた実績からこの沿道で待ち構える多くの観客は再びここで仕掛けるのだろうという期待を抱いているようだった。その声援は、私に勇気を与える反面、「ここで動かなければならない」という焦燥感も煽る。
私は、前にいる選手たちのわずかな息遣いや、ストライドの乱れを探った。登り坂は、平地以上に体力の消耗が激しい。誰かが必ず、一瞬の弱みを見せる。
東礼が、坂の入り口で一度、深呼吸をしたのが遠くで見えた。彼女の闘志が、私のところまで伝わってくるようだ。
(さあ、行くぞ、礼。最高の舞台だ。また、二人で…!)
私は、膝を高く上げ、前傾姿勢に入った。筋肉に、蓄積されたすべての力を集中させる。
そして、運命の一歩を踏み出した。
前傾姿勢を深める。脚に、爆発的な力を込める。
ここだ。
まさにその勝負の一歩を踏み出そうとした、重心が移動し始めた刹那。
不協和音が、響いた。
それは筋肉の違和感ではない。それは、骨が軋むような、あるいは空気が破裂するような、鋭い、そして聞いたことのない感覚だった。
体内から、爆音が響き渡った。
左脚が、急激に、力を失った。まるで、関節から下が、ただの肉の塊になってしまったかのように、制御不能になる。
視界が、スローモーションになる。
傾いていく自分の体。必死に腕を振るが、脚が動かない。アスファルトが、猛烈な速度で迫ってくる。
反射的に受身を取ろうとしたが、間に合わない。
全身に、衝撃が走った。
「……ああ」
地面に叩きつけられた衝撃。そして、左脚に感じる、これまで体験したことのない激痛。
触れなくてもわかる。何かが、「終わった」のだ。
周囲の喧騒が一気に押し寄せる。観衆の驚愕した叫び声。サイレンの音。審判や救護班の慌ただしい声。
頭が混乱している。呆然と進行方向を見つめる。
礼は先頭を維持したまま、走っているように見える。きっと私が横に並ぶのを期待して、上り坂でも減速しないようにストライドを大きく保ってかけて行ったのだろう。
そんな不甲斐なさか、それともこの怪我の痛みか、それとも何かが「終わった」絶望か。私は気づけば、涙が流れていた。
遠ざかっていく先頭集団の背中。レースは、止まらない。
「大丈夫ですか!?動かないで!」
「メディカルチーム!担架を!」
救護班が駆け寄り、テキパキと処置をしていく。私は担架に乗せられ、医療用車両へと搬送されていった。
医療チームの迅速な対応。しかし、そのどれもが、私にはどこか他人事のように感じられた。
「どうして……私が……」
搬送先の病院で待っているのは、きっと、残酷な宣告だろう。
車両がカーブを切る。サイレンの音が遠ざかったり、また近づいたりする。窓の外を、ビルの影が流れ、観客の姿が見える。スマホを構えていた人々が、驚愕の表情に変わり、指をさし、口々に何かを叫んでいる。
私は、それを正面から見られなかった。
視線を天井に向けると、白色LEDの光が淡く揺れていた。今まで何百回も見てきた競技場の照明とは違う、無機質な光。
(こんなの……嫌だ)
喉の奥から、声にならない声が漏れた。
医療用車両の揺れはほとんど感じなかった。最新の衝撃吸収システムが使われているのだろう。しかし、それでも身体は小刻みに震えていた。痛みで震えているのか、恐怖で震えているのか、自分でも釈然としない。
担架の金属の冷たさが、左脚の熱したような痛みに触れるたび、まるで別の生き物が暴れているかのようだった。
救急隊員が私の顔を覗き込み、落ち着いた声で言う。
「意識はありますか?呼吸しづらくありませんか?」
私は小さく首を振ろうとしたが、上手く動かない。頸に力が入らない。
こんなところで、こんな形で終わってしまうのか。認めたくなかった。受け入れたくなかった。
レース前、村田監督が言った言葉が、急に鮮明に蘇る。
「お前の走りは、必ず世界に通用する。鬼頭、堂々と走ってこい」
あの静かで、だが揺るぎない声。優しいけれど、選手としての私を信じきってくれていた声。そして、陸上へ「好き」という感情を持った温かみのある声。
その期待ごと、壊れてしまったのではないかという恐怖が、胸を締め付けた。
手を握られる感触があった。救護隊員の一人が、痛み止めを投与しながら言う。
「大丈夫、すぐ着きますからね。意識しっかり保ってください」
その言葉は、優しかった。だが、優しさが皮肉のように胸に刺さる。
礼は、走っている。
東礼は、あの坂を駆け上がっていった。
私が、隣で走ると信じて疑わずに。
唇が震え、涙がこぼれた。頬を伝い、耳の裏へ流れていく。
その瞬間、車両がわずかに減速し、救護隊員が無線で誰かと話し始めた。
「患者、左下肢に強い変形。骨折の可能性大。脈拍やや速いが安定。呼吸正常。意識は清明」
淡々とした報告。
それを聞くだけで、胸が締め付けられた。
変形。骨折。可能性大。
陸上選手にとって、そのどれもが刃物のような言葉だ。
(いやだ。まだ……まだ走りたい)
声にならない叫びをあげる私を乗せた車両は、病院の救急搬入口に滑り込んだ。
ドアが開くと、白衣の医師たちが一斉に駆け寄ってきた。空気が一変する。温度の低い、切迫した空気。
「左下腿の外反変形!CTとX線すぐに!」
「血流は? 足背動脈触れる?」
「はい、弱いですが触れます!」
「念のため整形の手配を!競技中の受傷です!」
"競技中の受傷"
その言葉が、耳に刺さる。
担架が動き出す。天井のライトが次々と流れる。
その光は、まるで"過去の栄光"が遠ざかっていくようだった。
失われたものへの、絶望と怒り。これまでの、血の滲むような努力の全てが、本当に無に帰したのか。
頭の中に、嵐のように疑問が渦巻く。
(どうして……私が……)
痛みが波のように押し寄せ、視界の端が揺らぐ。
検査室の扉が開く直前、私はかすかに呟いた。
「ゴールしたかった……」
しかし、その言葉は誰にも届かなかった。
扉が閉まり、私は真っ白な世界に吸い込まれていった。
救急搬入口の自動ドアが開いた瞬間、私は走り込んだ。
胸が焼けるように熱い。レース中継で鬼頭がいきなり転倒した様子を見た時から、心臓はずっと喉の奥に張り付いている。
受付に駆け寄ると、病院職員がすぐに私の胸のゼルメイトのエンブレムを確認し、険しい表情で案内してくれた。
「鬼頭選手は、こちらです。現在、整形外科医が診察中です」
その"整形外科医"という言葉だけで、嫌な予感が背筋を這い上がる。
接触によって倒れ込んだのでもなく、倒れる数キロ前からフラフラとしていたわけではない。
走りながら突然倒れたのだ。
これの意味することは陸上経験者ならわかるだろう。
絶望だ。絶望でしかない。
診察室の前で待たされていると、大井も駆け込んできた。
「村田!鬼頭は!鬼頭はどうなんだ!?容体は!?」
「まだだ。まだ診断は……」
言葉は途中で途切れた。
こんなに声が震えるのは久しぶりだ。いや、初めての経験かもしれない。
しばらくして、白衣の医師が静かに歩いてきた。
その歩き方で、すべて悟った。
"軽傷ではない"──そんな足取りだ。
「ご家族の方、もしくはチームの関係者の方は?」
私は一歩前へ出た。
「監督の村田です」
医師は一度だけ深くうなずき、言いづらそうに口を開いた。
「鬼頭選手は……左脛骨の疲労骨折が進行しており、そこから完全な骨折に至った可能性が高いです。診断名は疾走型疲労骨折からの脛骨骨折といったところでしょうか……」
大井が息を呑んだ。
私は、一瞬思考が止まった。
疲労骨折からの脛骨骨折。
疲労骨折に関しては"進行していた"。
自分は気づくことができなかったのだ。
「さらに、倒れた際に足首周辺の靭帯を損傷しています。いま腫れが強く、MRIを取らないと断定はできませんが……回復には、相当な期間を要します」
"相当な期間"。
レース後の記者会見で、選手生命の危機を意味する時に使われる最も無難な表現だ。
だが、監督としては分かってしまう。
鬼頭の選手生命はここで終わった。
鬼頭は二十八歳。陸上選手としては今一番脂がのっている頃だ。そんな時期をこの怪我によって棒に振る。そして復帰したころには年齢も重ねて肉体的なピークは通り過ぎている。そこに怪我の後遺症も乗っかるかもしれない。そして何より、鬼頭はレース経験も薄い。
辛いリハビリを乗り越えて、競技に復帰したとしてもスピードランナーとしてもレース巧者としても生きる道がない。
それに脛骨の疲労骨折は再発がしやすい。そして、そんな再びの骨折を避けるための「かばい走り」ではいいフォームを築くこともできなければ、反対脚のハムストリングの張りや足首痛などの二次的な怪我を引き起こす可能性が高い。
鬼頭の選手生命はここで終わった。
医師は続ける。
「ただ、神経や血管に致命的な損傷はありません。手術にはなりますが、歩行が困難になるような後遺症は避けられる見込みです」
歩行はできる。
しかし──"走る"は、別の話だ。
私は無意識に拳を握りしめていた。
爪が手のひらに食い込むほどに。
鬼頭はあんなにも強かったのに。
名古屋の街を、誰よりも軽やかに駆けていった。
春の名古屋ウィメンズで、痛みも不安も超えて走った。
私の凍り付いた心を灼熱で溶かしてくれた。
その鬼頭が"脚の異変に負けて倒れた"。
その意味を考えると、胸が締めつけられる。
医師が私の表情に気づき、少しだけ柔らかい声で言った。
「救護が早かったのは幸いです。すぐに処置を行い、固定を済ませました。今、痛み止めで休ませています。面会は……状態が落ち着けば可能です」
私はうなずくのが精一杯だった。
自分があまりに負荷をかけすぎていたのか。
確かに世界陸上の期間が短いことも分かっていた。それもあんなにタフなレースをした後であれば、なおさらだ。
それでも、鬼頭は『走りたい』と言った。その表情は燦然と輝いていた。陸上を愛する一心だけで、肉体のことを考えず、決断したように思えた。
自分はそれを止めなかった。送り出してしまった。その結果がこれだ。
頭の中で答えの出ない問いが渦巻く。
大井が小さく呟いた。
「村田。鬼頭は春の名古屋から疲労が完全には抜けてなかったかもしれない......」
それは、監督である私が一番痛感していた。
だからこそ言葉が出ない。
医師が少し姿勢を正した。
「鬼頭選手の競技復帰については、診断結果が揃った段階で改めてご説明します。ですが──焦る必要はありません。時間さえかければ、回復の芽はあります」
"芽はある"。
希望があると言われているのに、どこか空虚に響く。
芽はあるかもしれないが、花が咲くことはもうないだろう。
私は深く息を吸い、顔を上げた。監督として、選手の前に立つ覚悟を取り戻すために。
「……分かりました。ありがとうございます」
医師が頭を下げ、診察室へ戻っていく。
残された私は、しばらくその場から動けなかった。
足元が重い。
目の奥が熱い。
鬼頭に向かってどんな表情でどんな言葉を紡げばいいのか。
"ごめん"とも違う。
"頑張れ"でもない。
"戻れる"とも言い切れない。
それでも、監督として彼女の前に立たなければならない。
私は、ゆっくり歩き出した。鬼頭清美のいる病室へ。
大井へは東に現状を報告するよう指示を出した。
リノリウムの床を踏みしめて私は鬼頭のいる病室の前に立つ。
病棟の廊下は、異様なほど静かだった。先ほどまで耳に残っていたサイレンの余韻が、逆にその静けさを際立たせている。
病室の前で一度立ち止まる。
胸が、嫌に重い。
ノックする前に、私は一度だけ深呼吸をした。
監督としてではなく──鬼頭清美を支えてきた大人として。
ノブに手をかけ、そっと扉を開ける。
薄暗い室内で、カーテン越しに秋の光が柔らかく差し込んでいた。テレビの音が小さく響く。
その光の中で、鬼頭は静かに横たわっていた。
左脚には分厚い固定具。点滴の管が白い腕に伸びている。
彼女は目を閉じていたが、気配に気づいたのか、ゆっくり瞼を開けた。
「監督……」
掠れた小さな声だった。
その声だけで胸が締めつけられた。
私はベッド脇まで歩き、静かに椅子に腰を下ろす。
「痛みは……どうだ」
そう問いかけると、清美は少しだけ笑おうとした。
笑おうとして、笑えず、目尻がわずかに震える。
「痛みはもちろんありますね。いきなり爆発した感覚です」
ぽつりとそうつぶやく。沈黙が落ちる。
医療機器の電子音だけが規則正しく鳴っている。
私は拳を膝の上で強く握りしめた。
「鬼頭。医師から、診断を聞いた」
鬼頭の肩が、小さく震えた。彼女は何も言わない。言えないのだろう。
私は続けた。
「疲労骨折が進行しての脛骨骨折だそうだ。おそらく……春の疲れが、ここにきて出たのだろう」
鬼頭は目を伏せた。睫毛に涙がひとつ、溜まり始める。
「そっか……そうですよね……ものすごい音がしましたし、痛みも尋常じゃなかったですし……」
「すみません監督……確かに疲労は溜まっていました。でも……これぐらいなら大丈夫だろうと高をくくっていました……それにこの舞台で走りたかったんです。少し無理してでも、この舞台に足を踏み入れたかったんです……」
声は震え、途中でかすれた。
私は胸の奥で、深く後悔した。
止めるべきだったのは、私だ。
彼女が何を抱えて、何と闘っていたか──監督である私が、気づくべきだった。
テレビでは女子マラソンのハイライトを映している。東は七位入賞を果たしたようだ。
この順位は胸を張って誇るべきものだ。だが、アジア人トップの記録を残してもなお、その表情は釈然とせず、堅く見える。終盤の走り。特に鬼頭が脱落してからは、走りも表情も精彩を欠いたように思える。東は鬼頭と競り合いたい気持ちでいっぱいだったのだろう。
その気持ちは、ゴール後すぐに後ろを振り向いたその姿から察せられた。
鬼頭の肩がわずかに震えているのを見て、私はゆっくり息をつき、声を落とした。
「鬼頭……正直に言うと、この怪我は走る選手にとって非常に重い。マラソンに戻るのは簡単じゃない。だが、根気強く続けていけば、また復帰できる」
復帰はできるかもしれないが、一線級の選手へは戻れないだろう。そんな言葉が浮かぶが、鬼頭には伝えない。今、そんな事実を知っても何の意味もない。私は監督だ。現実を告げる必要もあるが、希望を持たせるのも、私の役割だ。
「今は走れなくなった。そうかもしれない。でも、だからといって陸上を愛する気持ちまで終わるわけじゃない。君が積み上げてきたものは、記録も、経験も、誰も奪えない」
月並みな励ましの言葉をかける。だが、鬼頭は微動だにせず、うつむいている。
少し顔を上げ、鬼頭は口を開いた。飛び出したのは衝撃の言葉だった。
「私、走ることやめます。陸上から離れます」
私は息を呑んだ。
胸の奥が、冷たい衝撃に打たれたように固まる。言葉が出ない。まるで時間が止まったかのようだった。
もちろん競技者としては、復帰後に苦難の道をたどることになるだろう。だが、陸上への情熱たぎる彼女ならば、そんな困難に立ち向かってくれる。そして、いとも簡単に乗り越えてくれると信じ切っていた。
だが、鬼頭はそんな未来にNOを突きつけた。
「……え?」
思わず声が震える。監督としての理性と、ただ一人の人間としての感情が同時に揺さぶられる。
鬼頭はこちらを向いて、静かに頷いた。
「私、ずっと走ることがすべてだと思っていました。でも……でも、もう無理です。体が……ついてきてくれない」
大学時代の怪我、やっと不調を抜け出したと思ったら、再びの怪我。この怪我は、燃え滾る鬼頭の陸上への情熱に冷や水を浴びせたのだろう。そして、その情熱は鎮火されてしまったのだろう。
私は椅子に深く腰を下ろし、両手で顔を覆った。何も言えない。どれほどの努力を重ね、どれほどの希望を胸に秘め、どれほどの覚悟で挑んだか……そのすべてを知っているからこそ、言葉が詰まる。
「でも……鬼頭、君はまだ若い。さっきも言った通り、回復だってできる。陸上を続ける道は、まだあるんだ……」
私の声はかすれ、どこか頼りない。
だが、清美は首を横に振る。
「違います、監督。陸上は大好きです。だけど……もう私の道は、違う方向に進むべきだと思います」
その言葉に、胸が締め付けられる。無念、絶望、そして痛み……複雑な感情が渦巻いているのだろう。
瞳の奥には、あの並外れた陸上への情熱を見つけることができなかった。
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