9.再生
鬼頭はあの怪我の後、すぐにゼルメイトを脱退した。
選手一名、スタッフ二名となった歪なチームは途方に暮れた。
チーム運営自体はできる。だが、チームメートがいないのは致命的だ。互いに競い合って切磋琢磨し合うのがチームの目的だ。一人では競い合うことができない。トレーニングパートナーがいないということは、東の成長も止まりかねないのだ。
そんな路頭に迷っている私たちに、ある一本の電話がかかってきた。サクラの有賀監督からだった。
電話の内容を要約すると、「東は特待選手として受け入れ、村田・大井の両名もコーチとして受け入れる」というものだった。
もうすでにサクラと連携している私たちのチームを吸収することは、サクラ本社にとってハードルが低いようだった。すぐにこの計画はサクラ内部で了承が通ったそうだ。
これだけの計画であれば、私たちのチームを飲み込むだけのものだ。だが、有賀監督はこの計画を受け入れれば、「ゼルメイト」の名前を残すことを約束した。
私たちが描いた軌跡を無碍にしないことの表れであった。
このまま三人のチームでグズグズ停滞しているわけにもいかない。
私はその旨を二人に伝え、了承をしっかりと得た上でその話を飲んだ。そして、その話はトントン拍子で進み、世界陸上の翌春には「ゼルメイト・サクラ」という新たな看板を背負ったチームが発足した。
東は長距離強化選手として、大井はコーチ、私はヘッドコーチの職を賜った。
そして、有賀監督は赴任してきた私たちに重要なこと二つを早々に伝えてきた。
一つ目は新選手のスカウトを私に任せるということだった。
高校や大学、他の実業団チームに赴いて選手を観察し、そこから厳選してうちのチームに入団しないかの交渉を重ねる。
私をその職に置いたのは村田星一というネームバリューがあるからだろう。現役時代は日の丸を背負い、まだ短い指導者時代には二人を世界陸上に送り込んだ。そんな実績を多くの陸上関係者は把握している。だが、一人の選手が陸上の世界から離れた一因には、自分の怠慢もあったことは多くの陸上関係者は知らないだろう。自責の念はいまだある。
そして二つ目は、六十歳を以て監督職を辞して、名誉監督の座に回るということだった。
サクラに所属している期間こそは短いが、有賀監督は長い間日本の陸上界に身を置いている。そして、その指導実績から女子陸上界の名伯楽と称され、一般の知名度も高い。だが、年齢は私が赴任してきたときで五六歳だった。
その年齢を考慮してサクラ本社から今までの功績を称えて、名誉監督に就任することを提案された。
名誉監督というのは名ばかりで、実際に行うことはほとんどない。主要レースに赴いて、チームの応援やメディア対応などを行うだけだ。そのため、普段の業務を行う監督を決めなければならない。その次期監督の座に、私へ白羽の矢が立った。
その内容を聞いたときに耳を疑った。まだ指導者歴としては五年にも満たない。有賀監督が退任する四年後でもまだ十年にも達さない。そんな若輩者が名門であるサクラの監督を務めていいのか。そして、女子陸上界の名伯楽の跡を継ぐ人物としてふさわしいのか。
そんな疑問は浮かんだが、言われた以上務める覚悟を持った。そして、少しでもふさわしい人物になるため、この数年研鑽を積んだ。
そして、有賀監督退任まで二年を切った今、私はサクラの拠点がある京都から近鉄に乗り、名古屋駅に降り立っていた。
この二月の名古屋に足を踏み入れたのはスカウト活動のためだった。
蓬左学院に祖父江凛という注目のランナーがいる。
まだ二年生ながら都大路では一区を走り、十九分二秒のタイムを記録した。それも一年生では出走どころか補欠にも入っていなかった。そんな急成長と、これから一年弱の成長を鑑みれば、鬼頭清美の持つ十八分五十五秒の区間記録を超えることも狙えるだろう。彼女は「鬼頭清美二世」の通り名で陸上関係者の中では知れ渡っていた。
蓬左学院最寄りの車道駅へ向かうために桜通線のホームへ向かう。
桜通線のホームに降り立つと、名古屋特有の乾いた寒風が地下にまで吹き込んでいるかのように、首筋を震わせた。
車道駅までは数駅。蓬左学院へアポイントメントを事前にとってあり、蓬左学院の陸上部顧問・加藤先生と落ち合う予定になっている。今回はいきなりの勧誘ではない。まずは「ゼルメイト・サクラ」の存在を知ってもらい、祖父江凛という逸材に、将来の選択肢の一つとして私たちの名を刻んでもらうための第一歩だ。
滑り込んできた赤色のラインが入った電車に乗り込む。桜通線は若干並走する東山線に客を取られているのか、はたまた午後三時という時間からか、余裕を持って座ることができた。そして、十分もしないうちに目的地の車道駅に着く。
名古屋ウィメンズマラソン・世界陸上でも使用された桜通には、あの時の名古屋ウィメンズマラソンと異なり、伊吹おろしが吹き付ける。思い返せば伊賀辺りでは雪もちらついていた。寒さは厳しいが、駅から蓬左学院は歩いてすぐだ。
校門前に着くと、待ち合わせの加藤先生が手を挙げてこちらに気づいた。
「村田さん、お越しいただきありがとうございます。いやあ肌寒いですねえ」
「ええ。京都も寒いですけど、名古屋は風がありますね」
挨拶を交わしながら、私は目の端で校舎横のグラウンドの方を覗いた。トラックでは数名の選手がジョグをしており、その中には祖父江の姿もあるのだろう。
私はトラックを望むことのできる応接室に案内された。暖かい煎茶を用意してきた加藤先生に感謝を述べ、向かい合う形で座る。
窓際の席から外を見下ろすと、午後の冷たい光がトラックの紅色を淡く染めていた。
ジョグをしている数名の中に、ひときわ小柄ながらも芯のあるストライドを刻む選手がいる。あれが祖父江凛なのだろう。肩の力が抜け、脚の運びに無駄がない。風に乗せるようなリズムの取り方は、成長途上の高校生とは思えない完成度だ。
だが、私の視線はそのすぐ外側にもう一つ、異質な存在を捉えていた。
数名の選手に向けて、見覚えのあるフォームで指示を出す女性がいる。華奢で引き締まった身体つき。かつて何百回と並んで指示を出し、何百回と背中を見守ってきたあの立ち姿。
鬼頭清美。
胸が一瞬止まったように感じた。
加藤先生が私の視線の先に気づいたようで、湯呑を置きながら言った。
「ああ、鬼頭ですね。去年の春頃ですかね、突然うちを訪ねてきて『コーチをさせてくれないか』と。こちらとしても願ってもない話でしてね。学生も刺激を受けているようです」
「……そうでしたか」
思わず声がかすれる。鬼頭清美。ゼルメイトの仲間であり、怪我をきっかけに突然チームを去った、あの鬼頭が。
蓬左学院にいると聞いたことはなかった。関係者の間でも彼女の消息はしばらく曖昧だったはずだ。
まさか、このタイミングでこの場所に。
「特に祖父江は鬼頭の大ファンでしたから大きな刺激を受けていますよ」
その言葉に納得と驚きを覚えた。
祖父江がこれほどまでの急成長を遂げたのは、憧れの存在から指導を受けていることからだろう。言われてみれば、都大路一区のタフなコースであれほどまでのスピードを出せるのは、フォームこそ違えど、鬼頭と大きく共通する。
そして、鬼頭の指導力についてだ。もちろん祖父江にも走りの才能があるのだろう。先ほど走りを見てみたが、軽い身のこなしは天性のものだろう。
だが、それでも補欠にも入っていなかった選手を一年足らずで都大路の舞台で輝かせるには才能だけではこなせない。指導者のアドバイスがなければ、絶対に無理だ。もちろん加藤先生の指導もあるだろうが、祖父江は鬼頭に心酔している。一番アドバイスを聞くのは鬼頭のものだろう。となれば、鬼頭の指導力は桁外れたものなのではないか。
私は「そうなんですか」とうわの空で相槌を打つ。窓の外では、鬼頭が生徒のピッチを見ながら、わずかに笑っている。その表情があまりにも自然で、胸に何か熱いものがこみ上げた。
元気そうでよかった。
だが同時に、胸の奥に鈍い痛みが残る。彼女が去ることになった一因が自分にある。その事実は消えない。
「さて、村田さん」
加藤先生が姿勢を正し、こちらへ向き直る。
「本日は祖父江の件でお越しいただいたとのことでしたが……。彼女にご興味を持っていただけた理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
私は息を整え、視線を再びトラックへ向けた。祖父江凛がちょうどタータンのストレートを抜け、軽やかにカーブへ入っていく。
その姿は、まるで一度走り出したら止まらない疾走感に満ちていた。
鬼頭清美とは違う。だが、確かに鬼頭を思い出させるキレがあった。
「……祖父江さんは、将来的に日本の女子長距離の中心になる素材だと考えています」
加藤先生は目を細め、ゆっくり頷いた。
「村田さん、今日は練習をご覧になりますか?」
「はい。ぜひ」
その返事をした瞬間だった。
外で視線を巡らせていた鬼頭清美が、こちらの窓にふと目を向けた。
目が合った。
一瞬、驚いたように目を丸くした。
私は立ち上がり、静かに息を吐く。
スカウトの予定が、別の意味でも重要な一日になりそうだった。
蓬左学院のトラックへ向かう準備をしながら、私は久しぶりに鬼頭清美と向き合う覚悟を固めた。
トラックに向かうと、ちょうどインターバルを終えた数名の選手が給水に向かっていた。加藤先生はその中に混じる祖父江に声をかけ、私を紹介する。
「祖父江。紹介する、こちらがゼルメイト・サクラの村田さんだ」
「村田星一と申します。今回はご挨拶に伺わせてもらいました。よろしくお願いします」
そう堅く言い、名刺を差し出す。第一印象は人の印象の七割を決めるという。この祖父江という有望なランナーにうちのチームへ将来的に来てもらうため、誠実に挨拶する。
「将来的に」と保険をかけるのは理由がある。今までは実業団に入団する道筋としては高校からすぐにというのも少なくはなかった。だが、近年では男子ほどではないものの大学を経由しての入団が大多数となってきた。
高校卒業すぐでも、大学卒業後でもうちのチームに来てもらうことが私に課された命題であった。
祖父江は口を開く。
「村田さん!ゼルメイトの監督だった方ですよね!」
その瞬間、祖父江凛の目がさらに輝いた。そんな言葉を第一にかけられるのは初めてであった。大多数は「元日本代表」という肩書を第一に言ってくる。その言葉の裏にあるのは、間違いなく鬼頭清美への敬意だった。
「はい。確かにゼルメイトで指導していましたよ」
私は静かに答える。
祖父江は少し息を弾ませながら、それでも言葉を続けた。
「鬼頭さん、いつも練習の合間にゼルメイト時代のお話をされるんです!みなさんでどんな練習をして、どんな思いで走っていたか……。貴重なお話を聞かせてもらえているんです!」
その言葉が胸に刺さった。
鬼頭は"ゼルメイト"を捨てたわけではなかった。彼女の中で、今もゼルメイトは走り続けていた。
「そうですか……。鬼頭が、そんな話を」
私の声は自然とかすれていた。祖父江は気づかず、続ける。
「はい! 鬼頭さん、村田監督のこともよく話してます。"私を一番強くしてくれた人"って。だから……お会いできて、すごく光栄です!」
あどけなさが残るそんな声色に思わず息が止まる。
鬼頭清美が、自分のことをそんなふうに。
だが、その余韻に浸る間もなく、後方から柔らかな声が飛んできた。
「凛、給水終わったらインターバル走ね」
聞き慣れすぎた声。
聞きたくても、もう二度と聞けないのではないかと思っていた声。
ゆっくり振り返る。
そこに、鬼頭清美が立っていた。
以前より少し髪が伸びて、頬がわずかに細くなった気がする。
けれど、眼光は昔とまったく変わらない。
鬼頭は、祖父江へ指示を出したあと、こちらへ歩いてきた。
距離が縮まるにつれて、胸の奥が熱くなる。
最後に話したのは、業務的に処理したあの退団の日だった。
彼女は何も言わず去り、私は何も言えずに見送った。
その空白が、今この瞬間に満ちていくような気がした。
「……お久しぶりです、村田監督」
鬼頭の声は、風の冷たさとは裏腹に温かった。
「久しぶりだな、鬼頭」
それだけ言うのが精一杯だった。
鬼頭は小さく笑った。
その笑顔が、かつて何度も見た、練習後に見せるあの柔らかな表情だった。
「こんな形で会うとは思いませんでした」
「私もだよ。ここにいるとは知らなかった」
鬼頭は少しだけ視線を落とし、言葉を探すように間を置いた。
「……走る側には戻れませんでしたけど。でも、指導するのは、好きなんです。あの頃みたいに、誰かと一緒に走るみたいで」
その言葉を聞いた瞬間、心の奥にへばりついていた罪悪感がわずかにほどけた。
鬼頭は、自分の足では走れなくなった。
でも走ること自体は、やめていなかった。
「鬼頭」
気づけば、私はほんの少しだけ声を震わせていた。
「元気そうで……本当に、よかった」
鬼頭は驚いたように瞬きし、そして静かに微笑んだ。
「村田監督こそ。サクラに入ったんですね」
「まあ……いろいろあってな」
一瞬の沈黙が流れる。
鬼頭はゆっくりとまばたきをし、そして、ふっと息をこぼすように笑った。
「謝らないんですね」
その一言に、心臓が跳ねた。
鬼頭は真正面からこちらを見つめていた。責める色ではない。けれど、避けては通れない問いのような、静かな強さがあった。
「私、辞めるとき……ちゃんとお礼も言わずに出ていきました。村田監督にも、大井さんや東にも。ずっと、それが引っかかってたんです」
「鬼頭……」
「だから、"元気でよかった"って言われて……なんか、救われました」
胸が熱くなった。
言葉にできない思いが、喉の奥にせり上がる。
「……俺の方こそ謝るべき立場だ。お前に無理をさせた。あの怪我を止められなかった。選手としての未来を……奪ってしまった。本当にすまない」
この言葉は私の自己満足にすぎない。謝って許されるものではないのだ。未来あるランナーの将来を奪ったことも、走ることが好きな一人の人間の楽しみを奪ったことも。
絞り出すように言うと、鬼頭はそっと首を振った。
「違いますよ。村田監督のせいじゃありません。あれは、私が自分で選んだ走り方の結果です。止められていたら、きっと私、もっと苦しんでました」
風が、二人の間を優しく抜けた。
「それに……ゼルメイトを離れても、ゼルメイトは私の中にずっとあります。ここで指導してるのも、その続きみたいなものです。村田監督に教わったこと、今も全部、生きてますから」
不意に、肩の荷が軽くなるのを感じた。
許されたわけではないだろう。だが、確かに前へ進むための一歩がそこにあった。
「……そうか」
「はい」
鬼頭がそう言って微笑んだ瞬間、少し離れたところから祖父江が声を上げた。
「鬼頭さん! そろそろ次のメニューお願いします!」
「あ、はい!」
鬼頭は軽く返事をしてから、こちらへ振り返る。
「村田監督。凛のこと、ぜひ見てあげてください。あの子、まだ伸びます。もっと、もっと強くなれますから」
その声には、かつて自分が鬼頭に向けていたものと同じ熱が宿っていた。
「楽しみにしてるよ。君が育てている選手だ。期待しないわけがない」
鬼頭は照れくさそうに笑い、走り戻っていった。
風を切る背中は、走れなくなったはずなのに、どこか"走り続けている"ように見えた。
鬼頭清美は、まだ走っている。
そして、自分もまた──逃げずに向き合う時が来たのだと、静かに理解した。
鬼頭は校舎の方へ視線を流し、ゆっくりと頷いた。
「話せるなら、あとで少し時間をもらえますか」
その言葉には、過去から未来へと再び繋がろうとする細い糸のような響きがあった。
「もちろん。場所は任せてもいいか」
「分かりました」
鬼頭がそう答えた瞬間、加藤先生が手を叩く。
「では村田さん、練習を見学なさいますか?」
「はい。ぜひ」
鬼頭は軽く会釈し、再びトラックへ歩き出した。
その背中は、現役の頃より少し小さく見えたけれど、凛とした芯の強さは変わらない。
私は深く息を吸い込み、祖父江凛の走り、そして鬼頭清美の歩む道を、しっかりと見届ける覚悟を決めた。
スカウトのために来たはずの名古屋で、私は過去と向き合うことになる。
祖父江凛の走りが、夕陽に照らされて赤いタータンの上に長く影を落としていた。
待合場所に指定されたのは、名古屋発祥のチェーンの喫茶店であった。鬼頭の練習が終わるまで待つ。
ベルの音が響き、ドアが開く。冬の冷気がドア付近の席へ陣取る私に吹き付ける。
「お待たせしました、村田監督」
寒風に混じって、鬼頭清美の声が聞こえた。コートについたわずかな雪を払いながら、こちらへ向かってくる。
「いや、私もついさっき来たところだ。寒い中、ご苦労さん」
そう言って、席を立とうとする私を、鬼頭は手で制した。
「大丈夫です。座っていてください」
彼女は私の向かいに座り、店員に「ブレンドコーヒーを」とだけ告げた。その仕草は、現役時代、練習後にサッと食事を済ませてしまう、あの時の手早さを思い出させた。
店員が去ると、間に置かれたメニューブックを挟んで、二人の間に再び沈黙が訪れた。沈黙は居心地が悪いものではなく、むしろ長い時間を共有した二人だけが持つ、特別な空間だった。
先に口を開いたのは、やはり鬼頭だった。
「蓬左学院にいらっしゃったのは、祖父江のスカウトですよね」
「ああ、そうだ。正直、驚いたよ。君がここにいるとは全く知らなかった」
鬼頭はふっと小さく微笑む。
「……私もです。まさか村田監督とここで会うなんて。陸上関係者の中でも、私の居場所を知っている人は少ないはずですから」
「私もそう思っていた。だが、偶然にも再会できた。こうして話ができて、本当によかった」
注文のコーヒーが運ばれてきて、湯気が二人の顔をわずかに覆い隠す。
「ありがとうございます」
鬼頭はカップに口をつけ、一息ついた後、静かに話し始めた。
「ゼルメイトを辞めてからの一年間は、陸上から離れようと必死でした。実家に戻って陸上とは全く関係のないアルバイトに出てみたり、旅行に行ってみたりしました」
彼女が陸上を辞めると私に言ったあの病室。あそこでは陸上を「やめたい」という感情よりかは、陸上を「やめなければならない」という諦めに近いような感情を感じた。
「でも……どんな時でも陸上が心から離れませんでした……」
あの病室。陸上に対する情熱が瞳の奥に見えなかった。あの瞬間、鬼頭の中で陸上に対する情熱が完全に鎮火されたように見えた。だが、その情熱は燃え尽きてはいなかったようだ。
「例えば近所の公園で走っている人を見かけると、つい目で追ってしまいました。自分にはもう走る道はない、そう言い聞かせても、身体が疼くんです。そんな時、名古屋ウィメンズマラソン前の村田監督の言葉が浮かんだんです」
「村田監督がコーチとして就任した際、『陸上に対する情熱はなかったが、指導をすることによって得られる喜びは今までの何物にも代えがたい喜びだった』という言葉が。陸上に対して後ろ向きだった人間でも指導することには喜びを感じられたんだと。もう満足に走ることができない私にとって、次の陸上に対する関わり方は"指導"なんだとその時思ったんです」
鬼頭はカップを両手で包み込み、温かいコーヒーの熱を確かめるように目を閉じた。
「思い立ったが吉日だと思って、母校の蓬左学院へその足で行きました。そして、気づいたら加藤先生の前で『コーチをさせてください』と頭を下げていました」
彼女の語る言葉一つ一つから、陸上への強い想いが伝わってきた。それは、かつてゼルメイトの一員として、誰よりも速く走ることに情熱を注いでいた、あの頃の鬼頭清美と全く変わらないものだった。
「指導するのは、確かに走るのとはまた違う喜びがある。あの頃、監督が私たちを見ていた景色が、少しだけ分かった気がします。凛と一緒に走っているような、そんな感覚になれるんです」
その言葉を聞いて、私は心の底から安堵した。彼女が、自分の「走れない」という現実を受け入れつつ、「指導」という形で昇華し、これほどまでに陸上に対する情熱に満ちた人間が陸上と再び向き合えていること。そして、彼女の教え子である祖父江凛が、その情熱を受け継いで輝いていること。すべてが、最高の形で繋がっていた。
「鬼頭。君が、また陸上に戻ってきてくれた。指導者として、こんなに嬉しいことはないよ」
私は心からの気持ちを伝えた。鬼頭は少し恥ずかしそうに頬を緩めた。
「今回は祖父江のスカウトに関するお話で名古屋までいらしたんですよね」
今回私が名古屋に出向いた理由を問いただす。
「ああそうだ。ゼルメイト・サクラを将来の選択肢の一つに入れてもらおうと挨拶に来た次第だ。そうしたら君の姿を見て、びっくりしたよ」
私は今回の要件を手短に話す。鬼頭は私の言葉に微笑むが、すぐに姿勢を正し、真剣な表情へと変わった。それはコーチとしての顔だった。
「彼女は、才能だけなら私以上です。ですが、メンタル面、特に大一番でのプレッシャーへの耐性には、まだ高校生らしさが残ります。そして、フォームもまだ発展途上。ですので、大学に進学して基礎をしっかり固めるのが現在の方針です」
それが安定した道だろう。きっと蓬左学院と太いつながりを持つ紫峰館大学へ進学するつもりだろう。
だが、私はそう簡単に引き下がれなかった。
「うちはサクラ時代からクイーンズ駅伝を優勝したことがない。第一回から参加しているのにだ。それにここ五年はシード権獲得も逃している。この悪い流れを払拭して、今までのジンクスを打ち破るためには新しい風が必要だと思う」
私は熱弁する。選手層は他チームとは引けを取らない。にもかかわらず、最高順位は五度の二位。チームの雰囲気も決して悪くない。選手の実力も東を筆頭に千田といった今脂の乗っている選手も控える。
「それで祖父江の獲得にこの時期から奔走しているということですね」
鬼頭はそう静かに尋ねた。その眼差しは、指導者として、そしてかつてのチームメートとして、私の意図を深く探ろうとしているようだった。
「その通りだ」
私はコーヒーを一口飲み、決意を込めて答えた。
「祖父江は、単なる有望選手じゃない。彼女の走りには、チームの空気を変える力がある。もちろん、君の言う通り、大学で経験を積むのが一般的で安全な道だろう。だが、クイーンズ駅伝で優勝するという目標を達成するためには、安全策だけでは駄目だと思っている」
「それに祖父江にとっても悪い話ではないと思う。彼女は大学に入ってもとびぬけた実力で、正直大学生相手には勝負にならないと思う。だから、早いうちに社会人の荒波に揉まれることで、彼女の才能を、私たちのチームで、最高の環境で、最短で開花させたいんだ」
私は一呼吸置き、正面から鬼頭の目を見つめた。
「そして、もう一つ、君に話しておきたいことがある」
鬼頭は静かに頷き、先を促した。
「君の指導力は、祖父江の成長を見れば明らかだ。補欠だった選手を一年で都大路のエース区間に送り込んで区間新に迫る記録を出させる手腕は、指導者として桁外れだよ。それは、君が陸上に対して、そして選手に対して、どれほど誠実に向き合っているかの証拠だ」
私は身を乗り出した。
「鬼頭。私と共に、ゼルメイト・サクラに来てくれないか」
鬼頭の瞳が大きく見開かれた。その表情には、驚きと、かすかな動揺が浮かんでいた。
鬼頭が来るまでの一時間、祖父江がうちのチームに来る方法を考えた。祖父江は鬼頭を憧れの存在として熱烈に慕っているのは短い時間でも伝わってきた。そんな存在がゼルメイト・サクラに入れば、鬼頭の指導を高校を卒業しても仰げるというのは祖父江にとって大きなメリットなのではないか。
そして、鬼頭の入団はゼルメイト・サクラにも大きなメリットがある。指導歴は短いもののその圧倒的手腕は、伸び悩んでいるといってもいいゼルメイト・サクラの底上げにもつながるだろうと踏んでいる。
祖父江の獲得にもゼルメイト・サクラの底上げにも鬼頭の存在が必要だと私は信じている。
「君はもう、走ることはできないかもしれない。だが、君の経験、情熱、そして指導力は、今のチームに絶対に必要だ。東も大井も、君の復帰を心から望んでいるはずだ。そして何より、祖父江を獲得するためには、君の力が必要だ」
「祖父江を大学へ行かせたいという加藤先生や君の考えは尊重する。だが、もし祖父江が高校卒業後すぐに実業団へ進む道を選ぶなら、それは彼女が最も信頼し、共に走りたいと願う君がコーチとして側にいるという条件が、最も大きな決め手になるはずだ」
鬼頭は目を閉じ、深く息を吐いた。再び目を開けたとき、その眼光は鋭く、そしてどこか懐かしい闘志を宿していた。
「……ありがとうございます、村田監督」
彼女はしばらく沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。
「正直、こんな話になるとは思っていませんでした。私は、チームを脱退した人間ですから……。でも、指導の喜びを教えてくれたのは、ゼルメイトでの経験、そして村田監督のあの言葉です」
彼女はカップを置き、まっすぐ私を見た。
「祖父江は、私が指導者として、再び陸上界と向き合うきっかけをくれた選手です。彼女の才能を、最高の舞台で咲かせたい。それは、今の私の唯一の願いです。それを最短距離で実現できるのなら、それは指導者として本望ですし、それを間近で見れるのは指導者冥利に尽きます」
そこまで言って、鬼頭はふっと小さく微笑んだが、すぐに真剣な表情に戻った。
「ですが、村田監督。私は今、蓬左学院で指導をさせてもらっています。加藤先生には、突然現れた私を温かく受け入れていただき、感謝しかありません。また、祖父江をはじめとする生徒たちにも、私が今、陸上と繋がっていることで、刺激を与えられていると信じています」
彼女は、手のひらで包んでいたカップをそっとテーブルに置いた。
「村田監督の気持ちは、痛いほど分かります。私も、ゼルメイト・サクラを、そして日本の長距離界を変える力になりたいという気持ちはあります。ですが、私が一度陸上から離れたこと、そして今の居場所があることを考えると、すぐに『はい』とお返事はできません」
その言葉に、私はわずかな落胆を感じたが、彼女の誠実な態度に納得した。
「……そうか。当然の答えだろう」
「はい。ただ……」
鬼頭は言葉を選びながら続けた。
「村田監督の提案は、祖父江にとっても、そして今の私にとっても、非常に大きな選択肢であることは間違いありません。祖父江の獲得に私の存在が重要であるということも、理解しています。ですので、時間をいただけますでしょうか。ゼルメイト・サクラのコーチという話、そして祖父江の今後の進路について、自分の中でしっかりと整理し、加藤先生とも相談させてください」
私は深く頷いた。彼女が逃げずに、この大きな提案と真剣に向き合おうとしてくれている。それだけで十分だ。
「わかった、鬼頭。時間を取ってくれてありがとう。君の返事を、待っている。ただし、スカウト活動は待ってくれない。あまり長くは待てないことは理解してほしい」
「承知しています。近いうちにご連絡します。村田監督、今日はありがとうございました」
鬼頭は立ち上がり、羽織っている黒のステンカラーコートの襟元を直した。その背中は、迷いを抱えながらも、次の一歩を踏み出す意志に満ちているように見えた。
京都盆地を吹き抜ける冷たい風は冬の寒さを覚えるものであったが、天候はまさに小春日和といったところだった。それは私たちが拠点とするグラウンドに冬の終わりと春の始まりを告げていた。
あの名古屋での再会から、すでに一年以上が経っていた。
あの後、何度も蓬左学院に訪れて祖父江に獲得の熱心さをアピールする傍ら、鬼頭にも同様のアピールを行っていた。だが、二人共から得られる返事はYESともNOともつかない曖昧な言葉ばかりだった。
そしてあれよあれよという間に祖父江は二度目の都大路に挑んだ。私も沿道で祖父江の走りを見ていたが、他のランナーとは格別なフォームから繰り出される圧倒的な走りはまさに圧巻であった。このランナーを大学に送り出す意味はない。そしてこのランナーがこの停滞気味のゼルメイト・サクラを変えてくれると私にそう強く思わせた。
そして記録は一八分五五秒。まさかの鬼頭と並ぶ記録であった。一区のゴール地点である平野神社前には大歓声が響いた。それは彼女が憧れとする鬼頭が同じ区間記録を出した時のような、彼女にとって何物にも代えがたいうっとりするような歓声だったに違いない。
スカウト活動は次のターゲット次のターゲットとせわしなく動いていたが、私の心はまだ、鬼頭清美からの連絡を待つ名古屋の喫茶店に留まっているようだった。
「村田。お前宛に郵便だぞ」
そんな物思いにふける私を現実に引き戻すかのように、事務室から大井の明るい声が聞こえ、私はヘッドコーチ室のデスクから顔を上げた。
「私宛か?」
「ああ。封筒に『村田星一様』って手書きで書いてあるぞ。差出人は蓬左学院からだ」
大井は私のデスクに白い洋封筒を置くと、私は目を丸くした。その筆跡は、チームの練習日誌の端々に書き込まれていた、あの几帳面で柔らかな文字だった。鬼頭の文字だ。心臓がわずかに高鳴るのを感じ、私は一瞬、息を詰める。
「ああ、ありがとう。……すまないがちょっと席を外してくれ」
「え? ああ……分かった」
大井は察したのかそれとも見当がつかないのか、釈然としない様子ですぐに部屋を出ていった。静寂を取り戻した部屋で、私はそっと封筒を手に取る。封を開け、中に入っていた便箋をゆっくりと広げた。
「村田監督
昨年からお忙しい中、何度も名古屋までお越しいただき、そして私にコーチとしての道を再び示してくださり、本当にありがとうございました。
監督からご提案いただいた「ゼルメイト・サクラ」のコーチ就任の話、そして祖父江凛のスカウトに関するお話を伺い、深く考えました。私がチームを去ったあの日のこと、そして指導者として陸上と向き合う今の自分の気持ち、すべてを正直に見つめ直しました。
まず、祖父江凛の進路についてです。彼女は、私の指導者としての始まりであり、陸上への情熱を再認識させてくれた、かけがえのない教え子です。
監督がおっしゃる通り、彼女は大学という「安全な道」を選ばずとも、実業団の荒波で揉まれることで、その才能を最短距離で開花させることができる稀有な選手だと思います。そして、クイーンズ駅伝優勝というゼルメイト・サクラの目標達成に、彼女が必要な存在であることも理解しています。
加藤先生とも話し合いました。先生は私の意見を尊重してくださり、「祖父江本人の意思を最大限に尊重する。そして、鬼頭が指導者として次のステージへ進むことを応援したい」と言ってくださいました。
祖父江本人にも、監督の熱意とゼルメイト・サクラの環境について伝えました。彼女は目を輝かせ、「鬼頭コーチがいてくれるなら、私も行きたい!」と即答しました。彼女の私への信頼と、目標に向かう強い意志に、胸が熱くなりました。
私の存在が、彼女の選択において重要な鍵となるのならば、私はその責任を果たしたいと思っています。
そして、監督からのコーチ就任のお話です。
私は一度チームを離れた人間です。ですが、指導を続ける中で、私が最も心から喜びを感じるのは、ゼルメイトという場所で学んだ哲学、そして村田監督から受けた指導のエッセンスを、次の世代に繋ぐことだと気づきました。
鬼頭清美は、もう競技者としては走れません。ですが、コーチとしてならば、私は祖父江だけではなく、ゼルメイト・サクラの既存選手、そしてこれから入ってくる新しい選手たちと共に、再びあの目標に向かって走ることができます。
監督の言葉にあったように、私の経験、情熱、そして指導力。それらが少しでもチームの役に立つのであれば、これ以上の喜びはありません。
結論を申し上げます。
村田監督、ゼルメイト・サクラのコーチとして、私を受け入れてください。
私は、祖父江凛が高校を卒業し、チームに入団するタイミングで、貴チームに合流したいと願っています。そこまでは、蓬左学院で祖父江の基礎固めと精神面の強化に全力を尽くす所存です。
ゼルメイト・サクラという、私たちが描いた軌跡の名前を背負って、監督と共に再びクイーンズ駅伝の頂点を目指せること、そして女子陸上界の頂点に立つことを心から楽しみにしています。
乱筆乱文、お許しください。
それでは桜の季節過ぎたころにお会いできるのを楽しみにしております。
鬼頭 清美」
私は便箋を静かに折りたたみ、深々と息を吐いた。胸の中に広がったのは、安堵や喜びという言葉では表しきれない、熱く、強い感情だった。
「そうか……来てくれるか」
これで、チームは再び最高の布陣を整えられる。鬼頭清美という指導者を迎え入れることで、祖父江凛という逸材の獲得はほぼ確実なものとなり、さらに鬼頭の手腕によってチーム全体のレベルアップも期待できる。
私は、すぐにかつての仲間である大井と東にこの知らせを伝えるため、立ち上がった。そして、そのままサクラ本社の役員と有賀監督にもこの朗報を報告しなければならない。
窓の外では、早咲きの梅が薄紅色の花をつけ始めていた。春はもうすぐそこまで来ている。
ゼルメイト・サクラは、この春、村田星一を監督、大井をヘッドコーチとするのと共に鬼頭清美をコーチに加え、そして祖父江凛という新しい風を迎えて、クイーンズ駅伝の頂へ向かう新たな一歩を踏み出すことになる。
私たちは、もう二度と停滞しない。
私は静かに決意を固め、ヘッドコーチ室のドアを開けた。
廊下の向こうから、東と大井の笑い声が聞こえてくる。
この知らせを聞いたら、二人はどんな顔をするだろう。
私の顔には、自然と笑みが浮かんでいた。
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