7.決戦

 三月の第三週目に当たる日曜日。ナゴヤドームを左手に望むこの通りには、市民ランナーを含めたこのレースを走る人でごった返している。集団の先頭には実業団の選手やチームに所属しているような選手が集まる。その中には高校・大学時代で見知った顔もいる。

 ついに名古屋ウィメンズマラソン当日。決戦の日だ。

 不思議と緊張はしていなかった。もちろんこの日のために練習を重ねてきたこともある。だが、それ以上に不思議と『勝てる』という根拠のない自信が自分の中で蔓延していたからだ。

 それは決して慢心なんかではない。というか私は慢心できる立場ではない。十二月の山陽女子ロードレースで好記録を出したものの、フルマラソンとハーフマラソンは競技特性だけではなく、注目度や選手の能力など大きな差がある。ハーフマラソンで実績のある選手でもフルマラソンでは鳴かず飛ばずなんてこともよくある。

 そんな中で直近のハーフマラソンで結果を出しただけの私が優勝を狙えると馬鹿正直に思っているのは、はたから見たらちゃんちゃらおかしな話だ。

 だが、私は様々な思いを背負ってこのスタートラインに立っている。

 培った練習の成果を発揮して、この地で爆発を果たすためにも。最大の仲間で最大のライバルである東礼という存在を打ち負かすためにも。そして何より、恩人である村田星一に陸上を好きになってもらうためにも、このレースで圧倒的な爆発を見せ、周囲の下馬評を覆し、優勝をかっさらわなければならないのだ。

 そう思うと、緊張とはまたベクトルの違う胸の高鳴りが私の体にこだまする。それは私が走ることを愛してやまないという走りに対する情熱から来るものだろうと自己解決する。

 もうスタート時間の九時十分が迫ってきていることを手元の腕時計で確認する。その場で軽く飛び跳ね、自分の太ももとふくらはぎをペシペシと叩き、体にレースが迫っていることを自覚させる。すると礼が私の元に近づいてきて、あっけらかんな様子で微笑む。

 「清美、緊張してる?」

 「いや、全然。それどころか一位を取る気で満々だよ」

 無謀と思えるであろう私の発言に周囲の選手たちは怪訝な表情を見せる。だが、礼だけは微笑みの表情を崩さなかった。

 「そうこなくっちゃ!清美は私以上に走ることを愛している。それはゼルメイトで一緒に過ごして、メートク時代よりも関係を深めて分かったことだよ。その言葉が清美にとってふさわしいよ!」

 その言葉がこの場面でどれほど心強い支えの言葉になるか、礼は自覚していないようだった。

 「周囲は清美が優勝することを真っ直ぐ信じていないかもしれないけど、私は友人として清美の優勝を心から信じている。だけど――」

 礼の表情は笑顔からレースの時に見せる凛々しい表情へと変化する。

 「選手としての私は、このレースに絶対勝つ。その気持ち一心で挑むよ」

 「それがスポーツマンシップに則った誠実な陸上への向き合い方だし、ランナーとして当然の行いでしょ。そして何より、私との真っ向勝負を望んだ清美にも失礼。だから、私はこのレース、死力を尽くす」

 東礼のその言葉は、まるで彼女自身が発した号砲のようだった。

 私の胸は、友情による安堵感と、トップランナーからの挑戦状を受けた興奮で満たされた。周囲の選手たちの怪訝な視線など、もうどうでもよかった。

 東礼が、自分の最大の理解者であり、最高のライバルであること。この一年間、そんな人物と切磋琢磨してきた事実こそが、私の「根拠のない自信」を揺るぎない確信へと変えた。

 礼への感謝を込めて、力強く頷いた。

 「私も、死力を尽くす。このレースで、私の陸上人生の全てを爆発させる。礼、覚悟しててね」

 私と礼は一瞬だけ、互いの決意を瞳に焼き付け合うように見つめ合った。その時、レース開始が迫ることを告げるアナウンスが響き渡る。

 「じゃ、またレース後」

 そう短く言い残すと、高層ビルひしめく名古屋の街を見据えるように前を向いてスタートラインに立つ。私もそんな礼の後ろあたりで号砲が鳴り響くのを待つ。

 東礼の背中が、そこにある。

 今日ばかりは、ただの「チームメイト」ではない。彼女は、私が乗り越えるべき「壁」であり、ゴールへの「道標」なのだ。

 張り詰めた空気の中、ピストルを構える審判の指が、私にはスローモーションのように見えた。

 パン!

 乾いた号砲が、春の空気を切り裂く。それと同時に、迷いなく地面を強く蹴った。

 (行くぞ、最高の爆発を――)

 そんな思いを胸に抱きながら、名古屋の街に向けて駆けだしていった。


 私は中間点付近にある白川公園のベンチに腰かけていた。大井が十キロごとにある給水地点で控えながら、二人の様子を伝える役目を果たす。そして私は中間点で声をかけた後はゴールのナゴヤドームで二人を迎える。そういう計画を立てている。

 私はスマホを開き、動画サービスのアプリマークをタップする。テレビ局とこのアプリが連携しているおかげで、ほとんどリアルタイムで中継を見ることができるのだ。

 ちょうどその中継を開くと選手紹介の場面であった。

 「世界陸上の夢舞台へ、出発進行!目指すは一着、世界への切符!関東急行鉄道グループ・今宮ほのか!」

 「祖父・父は箱根路の経験者!"華麗なる一族"の底力を名古屋の地で見せつけろ!トキワ鋼管・土田円佳!」

 「世界の舞台に向かって全速前進、ヨーソロー!四十二.一九五キロの航路へ出航だ!イズミ造船グループ・内海光!」

 軽快に前口上を読み上げていくアナウンサーは、この大会の注目選手を中心に読み上げているようだった。たしかにこの三選手は実力十分なランナーで警戒が必要だ。だが、ゼルメイトの独壇場になるのではないかという願望に近いような展開予想が私の頭を占める。

 そして東がカメラに抜かれる。

 「大阪国際女子マラソンの激走からわずか中六週!世界陸上進出をほとんど決定的にしたにもかかわらず、前代未聞の過酷ローテを歩みます!ゼルメイト・東礼!」

 その紹介には一番熱がこもっているように思えた。それもそのはずだ。この名古屋ウィメンズマラソンの優勝は、大阪に引き続き東が手にするのではないかと多くのメディアでは予想されていた。これほど劣悪なローテにも関わらず、それほどまでの期待がかかるのは、彼女がいかにすさまじい安定力を持ったランナーだということが分かる。

 東を最後に前口上は終了する。鬼頭の紹介はないどころか、鬼頭単体でカメラに抜かれることはなかった。やはり想像していたが、鬼頭の注目度はそれほど高いとは言えないようだった。最近ではハーフマラソン出身の選手がフルマラソンに挑戦することも少ないし、挑戦しても芳しい成績は残さない。

 鬼頭もきっとそんな一員なのだろうという世間の冷めた目線が思い浮かぶ。

 (今はそれでいい。二時間後、そいつらに一泡吹かせるくらいの走りを見せてくれ。そして、私に陸上は面白いんだと証明して、私を陸上を愛せる体にしてくれ)

 そう切に願った。

 パン、とピストルの乾いた音がなり、スタートを告げた。

 三分二十秒で設定されたペースメーカーに招待選手がついていく形で先頭集団が形成され、それに約五秒ほど遅れる形で第二集団が三キロ地点を過ぎるころには形成された。予想よりも早く集団がまとまったが、これくらいなら想定内だ。

 東はペースメーカーを風よけとして利用するようにピッタリ背後に付き、鬼頭はカメラにはなかなか抜かれないものの第二集団の中にいるだろう。とりあえずは作戦通りに行っていると分かり、胸をなでおろした。

 一瞬空を仰ぐ。今日は春とはいえ、日差しは強い。だが湿度が低く、レースには理想的な気候だった。これなら、終盤のスパート合戦になる。つまり鬼頭の脚質には最も合っている展開だ。

 五キロを通過。先頭集団は十六分四十一秒。第二集団は一七分三秒当たりのペースで進んでいる。両方とも予想通り、三分二十秒、三分二十五秒のペースを刻んでいるようだった。自分が想定していた通りのペース配分だ。

 東礼が先頭集団のペースメーカーのすぐ後ろにつき、風よけを完璧に利用していることが、中継のカメラワークからも確認できる。

 鬼頭は、おそらく第二集団の中。今のところ目立った動きはないが、それがまさに鬼頭の狙い通りの展開だ。世間の注目は薄い方がいい。終盤の勝負に賭ける彼女の脚質からすれば、前半は体力を温存し、実力者たちが牽制し合うのを待つのが最善手だ。

 相も変わらずスマートフォンの画面に映る中継をじっと見つめ続けていた。

 「よし、このままいけば、十キロまでは大きな変動はないはずだ」

 一人頷きながら、私は鬼頭の紹介がなかったことに、改めて世間の冷めた目を思い知る。しかし、それは裏を返せば、「大穴」として爆発する最大のチャンスでもある。

 「頼むぞ、清美。皆が、ハーフ上がりの君を舐めている間に、力を温存してくれ」

 そう小さくつぶやく。彼女の走りが、私自身が陸上を愛するきっかけになる。その一心で、私は鬼頭に全てを託した。

 鬼頭は、長距離走の適性がありながら、持ち前の爆発的なスパート力という、他のランナーにはない「切り札」を持っている。それが終盤の勝負どころで火を噴けば、これまでの下馬評など一瞬で覆るだろう。

 そう強く思いながら、レースを再び食い入るように見る。まだレースは始まったばかりだ。


 左に曲がると瑞穂運動場がある交差点をそのまま直進していく。依然として私は集団の中で足をためていた。

 中学校の頃から馴染みのある瑞穂運動場。その姿は見えないが、この場所には思い出がある。中学校・高校での地区大会ではこの競技場が使用された。基本的に出た大会すべて、もちろん優勝に輝いた思い出がある。あの頃の私には、陸上はただの「得意なこと」だった。大学時代に怪我を味わうまでは。

 「清美、緊張してる?」という礼の声が、数分前のことなのに、もう遠い昔のようだ。私の無謀な「一位を取る」発言。周囲の怪訝な視線と、それとは対照的な礼の「清美の優勝を心から信じている」という言葉。あの瞬間に、私の『根拠のない自信』は『揺るぎない確信』に変わった。

 今は第二集団の中。集団の風よけを利用し、可能な限り力を温存する。村田監督と大井ヘッドコーチの指示通りだ。

 「鬼頭の武器は爆発的なスピードと、ネガティブスプリットを出せる後半の強さだ」

 その言葉を反芻する。その言葉には、私に対する希望が詰まっていたように思える。

 環状線を曲がり、名城線の堀田駅へ集団は相変わらず、同じようなペースを刻みながら向かっていく。

 そして、一度目の折り返し。ここでアフリカ系のペースメーカーが引っ張る先頭集団の表情をチラッと確認する。皆、これくらいは朝飯前だという様子で余裕綽々の表情が反対車線側に伺える。

 それもそうだ。まだ十キロにも達していないのに、ここでダレていたら、この名古屋ウィメンズの舞台に立つのは相応しくない。

 そしてその集団の中には、ゼルメイトの「ZM」の文字と、サクラの小さなロゴマークを胸に称えた黒を基調とした私と同じユニフォームを着る礼をわずかではあるものの捉えることができた。

 まだ集団の中で、精密機械の異名通り、無駄のない惚れ惚れするようなフォームでこの名古屋を駆けて行く。

 先頭集団は、まだペースメーカーの後ろで静観しているはず。その中にいる実力者たちは、誰もが「大阪で激走したばかりの東礼が、この劣悪なローテでどこまで持つのか」と様子を見ているに違いない。つまり、彼女たちの間には牽制の空気が流れている。

 私の出番はまだ先。焦る気持ちを抑え、目の前のランナーの背中だけを見つめ、ひたすらにリズムを刻む。

 私たち第二集団も折り返しに差し掛かる。第二集団のペースは変わらず三分二十五秒前後。集団の規模もまだ大きく、十五人ほどいる。体力の消耗は最小限に抑えられている。理想的だ。

 先頭集団との差は四十〜五十秒といったところ。これも予想通りだ。

 (もう少しだ。中間点まで我慢。私は今日、ここで爆発する。礼を、そして世間の下馬評を打ち負かし、村田監督に陸上は面白いと証明する!)

 そんなたぎる思いを胸にひめながら、前の方に目をやると、先頭集団が十キロの看板を横切るところだった。


 スマホの中継画面に映る、第二集団の先頭付近。ちらりと映る鬼頭のゼッケンに、私は安堵の息を漏らした。

 「よし、まだ大人しくしているな」

 十キロ通過タイムを確認する。三十四分十秒。ほぼ作戦通り。東がいる先頭集団との差は、予想通り四十五秒ほどに開いている。

 鬼頭のような極端なネガティブスプリットの作戦を取ろうとすると、第二集団で足を溜め、中間点から遅くても三十キロ地点あたりで仕掛け、先頭集団に追いつき、最後はペースが落ちて行くライバルを尻目にゴールテープを切る。これが成功すれば、気持ちのいい勝ち方と言えるだろう。

 だが、この作戦には欠点がいくつかある。

 一つ目は、ペース配分の難しさだ。

 突っ込み過ぎたペースでゴール手前でガス欠状態になったり、逆に突っ込み過ぎないペースで行ってしまい、全力を出す頃にはもうゴール手前、なんていう事故がある。

 このような事故がある以上、ペースをアバウトにしか刻めない、ペースをいまいち把握できていないランナーには不向きなのだ。

 二つ目に、単独走がどこかで入ってくることだ。

 近年のハイレベルな女子マラソンでは、基本的に三分二十秒で行く先頭集団と、三分二十五秒から三分半あたりで行く第二集団が形成される。

 そのため、極端なネガティブスプリットのいわば出発地点である第二集団と、追いつかなければならない先頭集団とは、仕掛ける時点で少なくとも一分半ほどの差がある。女子マラソンで言えば、百五十メートルあるかないかだ。

 そのため、なんとか先頭集団に追いつくためには、単独走という一人旅をほとんどの場合強いられる。

 単独走は先頭に他の選手がいないため、ペースが崩れやすかったり、風の影響を受けて本来の走りに翳りが出る。

 そんなデメリットを背負いながら、先頭との距離を縮めて行くのは、至難の業だ。

 だが、そんな困難を極める極端なネガティブスプリットに鬼頭は向いていると思うのだ。

 まずペースに関して。鬼頭はチームメイトに東礼という稀代の精密機械がいるせいで霞むが、山陽女子ロードレースのラップタイムを見ると、それなりのペースを刻む能力を持っている。

 五キロのラップタイムが良い時と悪い時で五秒の差しかないような特異点的存在である東には劣るものの、上位層のマラソン選手の平均かそれ以上ほどペースを刻むのが上手い。

 一つ目の懸念材料はクリアだ。

 次に単独走について。鬼頭は長い間、燻る長いトンネルの中にいたわけだが、怪我をするまでの鬼頭はまさに走りの才能と、走りに対する並々ならぬ情熱を持った、まさに走りのためにチューンアップされたサイボーグのような存在だった。

 だから、駅伝でもトラックレースでも終盤になれば、多くの場合、先頭の景色を独り占めしていた。

 だから、感覚は若干鈍っているかもしれないが、単独走の経験は人一倍ある。経験があるとないでは大違いだ。

 これで二つ目の懸念材料もクリアだ。

 天性のネガティブスプリットの才能と、ネガティブスプリットのために出来上がったのではないかと錯覚するような持ち得る実力は、極端なネガティブスプリットを実現するという未来予想図は、初マラソンというハンディキャップがあっても現実的なものだと私と大井は信じている。

 私は白川公園のベンチで、そんな思考を巡らせながら、固唾を飲んで変わらず、真剣に画面を見つめていた。だが、周りの同業者らしき人物の声が耳に入る。

 「東に注目して、普段だったら突っ込みがちな土田も今日は控えてる。先頭集団は牽制しあってるな……これは後半勝負になりそうだな」

 そのグループでいちばんの年配者と思える白髪の男がそう口を開く。やはり、陸上関係者にとってはこの展開、後半の勝負になるのだと耳にして、どこか私は安心した気持ちになった。

 「東礼、今日は抑えてるな。後半勝負だろう」

 「いや、今宮の調子が良さそうだ。ここで一気にペースアップするんじゃないか?」

 どうやら彼らは先頭集団の有力選手の名前を口々に上げているのが聞こえる。

 誰も、第二集団にいる鬼頭清美の名を口にしない。

 (それでいい。清美は、まだ『大穴』のままでいろ)

 私は心臓が脈打つのを感じていた。それは、レースへの興奮か、それとも、彼女が失敗するかもしれないという不安か。いや、違う。この高鳴りは、鬼頭清美という一人のランナーが持つ無限の可能性に対する、純粋な期待だ。

 陸上を、走ることを「愛せない」自分。そんな自分が、「走ることを愛してやまない」清美の走りに、自分の変化を託している。彼女がこのレースで周囲を圧倒するような爆発を見せれば、その熱量が、冷え切った私の心にも火をつけてくれるのではないか。

 中継は今池駅あたりを左折し、桜通に入った先頭集団を映す。三大都市・名古屋の産業を支えているであろうオフィスの入った雑居ビルが立ち並ぶ街並みと、その中を淡々と走る選手たち。

 「鬼頭、頼むぞ。君の走りで、私の『人生』を変えてくれ……」

 私が放ったその独り言は、そのまま春のうららかな陽気に飲み込まれて行った。


 十五キロを過ぎたあたりから、先頭集団についていけないのか、それとも戦略的に下がってきているのかわからないが、何人かが前から合流してきた。

 今池駅あたりを左折すると、一時的に交差点で見えなかった先頭集団が遠くに見える。差としては一分半ないぐらいか。

 細く長いロングスパートを仕掛ける地点である中間点まではあと五キロを切った。

 後十五分も走れば、私の運命を左右する時間がスタートするのだ。否が応でも緊張が走る。

 大学時代から続く燻りは、自分の中で山陽女子ロードレースで脱出したつもりだ。だが、以前までは世間は"都大路の鬼"と呼ばれた私にかける期待は並大抵のランナー以上だった。

 高校時代は最低でもオリンピック・世界陸上。最高ではアジア人最速を目指せるのではないかと目された。

 だが、大学に入ってからはその声は徐々に小さくなると同時に、「鬼頭清美は高校で燃え尽きた」という烙印を押されはじめた。

 だれが燃え尽きた存在だ。確かに走りはスランプそのものだった。だが、走りに対する情熱は燻りを知らなかった。それどころか走れない期間、その情熱は薪をくべられたようにさらに燃え上がった。

 今も沿道では私を応援する声は高校・大学時代と比べて明らかに少ない。一応地元出身のランナーであるため、それなりにこの地域では知名度はある。前走の山陽女子ロードレースよりかは声援は多く感じるが、未来を大いに嘱望されたランナーの未来図がこれと言われたら、当時の多くの人間にとって信じられないだろう。

 だが、マラソンは周囲の声は究極関係ない。もちろん声援をかけられて、自分を奮い立たせることはよくある話だし、実際私も前走のラストスパートはかけられた声援が支えの一部になったと言って過言ではなかった。

 しかし、当たり前だが、全く声援をかけられないランナーが優勝できないというわけではない。もちろん声援を掛けられるランナー=実力のあるランナーという場合が大半だが、力を隠し持ったダークホース的存在や、歯車がきっちり噛み合って予期せぬ好走を見せるフロックが優勝をかっさらう場合もある。

 私もそんな特殊ケースを起こすのだ。フロックと呼ばれてもいい。大金星だと評されてもいい。つまらないレースだったと言われてもいい。優勝は優勝なのだから。

 右手に名古屋テレビ塔が見える。街のシンボルとして長年親しまれてきたこの塔も、今は私を見下ろす観客の一人に過ぎない。

 私の呼吸は規則正しく、フォームも安定している。第二集団の中で、私は確実に力を温存できている。村田監督の作戦は、今のところ完璧に機能していた。


 先頭集団が伏見通に差し掛かる手前に位置する二十キロ地点を通過する。一時間七分ジャスト。それに遅れをとること一分半、第二集団も通過する。

 幸運なことに伊吹おろしは今日は控えめで、それに注意すべき十〜二十キロを乗り越えた。風は初マラソンの選手にとって、大きな懸念点になると心配していたが、その心配は杞憂だったようだ。

 鬼頭は運も味方につけているようだった。

 東は大阪国際女子マラソンの疲れはどこへやらといった様子で、あいも変わらずペースメーカーにピッタリついて行っている。

 鬼頭は対照的に第二集団の中団で待機といった様子。マラソンにおいて集団の風よけの恩恵は非常に大きい。脚の消耗は最小限に抑えられているはずだろう。

 両者とも表情はまだ硬いものの、力みはなく、脚もスムーズに運べているように見える。白川公園のベンチで待つ私も、自然と拳を握りしめていた。

 そろそろ先頭集団がやってくる。私はベンチを立ち、沿道へ向かう。

 沿道は大盛況とは言えない人の集まり具合だった。

 私は選手の表情を捉えられる車道寄りにスムーズに陣取ることができた。

 やがて視線の向こう側にはテレビの中継車が見えてきた。それが通り過ぎると、隠れるようにいた白バイが誘導する先頭集団が見えてきた。そして目の前に先頭集団が迫る。

 「東!後ろとは一分半!このままのペース!このままのペースで行くぞ!」

 ペースメーカーにピッタリつく東は右手を軽くあげ、指導者として典型的な私の指示を聞いたことを示した。

 その表情は冷酷さを感じられるほどの落ち着き払った表情だった。画面で見るのと実物を見るのではやはり違いがある。

 そして、ペースメーカーが引っ張るこの集団はだんだんと細長になっているように思えた。

 程なくして第二集団が見えてきた。その集団の先頭にいたのは鬼頭だった。

 中継から目を離している隙に、先頭へするするとできたようだ。

 それは今からスパートをかけるための事前準備といったところだろうか。

 表情を捉えられる距離まで近づく。

 鬼頭は笑っている。

 東のように冷静沈着な表情でもなく、集団に何とか喰らいつく選手のように歯を食いしばった硬い表情でもなく。

 まだマラソンは半分といったところで、ここで苦しい表情を見せていれば、表彰台など夢のまた夢だが、それでもここまで一時間ちょっと走っているのだ。普通選手の表情は硬いものとなる。笑顔なんて見せられないくらい。

 それがどうだ。鬼頭は微笑みを浮かべながら集団を引っ張っている。

 それは私に「陸上は楽しい」のだと訴えかけるようだった。その表情はあまりに私にとって眩しい。

 その眩しさに目が眩むと同時に、東のインタビューを目にした時と同じように憧れの感情を抱いた。

 このレースを終える頃には陸上は面白いものだと思えるようになるのか。だが、この表情を見て、私の心の何かが少し突き動かされたような感覚を抱いた。

 もう鬼頭は目前に迫っている。鬼頭の表情に呆けている場合ではない。

 「鬼頭!先頭とは一分半!ここからあげていくぞ!先頭でゴールテープを切るぞ!」

 私の声は若干裏返ってしまったが、掛け声は最低限できた。

 するとどうだろうか、鬼頭は私に向かってはにかむ。それはその指示を聞いたことを示す返事のようだ。

 鬼頭は私の前を通り過ぎると、ここまで隠していた実力を本領発揮するかのようにギアを上げる。

 そのスピードに乗った天性の走りが、ゆったりとした鍛え抜かれたフォームから繰り出される。素人が見ても惚れ惚れするような綺麗なフォームだ。

 スマホを立ち上げ、再びテレビ中継を見る。ちょうどバイクカメラが単独走となった鬼頭を映す。

 「ちょうど中間点を過ぎた頃から第二集団から飛び抜け、先頭集団を目指す格好となっています。地元・名古屋を駆けます、ゼルメイト・鬼頭清美」

 現状を淡々と伝えるアナウンサーはその語りに力を入れ始める。

 「名古屋の名門・蓬左学院に入学してからは一年生からその才能を見出され、都大路の舞台では三年間、エース区間である一区を任されました。二年生では区間賞。そして、三年生では現在も破られていない区間新記録の快走を見せました」

 「そのまま大学駅伝の古豪・紫峰館大学へ進学しました。ですが、怪我によってその走りは輝きを失いました。実業団のメートクに進んでからも思ったような走りは残せませんでした。そして記憶に新しいメートクの解散。鬼頭は事実上のクビを通告されました」

 輝かしい高校時代の栄光、そしてその栄光とは見合った成績を残せなかった大学・社会人時代を端的に語る。

 その語りは事実なのだが、あらためて言葉にされると走ることをやめたくなりそうな現実だ。

 それでも走ることを鬼頭はやめなかった。それは鬼頭の走りに対する燃えたぎる情熱がなせる技だろう。

 「先頭集団を走るチームメートの東は鬼頭について語りました」

 昨日そういえば、東はテレビ局のインタビューを数分受けていた。それについては大井に投げたので、私は詳細を知らなかった。

 「『鬼頭と比べて、マラソンの実績はもちろん私の方があります。それは事実です。ですが、走りに対する熱意と、誰にも測ることができない爆発力が鬼頭にはあります。それも事実です。私が勝つか鬼頭が勝つかでこのレースは締めくくられると思います。確率は五分五分ですかね』そう話してくれました」

 東は丁寧な性格をしているが、決して自分を卑下するようなタイプではない。むしろ自分の走りには自信を持っている方だ。そして走りにかける思いももちろんある。

 そんな東が、言ってしまえば負ける可能性があるのだと公の場でそう打ち上げた。

 昨日の勝利を信じているのは身の回りで私以外に大井だけだと思っていたが、東もその一員だったようだ。

 「この地元名古屋の舞台で、そんな東の期待にも応えられるのか。そんな夢物語とも思える奇跡を描けるか。鬼頭清美です!」

 そんな力強い言葉で締め括られ、先頭集団を映すカメラに切り替わる。

 鬼頭が一位を取ることが夢物語?そう思う奴にはそう思わせておけばいい。

 私は怒りに近い感情をぶつけるようにスマホを力強く握りなおし、再び画面を見つめる。春風によって揺らいだ木々が画面を一瞬暗くする。その画面に反射した私の顔は熱に満ちていた。


 あの時ちゃんと笑えていただろうか。

 陸上が楽しい。そう村田監督に思ってもらうために真っ先に浮かんだのが笑顔で走ることだった。安直だったが、今の私に陸上が楽しいのだとまっすぐ伝える作戦はこれくらいしかないように思えた。

 大阪国際女子マラソンの東の走りで陸上に対して好意的な感情を抱かなかった人物だ。

 走りの記録で感情が突き動かされなかったのならば、走りの節々に見せる表情や姿勢といった内容で感動してもらうしかない。

 そう思い、私が笑顔を見せながら走りすぎる時、村田監督の顔は驚きに満ちていたように思える。

 その驚きの裏には感動があれば良いなと思いながら、中間点を過ぎたころから私はギアを入れた。

 三分十秒を若干上回るペースに上げた私は、三分二十秒前後で牽制し合っている先頭集団を猛追する。

 監督は先頭集団と一分半空いていると現状を伝えた。距離にして五百メートルないくらいだ。このペースを維持したままであれば、二十五~三十分後。二度目の折り返しを過ぎたころには追い付けるだろうと楽観的に計算した。

 先頭との差はかなり大きい。集団のサイズは豆粒大だ。だが、ここで焦ってトラックで走るようなペースを刻んでしまえば、私に課されたレースプランは破綻する。だからこのペースでじりじりと先頭との差を詰めていくのだ。

 若宮大通を駆ける。この通りも馴染み深い。名古屋で若者が集う街と言えば、栄か名駅、そして私の左手側に位置する大須だ。学生時代はきつい練習の息抜きに、少ない休息日の合間を縫って友人と共によく遊びに来た。そんな思い出がある。

 以前走った山陽女子ロードレースではレース終盤になってもこのように走り以外のことに思考を巡らせることができた。だが、今回のレースではそんなことはできないだろうという感覚を覚えた。

 ハーフマラソンの距離を超え、レースは未知の領域へと踏み入った。景色そのものは、慣れ親しんだ名古屋の市街地であり、日常の風景と何ら変わりはない。しかし、私の肉体が刻む感覚は、すでに非日常のものだった。

 脚の筋肉は今までの走りでは感じ得ないほど重く、一歩踏み出すごとに、その疲労を十二分に感じている。心肺器官はフル稼働し、息遣いが、単独走の静寂の中で地面を蹴る足音と共にただ響く音だ。

 だが、その肉体的な負担に反比例するように、私の胸の中には形容しがたい高揚感が満ちていた。

 この高揚感こそが、私を走りに駆り立てる最大の理由だった。

 かつて怪我で走れなかった長いトンネルの中で、渇望し続けた感覚だ。不安感など、そこには一切入り込む余地がない。先頭集団を追いかけるというプレッシャーさえも、今の私にとっては心地よい刺激でしかない。むしろ、肉体の限界を感じさせる張り詰めた疲労感さえも、私の「走りに対する燃えたぎる情熱」を裏打ちする、尊い感覚として受け止められる。

 この得も言われぬ高揚感こそが、私が走ることを愛してやまない最大の理由であり、私をこの「決戦の地」へと駆り立てる圧倒的な原動力だった。

 (私は今、生きている。最高の舞台で、最高のライバルを追いかけている。私の全てを爆発させるために、私はこの道を選んだ。この熱量だけが、私をゴールまで連れて行ってくれる)

 私は周囲の雑音や世間の下馬評など全てをシャットアウトし、ただ前だけを見つめ、高揚感という名のエネルギーを全身に充填しながら、さらに力強く地面を蹴る。

 この高揚感を村田監督にも味わってほしい。

 それが、今、私を駆り立てる二つ目の大きな推進力だった。監督は私に「陸上は面白い」と証明してほしいと願っている。

 走る悦びを知る私にとって、この「面白さ」とは、自己の限界を超えようとする肉体の悲鳴と精神の高揚が共存する、この究極の非日常的な感覚に他ならない。

 (監督、見ていてください。これが、私が走ることをやめられなかった理由そのものです。そして、この感覚こそが、陸上の面白さなんです!)

 そんなことを胸に秘めながら、私は若宮大通を右折し、再び伏見通に入った。先頭との差は少し縮まったように思える。


 先頭集団は御園座を過ぎる。

 歌舞伎を主に演目するこの御園座は最近の建て替え工事で、上に高層マンションと商業施設がくっつくようになった。

 名古屋人のセンスはあまりに新しいものが好きで、金色といった派手なものが好きすぎる。隣県で生まれ育った私にはそう思える。

 だが、この御園座と複合されたタワーはシンプルで他県の人でもすんなり受け入れられそうなデザインである。

 だが、伝統のある劇場と目新しいマンションを複合させる類を見ない手法は、新しいものが好きである名古屋だからこそ受け入れるのではないかとぼんやり思う。

 先頭集団は誰も仕掛けようとせず、ペースメーカーについていっている。想定よりも停滞気味である。

 最近のマラソンはペースメーカーの外れる三十キロ地点からレースが始まるといっても過言ではない。このレースも例外ではないようだ。

 この展開は鬼頭にとっては好都合だ。

 鬼頭は想定よりも早いうちに集団に追いついて、他選手を風よけにするなど体力を温存することができる。そして、二度目のスパートまでその集団で待機することができる。末脚勝負となれば、その圧倒的なスピード力に右に出る者はいないだろう。

 この展開は東にとっては不都合だ。

 東は体内時計がペースを刻めることが魅力のランナーだ。だが、先頭集団がペースメーカーについていっている現在の状況は、東の強みを十分に発揮できているとはいいがたい。

 そして、ペースメーカーが外れた後は一二.一九五キロしか残されていない。

 東は着々とペースを刻める強みを持つ反面、ゴールラスト一キロでの競り合いといった急激なスパート勝負となると分が悪い。

 粘って粘って早仕掛けしたランナーを、距離的にも精神的にもじりじり追い詰めていくのが彼女のレースの武器だ。

 東が勝つのならば、早く仕掛けたランナーが残り数キロとなった地点で逆噴射状態となり、停滞しているのを変わらぬペースで詰めていく東の勝利の方程式パターンしか、現在の状況では考えられない。

 逆に鬼頭が勝つならば、焦らず先頭についていって、残り数キロ地点になったら、スパートをかける。そして、そのスパートをゴール地点まで決して崩さない。それが必須であろう。

 カメラは単独走を続けている鬼頭を抜く。その走りはどこか悠々としている。

 「単独走を強いられても余裕綽々と言った調子でこの尾張路を駆けます、ゼルメイト・鬼頭清美。先頭との差は三百メートルほどでしょうか。じりじりと差を詰めています。単独走を全く苦にしていません」

 もうそれほどまで詰めてきているのか。三分十秒を若干切るくらいのペースで、中間点からの数キロは走っているのか。

 カメラバイクは鬼頭の前に出て、鬼頭の表情を抜く。少し苦しそうだ。

 やはり私の前で見せた笑顔は私のためのものだったのか。

 それほどまでに私に陸上が好きになってほしいと思わせるほどの、彼女の胸の中にある走りに対する情熱には驚きを隠せない。

 無理をしてでも他人に共有したくなるほどの感動なのか。

 先ほどのアナウンサーが語った辛い陸上人生の中でも、走りから逃げ出したくなかったほどの感動なのか。

 私は再び白川公園のベンチに座り直しながら、中継画面に映る鬼頭の真剣な表情を見た。

 単独走はやはり過酷だ。風の抵抗を一身に受け、自分のペースを崩さず刻み続ける精神力と、ペースメーカー代わりとなる選手がいない状況で、自らの体内時計を信じ抜く集中力が求められる。

 それでも、その苦しそうな表情の奥には、確かな充実感が滲み出ているように見えた。それは、彼女が怪我とスランプの長いトンネルを経て、ようやく見つけた「走る喜び」を全身で爆発させている証拠だろう。

 「鬼頭、それでこそだ。お前のその情熱こそが、陸上の『面白さ』なんだろうな......」

 私は思わずそう呟いた。この瞬間、私の胸の中に去来したのは、レースの勝敗に対する理性的な分析だけではなかった。鬼頭の走りに込められた純粋な熱意が、私の冷え切った心を確かに揺さぶっているのを感じた。

 鬼頭の走りは、私の心になかった、あるいは元々あったもののいつの間にか無くしてしまった「陸上への愛」を、強引に呼び起こそうとしている。


 伏見通を右折し、出来町通に入る。前方には名古屋城が見える。

 長い間、名古屋市民であったが、天守閣に入った覚えはない。そんなものなのかもしれない。

 先頭との差はおよそ二十五0メートルほどだろうか。先ほどまで豆粒大の大きさであった先頭集団が、今では拳ほどの大きさになっている。

 予定よりも早い段階で先頭集団に追いつくことができそうだ。これは私のペースアップがそれなりにうまくいったというのもあるが、先頭集団がペースメーカーに引っ付いて牽制し合い、ペースが上がらないことが大きな理由だろう。

 このままであれば、この細長い先頭集団の最後尾には、二度目の折り返しを迎える前には追い付くことができそうだ。

 私は斜向かいに名古屋城をモチーフにした名古屋市役所を見ながら、交差点を左折し、大津通に入る。

 そして、下り坂に差し掛かる。大井コーチが注意するべきポイントだと言っていた地点だ。目視で分かるほどの大きな下り坂だ。

 この下り坂に惑わされてペースを上げると、私の足首に強い負荷がかかってしまう。

 その強い負荷を与えられた後、今のペースで走っていくと、いつかはガタが来てしまう。そうならないためにもここは若干抑え気味に入る。フラットなコースと変わらず、三分十秒を若干上回るペースを意識しながら腕を振る。

 中間点からここまで私はネガティブスプリットの真髄を見せるようなペースで駆け抜けてきた。脚には当然、強烈な疲労が来ている。一歩一歩が重く、足裏がアスファルトを蹴るたびに、全身に振動が響く。

 だが、その疲労感すらも、変わらず今の私には心地よい。この痛みは、私が全力で生きている証であり、爆発に向けてエネルギーを溜め込んでいる証拠だ。

 それにスタミナに関しても今のところ問題がないように思える。

 山陽女子ロードレースでスピード力が証明できたとして、監督は私に約二か月間みっちりとスタミナ練習を課してきた。

 レースとして初めての領域の距離に入ってきた私がスパートをかけられているのも、そのスタミナ練習の賜物だろう。

 だが、折り返してきてこの通りを再び通過する頃には、練習でも体感したことのない距離に入る。

 練習では最大三十五キロしか走らなかった。そこにはあまりにタフな練習をしてしまうと怪我が再発してしまうだろうという監督の危惧もあったのだろう。監督からの直接の説明はなかったが、私はそう推測する。

 だが、勝負となる終盤の辛さを味わずにこのレースを走っているのは怖さがある。

 マラソンは決して早いランナーが勝つわけでもない。強いランナーが勝つのだ。

 強いランナーになるためにはスピードだけでは駄目だ。

 その日の天候やレースの展開、運の強さといったお天道様に任せるしかないランダムな部分は置いておいて、レース経験、そして何より、スタミナがキーとなってくる。

 私は早いランナーではある。だが、強いランナーかどうかはわからない。なぜならば、強いランナーか測る数値が足りえていないのだ。それもそうだ。マラソンを一度も走ったことがないのだから。

 だが、強いランナーはスピード・レース経験・スタミナのどれもが欠けていない。グラフにすれば、きれいな三角形が出来上がるだろうが、私のグラフは歪だろう。

 スピードは極端に突き抜けているかもしれないが、レース経験のところはへこんでいるし、スタミナに至っては未知数だ。

 しかし、怖いもの知らずが経験者に一泡吹かすこともあるのだとも思う。

 窮鼠猫を嚙むという言葉があるように、追い詰められたものが火事場の馬鹿力を見せて、その場を切り抜けることを監督は期待しているのかもしれない。

 私は父から聞かされたこんな話が好きだ。

 ある野球チームはその日初めて登板する新人投手を、その年に優勝することとなる強力なチームにぶつけた。それも前々から予定されていたものではなく、前日に突然決まったものだそうだ。

 まだ高校を卒業したばかりの青二才がそんな強力打線を抑えることはできないだろうというのが大方の見方だった。

 味方チームもその投手の球を受けるキャッチャーでさえも勝つ期待をしていなかった。

 だが、試合に入れば、その投手はバッタバッタと三振を取って行き、そんな強力打線を抑えて行った。そして、その調子は九回まで続き、その投手は試合で一つのヒットも許さないノーヒットノーランを達成した。まさかの大金星。そんなエピソードを聞かされた。

 きっと経験という名の怖さを知らなかったからこそ、余計なプレッシャーを感じることなく、自分の力を最大限に発揮できたのだろう。私もその時の新人投手と同じだ。

 フルマラソンの終盤三五キロ以降の苦しさを、私はまだ知らない。経験がないということは、本来なら不安要素だ。しかし、この局面においては、それが最大の武器になるかもしれない。

 「知らない」ことの恐ろしさと、それに伴う無尽蔵な高揚感。この二つが、私の歪な三角形を完成させる最後のピースになる。

 私は今、マラソンの常識も、終盤の絶望的な疲労も知らない。知っているのは、ただ「走ることが楽しい」という情熱と、「勝つ」という揺るぎない確信だけだ。

 前方、先頭集団の輪郭がさらに鮮明になってくる。あと二百メートル。いや、百五十メートルか。

 礼の背中が見えた。

 黒を基調としたゼルメイトのユニフォーム。胸に輝くサクラのロゴマーク。その背中は私が憧れ、そして今は並び立とうとしている、最高のライバルの背中だ。

 (もうすぐだ。もうすぐ追いつく)

 私の呼吸が少し荒くなる。だが、それは疲労のせいではない。興奮のせいだ。

 二十八キロ地点の看板が視界に入る。そして、その先に、先頭集団の最後尾が迫ってくる。

 私は今、マラソンの常識も、終盤の絶望的な疲労も知らない。知っているのは、ただ「走ることが楽しい」という情熱と、「勝つ」という揺るぎない確信だけだ。

 先頭集団は大津通を左折して、環状線に入る。集団はだんだんと細長くなっている。これはだんだんと三分二十秒を刻み続ける先頭集団について行けなくなったことの表れだ。

 そんな中で一号車のカメラでも鬼頭の姿を小さいながらも捉えられるようになった。

 「鬼頭が追い付いてくるなこれは。でもこのペースアップは後々響くだろ」

 背後からそんな声が耳に入ってくる。ちらっと背後を見ると、先ほども目にした同業者と思える集団であった。

 「何とか入賞できる順位が関の山ですかね」

 「いや。逆噴射して第二集団に逆戻りかもしれないな」

 彼らの笑い声は静かな白川公園に響く。彼らの冷めた予想は、マラソンにおける常識に基づいていた。前半で体力を使いすぎれば、必ず終盤にそのツケが回ってくる。特にフルマラソン未経験のランナーが中間点から極端なネガティブスプリットを仕掛けるのは暴挙以外の何物でもない。

 だが、その鬼頭の真剣な走りをあざ笑うかのような声に、私の中で何か糸が切れたような感覚を味わった。

 鬼頭はカメラに抜かれる。その表情は決して余裕とは言えないような表情だった。口を一文字にきつく結んだその表情からは、ペースを上げて二十分近く走っている疲労と、虎視眈々と先頭集団を狙う情熱が読み取れる。

 今、画面の中で必死に単独走を続ける鬼頭の苦しそうな表情、そして、その努力を「暴挙」と決めつけ、敗北を予想して笑う外野の声が、私の冷え切った理性を突き破った。

 「鬼頭ならば、必ずやってくれますよ」

 私は一台のスマホを囲んで談笑するその集団の前にいつの間にか立っており、そんな声をかけていた。その集団は私の声にぽかんとした。静寂が私たちを包んだのち、集団の一人が驚きの表情を浮かべた。

 「村田星一!?」

 そんな素っ頓狂な声を上げた男に対しては返事を返さずに私は続ける。

 「鬼頭は走りに対する情熱だけでつらい陸上人生を乗り越えてきました。そして、やっと彼女は怪我とスランプの長いトンネルを抜けて、ようやくこの舞台に立っています。彼女の走りへの情熱を、そんな言葉で笑い飛ばせることは私にはできません」

 私はそう冷徹に言い放った。

 理性を突き破った感情は単に指導者として選手を馬鹿にされたことへの怒りだろうか。いや、それだけではないだろう。走ることを愛せない自分が、鬼頭の純粋な熱意によって強引に心を揺さぶられるということを如実に示していた。

 鬼頭清美は、私が持っていないものを全て持っていた。そして、今、その全てを懸けて、孤独な戦いを続けている。

 この瞬間、私の心にあった「陸上はつまらない」という冷めた感情は、鬼頭の熱量によって焼き払われ、「鬼頭清美の走りは、絶対に成功する」という熱狂的な確信へと変わったのだと実感した。それは、鬼頭が抱いた「根拠のない自信」と同じ種類の、情熱に裏打ちされた確信だ。

 私の台詞にその集団は互いの目を合わせ、黙りこくっている。

 もうこの公園を離れてゴールのナゴヤドームに行かなければならない。先頭でゴールする鬼頭を出迎えなければならない。

 「一時間後見ていてください。鬼頭が先頭でゴールテープを切りますから」

 そんな台詞を言い残し、私はナゴヤドームに向かうため、伏見駅に走り出す。

 背後からは集団の大きな笑い声が聞こえる。きっと私を嘲笑しているのだろう。

 だが、そんなこと今の私にとってはどうでもよかった。

 画面を一瞥すると、鬼頭が集団の最後尾につく頃だった。

 「一人旅はいったんこれで終了です、ゼルメイト・鬼頭清美。この仕掛けは吉と出るか、凶と出るか見物です」

 アナウンサーは現状を説明するように実況する。

 確かにこのレースプランは〇か百の極端なレースプランだ。二度のスパートが成功しなければ、一位は狙えない。一位を取れないということは世界陸上に進出することができないことを意味する。

 このレースは鬼頭清美の陸上人生における全てを懸けた一発勝負だ。吉凶などといった生易しい言葉で片付けられるものではない。

 背後から聞こえる同業者たちの嘲笑は、すでに遠のいていた。今、耳に響くのは、鬼頭の走りの熱量と、自身が口にした「一時間後見ていてください」という宣言の重さだけだ。

 私はいつの間にか全力疾走していた。その全力疾走は指導者としての職務ではない。それは、鬼頭の走りに心を揺さぶられ、「陸上は面白い」という感情を強引に引き出された一人の人間としての、熱狂的な行動だった。

 ナゴヤドームのゴールで、最高の瞬間を、陸上を愛する人間として迎え入れることを目的に。


 数分前の景色には驚きを隠せなかった。

 何とか先頭集団の最後尾へ二度目の折り返しを迎える前にたどり着くことができた。

 折り返しの瞬間で先頭に構える礼の表情を拝むことができた。

 他のランナーは口を一文字に結んで、きつそうな表情を見せていた。ペースメーカーである外国人ランナーも見せる表情は明るくなかった。

 だが、礼は余裕しゃくしゃくと言った表情で足取りも軽かった。

 中六週という劣悪なローテにも関わらず、東礼の走りは精密機械の異名の通り、狂いがない。

 他の有力選手たちが、ペースメーカーが外れた三十キロ以降の駆け引きを見据えて苦しさを隠しきれない苦悶の表情を浮かべる中、彼女だけが、この集団のペースを完璧にコントロールしているかのように見えた。

 折り返しで一瞬見た彼女の燦然と輝く表情は、私に向けた挑戦状のように思える。

 「私は全く疲れていない。ここからが本番だ」と、無言で告げているようだった。

 先頭集団に合流したことで、単独走の苦しさから解放される。風の抵抗も少なくなり、脚の負担も軽減される。これは、極端なネガティブスプリットの作戦においては、最大の利点だ。

 しかし、同時に新たなプレッシャーも生まれた。

 次のスパートを仕掛けるまで、礼から離されてしまえば私の優勝は見えなくなる。

 絶対について行かなければならない。

 先頭集団は三十キロ地点でペースメーカーが外れたことで、より一層細長くなっている。ペースは上がっているが、誰もが「誰が仕掛けるか」と牽制し合っている空気は残っている。

 今宮ほのかや土田円佳といった実力者たちが、東礼のわずか後ろに食らいついている。誰もが東礼をマークしている。私への警戒心は薄い。

 今がチャンスだろう。マラソンの経験値というハンデを、逆に未知の領域への無知で覆してやる。

 私の脚は、中間点からの猛烈な単独走で既に鉛のように重い。疲労感は全身を支配しているが、それと同時に高揚感も最高潮に達している。

 意識を集中し、東礼の背中だけを道標として見つめる。

 一度、村田監督のことは忘れる。ここからは仲間でライバルの東礼との勝負を真剣に楽しもう。

 (礼、私の全てをぶつける。覚悟しててね)

 礼との真剣勝負への高揚か、それとも未知の領域へ入る不安かで胸はバクバクだ。

 再び、環状線から大津通に入る。

 風よけに利用させてもらっている前のランナーは体が左右に振れ、あごが上がりつつあるように見える。

 このランナーに三キロほどついていっているが、ラップタイムの上下差が大きいように手元の時計では見える。もうそろそろこの集団から引き離されるだろう。

 このランナーはもうそろそろお役御免かもしれない。そう思いつつ、私はついていく。

 先頭集団の先頭。礼が引っ張っている集団は私の五十メートルほど先だ。

 私と先頭集団の先頭。集団の中間部分には数人が形成した小さな集団が三つある。

 だが、その集団も私が今ついていっているランナーと同様に安定した走りとは言えないように思える。もう時期にずるずると落ちていくだろう。

 ここで私が取るべき選択肢は一つしかない。それは集団の後ろで単独走をすることでも、少しスパートをかけて落ち行く中間の集団にわざわざついていって少しだけ風よけにすることではない。

 ペースメーカーがいなくなった今、一番ペースの信頼ができる礼率いる集団の先頭についていくことだ。

 「鬼頭で言えば、中盤以降、先頭集団にくっついたときに集団には東という"精密機械"がいることになるだろうからそれを基準にしてもいいかもな」という大井ヘッドコーチが作戦会議の時に言っていた言葉を思い出す。

 このゼルメイトでの一年間。いやメートクで同じ釜の飯を食った三年間。礼の走りをずっと見てきた。私が女子陸上界で一番信用できるランナーだ。彼女はどんなランナーよりもペースを刻むのがうまい。その恩恵をフルに受けよう。それが礼との真剣勝負にふさわしい。

 ここから五十メートルを縮めるのに適したポイントはどこか思考を巡らせる。

 後数百メートル先に待ち構える名古屋市役所前の登り坂だろう。私は登り坂が得意なのだと監督から言われたし、実際にその自負もある。ここが仕掛けどころだ。

 その仕掛けどころはもう目前に迫っている。呼吸を意識して、登り坂を構える。

 高低差十メートルを三百メートルほどで駆けのぼるこの地点は過去のレースを見てもポイントとなっていることは明白だった。

 登り坂に差し掛かる。私は、前を走る風よけとして利用させてもらったランナーの背中を一つ深呼吸とともに抜き去った。

 悪くない。いや、むしろ最高の感触だ。

 鉛のように重いはずの脚が、一瞬、軽くなったように錯覚する。これは、疲労をごまかすためのアドレナリンではなく、仕掛けどころを正確に捉えたことによる高揚感だ。私がこの上り坂でスパートをかけることは、村田監督との作戦会議でも示唆されていなかった。

 この行動をとった最大の動機。それは東礼に追いつく、その一点。ただそれだけだ。

 先頭集団の礼の背中が、わずかだが大きく見えるようになった。五十メートルという距離は、上り坂という負荷がかかる局面では、平地よりも心理的なプレッシャーが大きい。この差を、一気に詰める。

 手元の時計を見る余裕はない。全身の感覚を研ぎ澄ませ、ただひたすらにピッチを刻み上げる。得意な上り坂とはいえ、この猛烈なペースで、三十キロ以降で登る者はいないだろう。

 案の定、私を風よけとして利用していたはずの中間集団のランナーたちから、一瞬で距離が開き始めた。彼らがずるずると落ちていくのは、すでに明白だ。

 今宮や土田といった実力者たちが、礼の真後ろで虎視眈々とスパートのタイミングを伺っている。私がこの坂で追いつき、彼らの視界に入ることで、一気に「東礼vs私」の構図に変えてやる。それが、マラソン経験の浅い私が、集団で控える選手たちの心をへし折る唯一の方法だ。

 登り坂の負荷がピークに達する。心臓が痛いほど高鳴り、肺が焼けるように熱い。しかし、この苦しさこそが、私が生きている証だ。

 先頭集団との差が、明らかに縮まっている。三十メートル、二十メートル……。礼の「精密機械」の異名通りの、狂いのないリズムが、目と耳に飛び込んでくる。

 彼女は、振り向きもしない。私の存在に気づいているのか、いないのか。しかし、私は確信している。彼女は、私の真剣勝負を、望んでいる。

 頂上が見えた。

 登り坂を駆け上がりきり、名古屋市役所前を過ぎた。下りに入ると同時に、私は先頭集団の最後尾、土田のすぐ隣に滑り込む。礼が引っ張る集団の先頭後方に陣取ることができたのだ。

 全身を支配していた高揚感が、一気に疲労感へと切り替わる。

 驚きと警戒の視線が徐々に私に集まるのを感じる。特に土田は、一瞬目を丸くした後、すぐに警戒の色を濃くした。

 そんな無言の圧力を、私は受け流す。呼吸を整えることに集中し、礼の背中を再び道標として見つめる。

 礼は、やはり動じない。彼女の淡々としたペースが、この集団に安定感をもたらしている。

 三十五キロ。マラソンの本当の勝負が始まる地点まで、あと数キロだ。この集団の中で、最も疲れているのは私かもしれない。しかし、同時に最も「未知の力を秘めている」のも私だ。

 そんな瞬間、先頭をひた走る礼が後ろを一瞬振り返る。私の姿を確認した。

 笑った。

 笑ったのだ。その微笑みからは「やっぱりね」といった私に対する安心と、「そうこなくっちゃ」という闘争心が垣間見れた。

 その視線はこの集団にいる全員に伝わったようだ。

 実際、私のすぐ隣にいる土田が露骨に息を飲み、私と礼の間に視線を往復させているのが分かった。今宮もそれまでよりもさらに礼の背中にぴったりと張り付き、集団全体の緊張感が一気に高まった。

 誰もが、次のアクションを待っている。

 しかし、もう少し先だろうと誰もが思っただろう。一人を除いては。

 アクションを起こしたのは、私でも、今宮でも土田でもなかった。

 礼だ。

 それまで狂いなく正確だった、礼のストライドが、一瞬、だが確かに変わった。

 それは、ペースが上がったわけでも、急に落ちたわけでもない。まるで、自動制御で動いていた「精密機械」のギアが、手動の「ターボ」に切り替わったような、わずかな変調。

 それまで「一定のペースで集団を引っ張る」という明確な役割を果たしていた礼の走りが、一瞬にして「勝負を仕掛けるランナー」のそれへと変化したのだ。

 私が「このリズムに乗り、体力を回復させよう」と心の中で決めた矢先の出来事だった。礼は、私が追いつき、安堵した瞬間に、その安堵を許さない動きを見せた。

 やる気に満ち溢れている。

 だが、私はすぐに察知した。これは、三十五キロ以降の本格的なスパートではない。これは「集団を篩にかける、最終選別」だ。

 ペースそのものは、誰もが追いつける範囲の微細な上昇に留まっている。しかし、そのリズムの不規則性が、集団を揺さぶり始めた。

 土田が、わずかにピッチを速めようとして、バランスを崩しかける。今宮は、体幹をぶらさずに食らいつくが、その表情には、焦りの色が見える。

 彼女は私との真剣勝負を望んでいる。だから他の選手は関係ない。他の選手は邪魔だとそういわんばかりの作戦だ。

 「このまま礼のペースに引っ張られちゃだめだ……まだ早い!」

 私の頭の中では、冷静な思考が回る。礼の真意は、私の消耗度を測ること、そして、私以外の有力選手たちに「もう待てない」という焦りを植え付けることだ。

 私は、あえて反応しない選択をする。

 疲労を抱える私にとって、このわずかなペースアップで無駄な力を使うのは悪手だ。「精密機械」の恩恵をフルに受けると言った以上、信用し続ける。

 「礼のペースを基準にしてもいいかもな」

 大井ヘッドコーチの言葉は、礼が最速で走れるペースを刻む、という意味だ。しかし、それは、彼女が「勝ちに行く」ペースでもある。

 私は、礼の背中からわずかに離れることで、彼女のペース変動の影響を最小限に抑え、自分のストライドを崩さないように努める。

 先頭集団は、礼、今宮、土田、そして私の四人に絞られつつある。他のランナーは、先ほどの登り坂と、この礼の無言の圧力によって、完全に脱落していった。

 ほどなくして三十五キロの看板を過ぎた。この先は、私が練習でも走ったことのない未知の領域だ。


 名古屋屈指の繁華街・栄で東山線を降り、名城線ホームへと駆け込み、「名城線右回り」と方向幕に書かれた電車へ乗り込む。

 先頭は伏見通を左折し、桜通に入る。奥には名古屋駅の駅ビル群が見える。レースはもう終盤戦の様相を呈していた。

 まさか、鬼頭があの上り坂で仕掛けるなんて。

 作戦としては素晴らしい。風よけとしていたランナーが落ちそうなのを見て、これ以上良い止まり木は東の集団しかない。そう思って、得意の登り坂で仕掛けたのだろう。

 だが、ロングスパートで体力消耗をしたうえでこの苛烈なスパート。都大路の鬼は伊達じゃない。そう思わせてくれる。

 まさか、東がペースアップで集団を乱すなんて。

 東と言えば淡々とペースを刻んで相手を追い込む。無理なスパートで相手をふるいにかけることはない選手だ。

 そんな東が三十五キロ地点手前でスパートをかけた。そのスパートは一キロほどであったが、後続の選手にとっては肉体的にも精神的にも疲労させられただろう。

 だが、鬼頭は無理についていかなかった。その判断、素晴らしい。ここで無理をして必死についていけば、逆噴射待ったなしだろう。それに、東はスパートをかけて勝負するタチではないことを十二分に理解している。

 東への理解力が他選手より上回ったからこそだろう。

 このスパートにかき乱され、今宮は後ろへ後退し、土田は想定外のロングスパートを仕掛けることにしたようだ。

 「ここで関東急行鉄道グループ・今宮ほのかは後退していきます。これで今宮の優勝はなくなったでしょうか……優勝候補は三名に絞られました!」

 アナウンサーは高らかに叫ぶ。地下であるためか電波の入りが良くない。

 「優勝候補を一人ずつ紹介していきましょう。まずは先頭を走ります、大海原を思わせるオーシャンブルーに白のラインが特徴的なユニフォーム。センターライン側。一位・トキワ鋼管・土田円佳!走りのサラブレットはこのまま逃げ切ることができるのでしょうか!」

 「そんな土田から十メートルほど空きまして、ブラックのユニフォームの胸元に小さくサクラのロゴマーク。二位を走ります。ゼルメイト・東礼!今年度は長野・北海道・大阪と続いてこの名古屋でも好走を見せています!その姿、まさに"走る労働者"!」

 アナウンサーは「えー」とためらったような声を出す。それもそうだ。この二人は優勝候補として前々からメディアで取り上げられていた。きっとこの前口上も用意していたのだろう。だが、鬼頭は違う。このレースにおいては全く脚光を浴びず挑んでいる。

 「東から五メートルほど空きまして、歩道側。同じくブラックのユニフォームをたたえて地元・名古屋を走ります、ゼルメイト・鬼頭清美……えー、大金星をこの地で上げられることができるか?注目です」

 そう当たり障りない情報だけをアナウンサーは語る。さっきまでの熱はどこへやらといった様子だ。

 「鬼頭、それでこそだ。お前のその情熱こそが、陸上の『面白さ』なんだろうな......」

 私の脳裏には、鬼頭の走りに心を動かされた瞬間の呟きがふとこだまする。私は地下鉄の車内、スマホの画面に釘付けになりながら、土田の仕掛けと東の対応を見つめる。レースは、私の予想を良い意味で裏切り続けていた。

 「土田が仕掛けたか……」

 私はひとりごちた。画面には、土田が前傾姿勢を強め、東と鬼頭からじりじりとリードを広げようとしている姿が映し出されている。土田は、東の揺さぶりによって「待てない」状態に追い込まれたのだろう。これは、東の揺さぶりの効果だ。

 土田はペースを崩すタイプではない。ここから一気にペースを上げて、東を精神的に追い詰めようとしている。

 土田の走りは、祖父や父から受け継いだという、まさに「華麗なる一族」の系譜を感じさせる、洗練されたフォームだ。しかし、その仕掛けは、東礼という「精密機械」の最も得意とする展開へと、自ら足を踏み入れているに等しい。

 東は、土田から十メートルほどの距離を保ったまま、全く表情を変えずに追走している。彼女の走りは乱れない。まるで、前にいる土田を「計算誤差」として処理し、自らが設定したペースを正確に刻み続けるAIのようだ。

 東は追わない。ここで追えば、土田の術中にはまる。土田がどこまでペースを維持できるか、粘り強く観察し、自分のペースを崩さず、確実に差を詰める。それが東の必勝パターンなのだ。

 そして、東からさらに五メートル後方。鬼頭清美がいた。

 地下鉄の電波が途切れ、画面が一瞬暗転する。再接続された画面に映る鬼頭の姿は、肉体的には極限に達していることを示していた。口は開かれ、呼吸は荒く、ストライドには中間点からの激しい単独走と、直前の坂でのスパートの疲労が色濃く出ている。

 しかし、その瞳には、私が憧れを抱いた「走りに対する燃えたぎる情熱」が、未だに消えることなく宿っていた。

 清美はどうするのか。

 土田が仕掛け、東がその追走ペースをコントロールしている。鬼頭がここで取るべき最善手は、東の背後につき、風よけとペースメーカーの恩恵を最後まで享受することだ。

 だが、私の心の中には、指導者としての理性とは別に「攻めろ」という熱い感情が湧き上がっていた。

 陸上選手が指導者のレースプランを無視して独自のレースプランを展開しようなど、言語道断だ。

 しかし、ここで鬼頭の燃え滾る情熱にステイをかけて仕掛けを待たせることは、なんだかその情熱を無碍にしているようにしか思えなかった。もう全力で当たって砕けろ。そんな言葉が浮かんでしまう。

 鬼頭の走りは、すでに練習で経験したことのない「未知の領域」に入っている。三十五キロ以降の地獄を知らない彼女だからこそ、常識的なセオリーを無視した行動ができる。

 (行け、鬼頭。その『根拠のない自信』を、『揺るぎない確信』に変えるんだ!)

 するとアナウンサーの声が耳に響く。

 「あっと、土田がこれは完全にペースダウンしてますね。先ほどのスパートがたたったか?あーっと東がその差を詰めてくる。その差はもう並びますね。抜かしました!抜かしました!東礼、一位浮上!」

 画面は土田を映す。歯を食いしばり、苦悶の表情といったところだ。だが、そう簡単に引き下がらない。ここまで先頭集団にいた意地か。

 またアナウンサーが叫ぶ。

 「鬼頭が詰めてきました!おっと無理やり東と土田の間に入りましたね。これで一位・東。二位・鬼頭。三位・土田となりました!一位から三位までの差は十メートルもありません!」

 私の祈りが通じたかのように、鬼頭の走りに変化が見られた。

 彼女は緩やかにペースを上げ始めたのだ。そして、東と土田の間に割り込んだ。

 これは、土田の背中を追って体力温存を図るのではなく、東との決着をこの未知の領域でつけようという、鬼頭からの無言の挑戦状だ。土田の逃げは潰え、三つ巴の勝負へと局面が移行する。

 場所は、中央西線をまたぐ千種駅付近。右に見える千種駅を尻目に、ランナーたちは桜通を駆け抜ける。沿道からの声援も、終盤の興奮で最高潮に達している。

 東、土田、鬼頭。三人のトップランナーが、互いの息遣いを感じられるほどの至近距離で、最後の駆け引きに入る。

 そして、最初に動いたのは、やはり東だった。

 レースプランを東は無視している。だがそんなことどうでもよかった。

 東が大阪国際女子マラソンのインタビューが浮かぶ。きっと東は鬼頭との真剣勝負をするためにわざわざ疲労している肉体に鞭打って、出走を選んだのだろう。

 土田の逃げを完全に潰し、鬼頭が追いついてきた。この状況を東は「鬼頭との一騎打ち」と判断したのだろう。他の選手が残っている状況ではあるが、彼女は最も警戒し、そして真剣勝負を望んでいた鬼頭の追走を待っていたのだ。

 東のストライドが、再び大きなものへと切り替わる。彼女の代名詞ともいえる、無駄のない美しいフォームはそのままに、繰り出されるピッチは一気に加速した。

 「東が仕掛けました!ここで土田がついていけない!」

 アナウンサーの声が興奮で裏返る。土田は、東のこの再びのスパートには対応できなかった。その表情は苦悶に満ちており、ずるずると二人に引き離されていく。

 残るは、東礼と鬼頭清美。ゼルメイトのチームメイトにして、最大のライバル同士の、正真正銘の一騎打ちとなった。

 私は、地下鉄の車内でどんな表情をしているのだろう。だが、周囲の乗客の視線も、もはや気にならない。画面に映る二人のランナーが、私の心を完全に支配していた。

 東は変幻自在のペースメイクができる特徴を生かして、鬼頭の体力、そして精神を削っていこうとしている。

 対する鬼頭は、東の背中からわずか一メートルの距離で食らいついている。

 (清美、無理をするな!東のペースは速すぎる!ついていっても、ラストスパートが残せない!)

 指導者としての理性が叫ぶ。しかし、鬼頭は、その理性を無視するかのように、東と同じリズムを刻み続けていた。彼女の疲労は極限に達しているだろう。しかし、その瞳は私に微笑みかけたあの瞬間の情熱をそのまま燃やし続けている。


 桜通を左折して環状線に再び入る。

 脚は脳の指令に従わないようにうまく上がっていない。腕は意識したところまで振りきることができない。頭は首が座っていない赤子のようにグワングワンと揺れている。

 一方で礼はというと、脚はスパートを終え、以前と変わらず同じストライドで進んでいる。腕は力感のなくきれいに振られている。頭は一本真っ直ぐ串が通っているのかと錯覚するほど不動だ。

 私が礼の率いる先頭に追い付いてから二度のスパートがあった。一度目のスパートは見送ったが、二度目のスパートは体が無意識についていった。これについていかなければ、もう置いていかれると。優勝を逃すのだと本能が訴えかけた。

 そのスパートについていったおかげで、先頭は私と礼だけになった。だが、なんとかついていっているだけで、私のフォームは崩壊寸前といった様子。

 はたから見て、私と礼の勝負は礼の勝利に終わりそうだというのが大方の予想だろう。

 しかし、この極限状態の肉体とは裏腹に、私の胸の高揚感は、今、最高潮に達していた。これは、恐怖や不安から来るものではない。これは、走ることを愛してやまない私と、精密機械の異名を持つ最高のライバルとの、真剣勝負を純粋に楽しんでいる歓喜の感情だ。

 (礼、最高だよ。この展開、この苦しさ、全部!)

 礼の背中が、私には巨大なエネルギーの塊に見えた。彼女が刻む正確無比なリズムは、私の崩壊寸前のフォームを辛うじて支える、命綱のようなものだった。私は、彼女に食らいつくことに全神経を集中させた。

 もう周囲の景色など目に入らない。ただアスファルトの照り返しと、礼の背中、そして自分の荒い息遣いだけが、私の世界を構成していた。

 「清美は私以上に走ることを愛している。それはゼルメイトでメートク時代よりも関係を深めて、分かったことだよ」

 スタートラインで礼がかけてくれた言葉が、幻聴のように耳元で響く。この情熱こそが、私の「切り札」だ。スピードやスタミナといった定量的な能力ではない、測定不能な走りへの燃えたぎる情熱が。

 四十キロの標識を通過。残りはわずか二キロ弱。

 礼は、この三十五キロ以降、ペースを落とすどころか、むしろわずかに引き上げている。そんなことは今までの礼ではありえなかった。

 礼のレースプランはスパートなどせずに粘ることに重きを置いたプランだ。そして、このレースでもその作戦を遂行するよう指示されていた。

 だが、指示などお構いなしに土田を突き放し、私との一騎打ちに持ち込んだ。彼女の狙いは、私がネガティブスプリットの極端な作戦によって蓄積した疲労でガタが来るのを待つ作戦だ。そのためにも二度のスパートをかけて私を揺さぶっているのだろう。

 私は意識的に、礼の背中からほんの数センチ離れた位置で走る。風よけの恩恵を最大限に受けながらも、彼女の急激なペース変化に即座に対応できる、ぎりぎりの距離だ。この数センチの駆け引きが、勝負の明暗を分ける。

 「鬼頭!ここで粘れ!粘り切れ!」

 沿道から、大井ヘッドコーチのものらしき、ひときわ大きく、ひっくり返った声が聞こえた。その声に、私の意識は一瞬、現実へと引き戻される。

 私たちは環状線から出来町通に入る。

 礼の走りが、再び変化した。

 今度は、明らかなスパートだ。一瞬の間も置かず、彼女のストライドがぐんと伸び、ピッチが急激に刻み上げられる。まるでこれまでのスパートは朝飯前だと言わんばかりに。

 (ここで離されたら、終わりだ!)

 私の脳裏に、村田監督の切なる願いがよぎる。恩人である村田星一に陸上を好きになってもらうためにも、このレースで圧倒的な爆発を見せ、周囲の下馬評を覆し、優勝をかっさらわなければならない。

 そして、もう一つの願い。礼との真っ向勝負に勝つこと。

 私の体は、これ以上ないほどの疲労を訴えていた。鉛のようだ。だが、その疲労に打ち勝つ熱量が、私の胸には満ちていた。


 私の胸の中で何かがはじける音がした。

 私は、崩壊寸前のフォームを意に介さず、全身に残された最後の爆発力を解き放った。単なる「ついていく」ための加速ではない。これは、礼の背中を、抜き去るための加速だ。

 トラック競技で培った爆発的なスピード。それは、礼が驚異的な安定性を持つがゆえに、最も苦手とする爆発的な瞬発力だ。

 スパートをかける礼の背後にはつかず、並ぶ。その瞬間、礼が私に振り向いた。

 彼女の表情は、苦悶でも、焦りでもない。そこにあったのは、まるで子供のように純粋な、満面の笑顔だった。

 「さすが、清美!」

 声には出さなかったが、彼女の唇はそう動いたように見えた。その笑顔は、私に対する最大限の賛辞であり、このデッドヒートを心から楽しんでいるという、最高のメッセージだった。

 この笑顔を見た瞬間、私の胸の奥底で、また何かが弾けた。

 (これで終わりじゃない。私の「全て」を見せてやる!)

 私はそこからさらにギアを上げた。まるで、高校時代に都大路のエース区間で区間新記録を叩き出したときのような、狂気のストライド。

 礼の横顔が、徐々に、私から後方へと移動していく。

 これがこの一年間築いてきた「爆発」だ。

 肺が張り裂けるように辛く、全身の筋肉が痙攣する。

 背後に礼の息遣いはない。しかし、彼女の「精密機械」としての存在感が、まるで巨大な影のように追いかけてくる。

 だが、この地で「爆発」を成功させるためにも立ち止まるわけにはならない。

 私は残った気力を絞りつくし、ゴールのナゴヤドームへと駆けて行く。


 ナゴヤドーム前矢田駅で下車し、ナゴヤドームにつながる連絡通路を駆ける。

 「残り二キロでまさかのダブルスパート!東礼が突き放すかに思えましたが、まさかの鬼頭が前に出まして、東との差を五メートル、十メートルと広げていきました!予期せぬ展開!この春の名古屋で大波乱が巻き起ころうとしています!」

 耳にそんな実況が響く。私は息を切らしながら連絡通路を駆け抜けた。私の足は、指導者としての責務を超え、一人の人間として、鬼頭の走りに熱狂させられた者としての本能に従っていた。

 関係者入り口からゴールのあるアリーナ部分へ入る。ナゴヤドームに響き渡る地鳴りのような大歓声が全身を震わせる。

 視界に入ったのは、巨大な中継ビジョン。画面には、出来町通を走る二人のランナーが映し出されていた。

 「東礼、食い下がります!しかし、鬼頭清美の爆発力が優る!その差は十五メートルほど!これぞ、"都大路の鬼"が持つ、純粋なスプリント能力!フルマラソン未経験のランナーが、女王・東礼を打ち負かそうとしています!こんな展開誰が予想したでしょうか!」

 私は中継ビジョンの鬼頭の姿を見て、思わず言葉を失った。そのフォームは、もはや美しいとは言えない。頭は揺れ、腕の振りは乱れ、脚は力なく上がりかけている。しかし、その顔、その瞳には、何にも屈しない圧倒的な闘志が満ちていた。

 その瞳こそが、私の心を焼き尽くした。

 (ああ、これだ。これこそが、陸上だ……!)

 私の脳裏から、「陸上はつまらない」という冷めた感情は跡形もなく消え去っていた。胸を満たしているのは、鬼頭の走りが放つ、あまりにも純粋で、強烈な「熱」だった。

 二人は出来町通を左折し、UFOのような形をしたナゴヤドームの真横を走る道に入る。

 「十五メートルの差はありますがまだ油断できません鬼頭清美。初マラソンの挑戦者が百戦錬磨の"精密機械"から逃げ切ることはできるのか!?逃げる鬼頭に追う東!まだまだわかりません!」

 鬼頭の表情は痛々しさすら感じさせる。東の表情も鬼頭ほどではないにしても苦しそうだ。

 ナゴヤドームの駐車場に臨時で作られたコースに入る。まさかここまでのデッドヒートになるとは。そして、信じてはいたがゼルメイトの独壇場になるとは。

 東もここでラストスパートを仕掛ける。だが、それを察知するかのように鬼頭もスパートをかける。

 そのフォームは陸上経験者からしてみるに堪えないフォームではあるが、科学的根拠に則った理路整然としたどんなフォームよりも美しかった。

 しかし、差はじりじりと詰まっていく。十五メートル、十二メートル、十メートル。どんどん迫ってくる。ゴールテープを切る瞬間まではどちらが一位になるかは全く想像つかない。月並みな言葉ではあるが、手に汗握る展開そのものだった。

 野球で言えばセンターが守る辺りから光が差し込んでいる。この光の先にはゴールテープが待ち構えている。

 私はテレビ中継を写すスマホの電源を切る。そして、その光の方へ目をやる。

 人影が見えた。

 その人影は鬼頭だった。

 歓声の地鳴りが、耳を麻痺させる。私は目を離すことができなかった。鬼頭のフォームは一層崩れ、アスリートのそれではない。しかし、その走りは、どの実力者の走りよりも、私の心を打っていた。

 そして、五秒ほど遅れて東が入ってきた。

 「鬼頭!逃げろ!」

 声にはならなかったが、全身でそう叫んでいた。私の心は、完全に鬼頭清美の「熱」に支配されていた。この熱狂を、この爆発を、成功させてほしい。その一心だった。

 鬼頭が純白の舗装路を踏みしめながら、ゴールへ向かってくる。私は自然とゴール地点へ駆け出して行った。

 もう後ろの東は気にしなくていい。ただゴールに向かって愚直に走れ。そんな思いでいっぱいだった。

 ゴールまで五十メートル、三十メートル、一五メートル、十メートル、三メートル。

 そして鬼頭の胸が赤色のゴールテープを切った。

 「鬼頭清美、まさかまさかの初マラソンでの大金星達成!タイムは二時間二十分五十五秒!二時間二十分五十五秒!世界陸上進出決定!地元・名古屋であの頃の輝きを取り戻しました!すごいぞ鬼頭清美!」

 そんな実況がナゴヤドームにこだまする。

 その瞬間、私の全身を、形容しがたい熱い感情が貫いた。私は立ち尽くす。それは、指導者としての達成感でも、作戦成功の安堵でもなかった。

 「ああ……面白い。陸上は……こんなにも、面白いのか……」

 熱いものが、目頭に込み上げる。鬼頭の走りは、私の冷え切った心を、確かに燃やし尽くし、新しい感情で満たしてくれた。


 ゴールテープを切った後、達成感と極限の疲労からその場にへたり込む。肺は千切れそうで、脚は既に自分のものじゃない。視界はぼやけ、大歓声の地鳴りは、遠い世界の音のようにしか聞こえない。

 その極限の苦痛と、同時に押し寄せる形容しがたい歓喜。

 (勝った……。本当に、勝ったんだ……!)

 「鬼頭清美!まさかまさかの初マラソンでの大金星達成!タイムは二時間二十分五十五秒!二時間二十分五十五秒!世界陸上進出決定!地元・名古屋であの頃の輝きを取り戻しました!すごいぞ鬼頭清美!」

 アナウンサーの興奮した声が、ドーム全体に響き渡る。その言葉が、ようやく現実を私の脳に叩き込む。

 私は最高のライバルである東礼を打ち負かし、優勝をかっさらったのだ。

 数秒後、熱い息遣いが私の横に落ちてくるのが分かった。

 「清美……っ、はぁ……」

 その声は礼のものだった。彼女もまた、ゴールラインを越えた直後、膝から崩れ落ちたようだ。彼女のユニフォームの「ZM」とサクラのロゴマークが、ぼやけた視界の中で辛うじて識別できる。

 私は、地面に突っ伏したまま、礼の方へ顔を向けようと試みるが、首が回らない。全身の筋肉が拒否反応を起こしていた。

 「……礼。私、勝ったよ」

 そう絞り出すのがやっとだった。私の言葉に、礼がかすれた声で応じる。

 「うん……見たよ。あの……最後の爆発。本当に、清美は……走ることを愛してるんだね」

 その言葉には、悔しさよりも、私への称賛と、心からの喜びが滲んでいた。礼は、私に勝負を挑み、死力を尽くし、そして負けた。それでも彼女は、私の爆発的な走りを、心底喜んでくれている。この瞬間、彼女こそが私にとって最高の仲間であり、最高のライバルであるという確信が、揺るぎないものとなった。

 「ありがとう……礼」

 私は、礼の存在があったからこそ、この爆発を成功させることができたと、心の中で感謝を伝えた。

 その時、一人の人影が、私の視界に飛び込んできた。

 「鬼頭!」

 それは、紛れもなく村田監督の声だった。彼の足取りは、冷静な指導者らしからぬ、感情に突き動かされた全力疾走のそれだった。彼は、私の横に倒れている礼をちらりと一瞥した後、地面に突っ伏している私の横へ、躊躇なく膝をついた。

 彼の顔は、興奮と安堵、そして抑えきれない感動で、ぐしゃぐしゃになっていた。その目には、大粒の涙が浮かんでいる。

 「鬼頭……すごい……。すごいぞ……!」

 監督は、私の肩を力強く掴んだ。私は、その温かい手の感触で、初めて現実に戻ってきた気がした。

 「監督……私、優勝、しました……。公言、通り……」

 息も絶え絶えにそう告げると、監督は堰を切ったように嗚咽を漏らした。

 「ああ……、ああ……!そうだ、君は言った!『優勝をかっさらう』と……。君の走りは……、面白かった。本当に、面白かった……」

 「これで……陸上を……好きに……なってくれましたか?」

 私は最後の力を振り絞って、最も聞きたかった質問を投げかけた。

 村田監督は、私の両手を強く、そして優しく握りしめた。彼の汗と涙が混じった熱い手が、私に触れる。

 「ああ……好きになった。心から好きになったよ、清美。君の走りが、私に陸上の熱を教えてくれた……!ありがとう、清美……。本当に、ありがとう!」

 その言葉が、私の耳に届いた瞬間、張り詰めていた全ての糸が切れた。私は、肉体の限界を超えた疲労感ではなく、長年の燻りと、恩人との約束を果たした安堵から自然と涙が溢れ出した。

 遅れて大井ヘッドコーチがやってくる。四十キロ地点で私たちに声をかけたから遅くなったのだ。

 「お前ら俺たちの考えた作戦無視しやがって!その瞬間肝が冷えたぜ。まあでも結果よければすべてよしだ!鬼頭、優勝おめでとう!そして、東。お前は自己ベスト更新だ!」

 そう快活に笑いながら私たちに話しかける。礼は大井ヘッドコーチの言葉に驚きを隠せないようだ。

 大阪国際女子マラソンで記録した自己ベストを更新したのだ。

 これは私との真剣勝負が引き起こした賜物だろう。きっと、私が走らない名古屋ウィメンズマラソンであれば、東は自己ベスト更新できなかっただろう。それだけでも東との真剣勝負の意味があった。

 地面に倒れる。そして、私はナゴヤドームの天井を見上げた。ドームの屋根は、私には限りなく高く、そして晴れ渡った青空のように見えた。

 この勝利は、私の「陸上人生の全てを爆発させる」という誓いの、最高の結実だった。そして、この爆発は、村田監督の冷え切った心を動かし、礼との友情を確固たるものにし、私の陸上人生に新たな光をもたらした。

 「……世界陸上、行くよ、監督」

 礼と監督が私を支えながら、医務室へと向かう。その足取りは重い。しかし、私の心は、かつてないほど軽やかだった。

 (次の舞台は、世界。そして、私はもう、走ることをやめられない)

 私の胸の奥では、走りに対する燃えたぎる情熱が、さらに勢いを増していた。それは、このナゴヤドームの歓声にも勝る、私の新たなスタートの号砲だった。

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