4.始動

 三月下旬、あのファミレスに戻ってきた。

 十一月にチーム名を決めたあの席。窓際の四人掛けテーブル。メニューも、店内の匂いも、あの日と同じだ。

 だが、決定的に違うものがある。

 私たち――ゼルメイトには、もう「帰る場所」があった。

 テーブルには、以前と同じく飲みかけのホットコーヒーが並ぶ。しかし、あの時、私たちはただ夢を語るだけだった。今は違う。私たちには練習拠点がある。走るべき道がある。目指すべき頂が、はっきりと見えている。

 「とりあえず、練習拠点は確保できた」

 私が口火を切ると、大井はそれに続くよう口を開いた。

 「次の課題は生活拠点だ。多気での暮らしを考えると、選手たちの住居をどうするかが問題になる」

 彼は手元の資料に目を落とした。

 「練習拠点周辺の賃貸を探してみたが、選択肢が少なすぎる。ましてや、東のようなトップ選手が安心して暮らせるセキュリティを確保できる物件となると、ほぼない」

 東が不安そうな表情で私たちに尋ねる。

 「どうすればよいんでしょうか……」

 私は一呼吸おいて、静かに告げた。

 「正直に言うと、俺の実家を使おうと思っている」

 「え……実家って、あの叔父さんの家の近くだよな?」

 大井が驚きの声を上げた。

 「ああ、そうだ。両親は数年前に姉家族の住む豊橋の方に移り住んでいて、今は空き家になっている。電気や水道は通っている。建物自体は古い木造平屋だが、私が二~三か月に一度、手入れしにいってるから、住む分には問題ない」

 鬼頭が目を丸くして聞いた。

 「村田コーチのご実家に、私たち四人が住むんですか?」

 「そうなる。間取りは、なんとか一人一つの個室を確保できる広さはある。古い家だから、防犯面で不安は残るが、叔父さんが近所に住んでいるし、警備会社にも加入しよう。何より、グラウンドまでは徒歩三分の距離だ」

 大井が腕を組み、真剣な表情になった。

 「実質、村田の実家が俺たちゼルメイトのクラブハウスになるってわけか。家賃もかからないのは、当面の資金繰りを考えると非常に大きいな」

 鬼頭と東は、不安ながらも決意の表情を見せてくれた。

 「食事や家事については、これもまたありがたいことに、私の叔父が担当してくれるそうだ」

 三人は驚いた表情で私を見る。

 「そんな村田コーチの叔父さんに悪いですよ」

 東が遠慮がちに言った。鬼頭もまた、申し訳なさそうな表情で頷いている。私は若干冷めたホットコーヒーを口に運び、三人に静かに笑いかけた。

 「昨日電話したら、『星一たちの熱意に心打たれた!私もできる限りのことはする!』って聞かなくて。それに私の叔父は何を隠そう、櫛田高校の調理科の先生として長年勤めていたんだ。だから特に料理に関してはプロ級の腕だ」

 「……なるほど。食費や光熱費はこちらで負担するとしても、日常的な食事の準備を叔父さんが担ってくれるというのは、このチームにとって非常に助かる。練習に集中できる環境としては、これ以上ないな」

 大井が素早く状況を整理した。

 私たちは、あの田舎の古い家が、私たちの「ゼロからの再出発」の本当の基点となることを改めて理解し、静かな決意を固めた。

 住居問題が解決したことで、私たちは練習の中身について話し合った。

 土のグラウンド、豪華な設備がない中での練習は、潤沢な資金力を生かして活動していたメートクのそれとは全く異なるものになる。

 「メートクでの練習は、タータントラックでのスピード練習が中心だった。だが、旧櫛田高校のグラウンドは土だ。スピード練習には不向きで、路面状態が天候に左右される」

 私は一拍置いて、続けた。

 「だが、同時にメリットもある。一つ目に衝撃吸収性が高いために、足への負担が少ないこと。二つ目に蹴る場所によって抵抗が変化するために、自然に体幹・足の安定筋が鍛えられることだ」

 特に足への負担が少ないというのは、怪我によって輝きを失っている現状の鬼頭にとっては好都合だった。

 「四月からの数か月は、走り込みとロード練習、体幹トレーニングが練習の中心となるだろう」

 大井が、地図を取り出した。

 「多気町、特に私たちの練習拠点は山間部だ。だから、起伏のあるロードコースは豊富だ。早朝はグラウンドでの基礎練習。日中は町の外周や起伏に富んだコースでのロング走や、体幹トレーニング。夜間はグラウンドでの補強と軽いジョグ。土のグラウンドと多気のロードこそで君たちの"脚"を作り直す」

 鬼頭が真剣な眼差しで質問した。

 「スピード練習は、どうするんですか?」

 「当面は、土の上でのウィンドスプリントと、ロードでのペース走で対応する。この環境で培った"脚"を持って、スピードの出るタータントラックに戻った時、君たちの走りは別次元のものになる」

 東は、強い決意を込めて言った。

 「承知しました。私は、ここでもう一段階上の強さを手に入れます」

 誰もが、この不便な環境こそが、自分たちを強くすると信じている。この練習方法には、金はかからない。ただ、選手とコーチの泥臭い努力だけが、このチームを前に進めるのだ。

 議論がひと段落ついたころ、外の窓から差し込む午後の光が、冷めきったコーヒーの表面を鈍く照らしていた。

 店内のBGMが静かに流れる中で、私たちはそれぞれにカップを持ち上げる。

 このファミレスで決めた「ゼルメイト」という名前。あのとき掲げた"再出発"の言葉が、ようやく現実を伴い始めていた。

 「……村田コーチ」

 東がゆっくりと声を上げた。

 「私たち、これからどこを目指すんでしょうか」

 その問いは、全員の胸にあった。

 目の前のことを必死で積み上げてきたが、誰も"その先"をまだ口にしていなかった。

 私はしばらく黙っていた。

 窓の外では、春の陽気に包まれた幹線道路を、何台もの車が勢いよく通過していく。

 その光景を見ながら、私はゆっくりと口を開いた。

 「――世界だ」

 東がはっと顔を上げ、鬼頭と大井も私を見た。

 来年に開かれる世界陸上は名古屋で開かれる。自国・日本での開催ということもあって日本の陸上関係者は浮足立っている。

 「最終的な目標は、来年の世界陸上で女子マラソンに二人とも出場すること。それがゼルメイトの第一の到達点だ」

 東は納得したような表情を見せる。彼女は結果は芳しくなかったものの、去年その舞台に立っている。そんな東と対照的な表情を見せたのは鬼頭だった。それもそのはず、彼女はフルマラソンを走ったことがない。去年走ったぎふ清流ハーフマラソンの二十一.〇九七五キロが彼女の人生で走った最長の距離だ。そんな二人を一瞥した後、私は言葉を続ける。

 「女子マラソンで世界陸上に出場するためには二つの道がある。一つ目はJMCシリーズの全期間を通じて高いレベルで安定した成績を残し、シリーズチャンピオンとなること。二つ目は選考競技会の中から一つを"勝負レース"と定め、そこで参加標準記録を突破した上で、その参加標準記録を達成した選手の中で一番目か二番目に良い記録を残すことだ」

 「東。君には三つの強みがある」

 カバンから紙の冊子を取り出す。それは残っている今までの東の走りの記録を細かくデータに示したものだ。

 「まず一つ目の強みは、体内時計の正確さだ。特にそれが顕著だったのが、世界陸上進出を決定的なものにした去年の名古屋ウィメンズマラソンだ。これがそのデータだ」

 そう言って、冊子をぺらぺらとめくり、目的のページを指し示す。

 「スタートからゴールまで、一キロ三分二十五秒を若干切るくらいのペースをほとんどズレなくきれいに刻んでいる」

 「それにびっくりしたのがこのレースで一番良かった五キロのラップタイムと、一番悪かったラップタイムを比較した時だ。比較してみると僅か五秒の差しかなかった。これは中々類を見ない稀有な才能だ」

 一定のペースで走ることで、心肺機能や筋肉への負荷を一定に保ち、無駄なエネルギー消費を防げ、乳酸の蓄積も抑えることができる。マラソンにおいてペースを刻むのがうまいという特徴は大きな利点となりうるのだ。

 「二つ目の強みは、走れば走るほど調子が上がることだ。去年の名古屋ウィメンズマラソンは四月に長野マラソン、八月に北海道マラソン、一月に大阪国際女子マラソンを走った後だった。しかも、どのレースも棄権することなく、しっかりと好走している。これだけタフな選手は長い歴史のある陸上界でもそうそういないだろう」

 マラソン選手は年間で一~二回しか走らないのが一般的だ。

 「そんな二つ目の特徴を支えるのが、三つ目の強みである怪我をしないところだ。これほどタフなレースローテを組んでこれをしっかりとこなそうとすると、並大抵の選手は壊れてしまう。だが、君は壊れてしまうどころか逆にピンピンしている。陸上選手において一番必要な才能は速く走れることではなく、怪我をしない才能だ」

 彼女がBチームでくすぶっていた時、無茶な練習を隠れて行っていたことがあった。だが、そんな劣悪な環境に置かれても壊れなかったのは、驚きしかない。そして、怪我が決定打となって引退を決めた自分、大学時代の怪我が後を引いて現在まで好成績を残せていない鬼頭にとっては耳の痛い話だ。

 「あの、村田コーチ……」

 東が口を開いた。コーヒーカップをそっとテーブルに戻し、真剣な眼差しを私に向ける。

 「私が怪我をしないのは、ただ単に"幸運"なだけじゃないんでしょうか。それだけで、世界を目指すことの強みになるんでしょうか」

 その問いは謙遜にも聞こえたが、彼女の本質的な不安を突いていた。

 「もちろん、それだけじゃない」

 私はきっぱりと応じた。

 「君のタフさの理由は、このデータから分析できる。それは、君の走りのフォームにある。具体的に言えば、着地の時の衝撃の吸収の仕方が非常に優れているんだ」

 私は再び冊子をめくり、一枚の写真とグラフを指差した。それは東が走っている時の、ストライドとピッチ、そして地面反力――着地時に地面から足に返ってくる力――に関するデータだった。

 「このグラフを見てみろ。着地時に発生する地面からの反力、特にブレーキ部分でのピークが、他のトップランナーと比べて明らかに低い。そして、その衝撃がスムーズに次の推進力に変換されている」

 「これはどういうことかというと、一歩一歩で筋肉や関節にかかる負担が少ない、ということだ。一般的に速く走る選手ほど、地面を強く蹴るから、その反動で大きな衝撃が体に戻ってくる。だが君は、その衝撃を逃がすのがうまい。まるで、高性能なサスペンションが組み込まれた車みたいだ」

 私は、斜向かいの鬼頭に目をやった。彼女は無意識に、右脚をさすっている。ここまで黙っていた大井が口を開ける。

 「鬼頭の怪我は、これと真逆だな。お前は爆発的なスピードを持つがゆえに、着地時の衝撃が大きすぎる。その負担が蓄積して、結局、故障につながる。速さと怪我は、常に背中合わせの悩みなんだ」

 鬼頭は顔を上げ、静かに大井の話に聞き入っている。私が再び話し出す。

 「でも東、君のフォームは、スピードと耐久性を両立させている。これは持って生まれた才能と、これまでの正しいトレーニングの結晶だ」

 私は強調した。

 「だからこそ、君の『怪我をしない』という特徴は、『長く、高いレベルで安定したペースを刻める』という他の強みと結びつき、世界でも稀に見る強力な武器となる」

 「つまりだ、東」

 私は身を乗り出した。

 「君の戦い方は、先ほど挙げた二つの道の一つ目、『JMCシリーズの全期間を通じて高いレベルで安定した成績を残し、シリーズチャンピオンとなること』に、最適化されている。君は、一つのレースで爆発的な記録を狙うタイプではない。年間を通じて安定して上位に食い込み、ポイントを積み上げることで、代表の座を掴み取る。それが、君の最も確実で、最も強い道だ」

 東の目に、強い光が宿るのを見た。

 「はい、分かりました。私の戦い方、理解できました」

 彼女はゆっくりと頷き、口元に微かな笑みを浮かべた。

 「去年と同じローテを踏んで、JMCチャンピオンを目指そう。だから、次走は長野マラソンだな。ここへの調整はもう既に有賀監督としっかり進めていると思う。だから、四月に入っても引き続き、長野マラソンに向けての調整を行っていこう」

 次に私は、鬼頭を見た。彼女は息をのんだまま、次の言葉を待っている。

 「そして、鬼頭」

 「君にも東と同様、三つの強みがある。その強みはマラソンの世界に足を踏み入れるにあたって大きなメリットとなりうる」

 私は彼女が持っている才能について語り始める。

 「一つ目はネガティブスプリットを刻むことができるということだ」

 「ネガティブスプリットですか?」

 鬼頭がわずかに首を傾げた。フルマラソン未経験の彼女には、少し専門的な言葉だったかもしれない。

 「そうだ。ネガティブスプリットというのは、レース後半を前半よりも速いペースで走ることだ。君は去年のぎふ清流ハーフマラソンで、ネガティブスプリットを達成している。前半の十キロまでのペースが平均三分三十三秒、後半の十一.〇九七五キロは三分二十六秒だ。高校時代の君のことを考えると、決して良いタイムとは言えないが、前半と後半のペース差が七秒もあるのは驚きだ」

 私は再び冊子をめくり、鬼頭のハーフマラソンのラップデータを示した。

 「これは何を意味するか。まず、君は後半に余力を残す、冷静なレース運びができるということ。そして何より、極限まで追い込まれた状態でもスピードを上げられる心肺機能と脚を持っているということだ」

 「マラソンは後半四十キロ以降が本当の勝負だ。『マラソンは四十二.一九五キロ走るうちの最後の五キロだ』と言われるくらい、後半の落ち込みを防ぎ、どれだけペースを上げられるかが鍵になる。君の持つ後半の爆発力は、鍛えることでフルマラソンにおいて決定的な武器になりうるはずだ」

 鬼頭の目は、そのデータに釘付けになっていた。彼女は、自分の知らなかった強みがあること。そしてその強みがマラソンという未知の領域でも活かせるのだと知り、わずかな驚きと期待を滲ませた。

 「二つ目が登り坂に強いことだ。特にそれが顕著なのが鬼頭清美の名を全国に轟かせることになった、三年生次の全国高等学校駅伝競走大会だ」

 全国高等学校駅伝競走大会で鬼頭が記録したラップタイムと、彼女が走った一区の高低差を示すグラフが記されたページを開く。

 「女子の都大路の一区は前半は緩やかな上り坂で、中間点を過ぎると牙を剥く。そして、ラスト一キロは激しさを増して"激坂"の様相を呈す。高低差約四十五メートルを六キロのうちに走るこのコースは、箱根の五区ほどではないが、高校生が走るにはかなりハードだ」

 「普通、坂がきつくなってくる五キロまでのうちに早いペースを刻み、六キロは何とか踏ん張って走り切るのが定石だが、君は違った。前半・後半でペースがほとんど変わらないどころか、ラスト一キロを三分七秒で刻み、区間新記録を樹立している。これは登り坂に強くなければ、成せない所業だ」

 鬼頭の過去の実績には目を見張るものがある。だからこそ、結果を残せていない現状が歯がゆかった。

 「三つ目は圧倒的なスピードだ」

 私は、鬼頭の最も分かりやすい、そして最大の武器について語り始めた。

 「君の高校時代の一千五百メートル、三千メートル、五千メートルのタイムは、そのままシニアのトップレベルでも戦えるものだった。特に五千メートルの自己ベストは、日本の女子長距離界の歴史を見ても、高校生としては突出している。これは、天性の心肺機能と、それを爆発的な推進力に変える脚力を持っている証拠だ」

 鬼頭の表情が引き締まった。怪我で苦しんだ彼女にとって、この「圧倒的なスピード」は諸刃の剣であり、同時に彼女のプライドの源であると推測できる。

 「マラソンは持久力がすべてだと思われがちだが、最終的にはスピードの土台の上に成り立っている。そして、世界陸上に出場するために必要な参加標準記録を狙うには、この絶対的なスピードが不可欠だ」

 私は、再び東の戦い方と対比させるように、鬼頭の戦略を明確にした。

 「東の戦い方が『年間を通じた安定性』に最適化されているのに対し、君の戦い方は、東のそれとは全く異なる」

 「東がポイントを『積み上げる』のに対し、君は一発のレースに全てを懸け、『爆発させる』。君はタフなレースローテを組むべきではない。狙うべきは君のスピードを最大限に活かせ、東のようなローテと比べて、怪我を一度味わった足にも比較的負担が少ない、一発の"勝負レース"。そこで参加標準記録を突破する」

 一発の"勝負レース"。それは初のフルマラソンで、参加標準記録を突破し、その上、参加標準記録を残した選手の中で一番か二番目に良いタイムを記録することを意味する。足にいつ再発するかわからない爆弾を抱えている彼女にとって、最善の計画だと思うが、あまりに無茶な計画でもある。しかし、私は鬼頭ならばやってくれるだろうという理由のない自信がある。鬼頭は、ゴクリと唾を飲んだ。彼女の顔には、フルマラソンへの不安よりも、己の才能を爆発させるチャンスへの渇望が見て取れた。そんな鬼頭を一瞥して話を続ける。

 「女子の選考競技会には三つのレースがある。一月下旬に開催される大阪国際女子マラソン。三月上旬に開催される東京マラソン。東京マラソンの次週に開催される名古屋ウィメンズマラソンだ」

 「鬼頭。君の"勝負レース"は名古屋ウィメンズマラソンに設定したい。これには理由がある」

 私の言葉を真剣に聞くためか鬼頭は組んだ手をテーブルに乗せ、若干ではあるものの身を乗り出している。

 「まずはそれぞれのレース特徴だ。まず大阪国際女子マラソン。アップダウンが多く、風向きの影響を受けやすい三つの中で最もタフでテクニカルなレースだ。このコースが向いているランナーは坂を利用してペースを作れるランナーやコースに乱されずにペースを刻めるランナー。そして、一番向いているランナーは駆け引きに強い"レース巧者"だ」

 「マラソンの経験が少ないランナーが挑むには些か難しすぎる。それに、アップダウンが多いということはその分タイムが出にくいコースということだ。だから、大阪国際女子マラソンへの出走はやめておいた方がいい」

 若い割にはレース経験が豊富で、尚且つ体内時計が天才的なタフなランナーである東はこのコースに耐え抜ける。だが、坂には強いものの、レース経験がない鬼頭が挑むにはあまりに困難を極めるだろうと想像できる。

 「次に東京マラソン。序盤の下り以降、フィニッシュ地点まで大きな上り坂はほとんどなく、ほぼ平坦なコースが続く"高速コース"の様相を呈する。三つの中で最も記録が出やすいレースといえるだろう。だが、このコースを勧めたくない」

 疑問が浮かぶ鬼頭を横目に話を続ける。

 「このレースを"高速レース"たらしめている序盤のハイペースな下りは、爆発的なスピードを持つがゆえに、着地衝撃が大きい君の脚には、想像以上に負担をかける可能性がある。最悪の場合、レースの序盤で足に違和感を抱えたまま走ることとなる」

 「そして、もう一つの理由がレース経験だ」

 私は言葉に力を込めた。

 「マラソンはスピードとスタミナが一番ある選手が優勝できる生半可な競技じゃない。その日の天候やレース展開、はたまた運まで絡む複合的な競技だ。そんな中の一要素にレース経験の量があると思う。レース経験があるランナーは巧みにレースを組み立てることができる。焦って仕掛けたり、いつの間にか届かない位置まで先頭が逃げ切っているといった致命的な状態には持ち込ませない。そのことをいったん念頭においてほしい」

 鬼頭は突然マラソンのいろはを語り出した私を不思議な表情で見る。

 「そして最後に名古屋ウィメンズマラソンだ。コース全体の高低差は二十メートル以内と、比較的アップダウンが少なく、急坂もない。そして、過去の結果を見ると初マラソンの選手やハーフ上がりの選手が好成績を残すという実績もある」

 「東京マラソンと比べて極端な高低差がない分、君の脚への負担は最小限に抑えられるし、大阪国際女子マラソンのように”レース巧者”である必要はそこまでない。このレースを選ぶのが君に一番適した選択肢だと私は思う。」 

 「そして話は変わるが、来秋の世界陸上は名古屋で開催される。そして、マラソンコースはまだ公表されていないものの、名古屋ウィメンズマラソンとまるっきし同じとは言えないかもしれないが、かなり共通する部分はあるコースであると考えられる。」

 私が語った先ほどの話に鬼頭は納得したような表情を見せる。

 「もちろん世界陸上に進出するのが第一のゴールだが、最後のゴールではない。最後のゴールはその舞台で一つでも上の順位を獲得することだ。そのためにも、一度共通するコースを走っておくことは有利に働くだろう。特にマラソン二度目となるランナーには。」 

 私はそう言い切ると、鬼頭の方へ顔を向け、返事を待った。数秒の静寂がテーブルを包んだ後、鬼頭が口を開ける。

 「……分かりました。名古屋ウィメンズマラソンで、全てを爆発させます。」

 鬼頭の目に迷いはなかった。

 テーブルを挟んで、東と鬼頭が目を合わせた。

 東は『年間を通じた安定性』でポイントを積み上げる。鬼頭は『一発の爆発力』で代表権を一気に獲得する。

 全く異なる才能と戦略を持つ二人のライバルが、しかし今、「世界」という同じ目標を掲げて、深く頷き合った。

 私は、冷めきったコーヒーを一口飲んだ。苦かったが、その苦味の先に、新しい戦いの予感があった。

「よし。では、具体的なトレーニングプランと、今後のレーススケジュールについて話し合うぞ。」

 私は再びカバンを手探り、東と鬼頭、それぞれに最適化された、厚いトレーニング計画書を取り出した。

 「鬼頭。君の練習で最も重要となるのは、耐久力の向上と、フォームの微修正だ。東の練習量が『量』に重点を置くのに対し、君の練習は『質』と『リカバリー』が鍵になる。」

 私がまず指し示したのは、鬼頭のトレーニング計画書に書かれた、ある項目だった。

 「これから、君はもちろん東と一緒に走るメニューもあるが、多くの部分で東とは全く違うメニューをこなしてもらう。特に取り組むのは、水泳とウェイトトレーニングだ。」

 鬼頭は驚いたように目を見開いた。

 「君の爆発的なスピードを生む筋力は、同時に着地衝撃の大きさとなって脚に跳ね返ってくる。だから、走る量をいきなり増やすのではなく、水泳のような非荷重のトレーニングで、心肺機能と全身の持久力を高める。これは脚に負担をかけずに、フルマラソンを走り切るための土台作りだ。」

 「そして、ウェイトトレーニング。これは爆発力を削ることなく、むしろ強化しつつ、衝撃を吸収し、耐えるためのインナーマッスルと体幹を鍛え直す。特に、股関節周りと足底の小さな筋肉の強化に時間をかける。君の『高性能なサスペンション』を、外側からではなく、内側から組み直すイメージだ。」

 大井が口を開いた。

「鬼頭、お前はすぐにでも走り込みたいだろうが、俺たちのゴールは世界陸上だ。来年の三月に最高の形で爆発させるために、今は我慢して土台を固める。それが、お前の一番の近道だ。」

 鬼頭は、まだ少し戸惑いの表情を見せながらも、真剣に計画書に目を落とした。

「水泳とウェイトトレーニング。はい、分かりました。速く走るための、我慢ですね。」

 私は頷いた。

 「そして東。君のメニューは、これまで通り『走り込む』ことに重点を置く。特に、ロング走の反復だ。君の驚異的な安定性をさらに磨き上げ、疲労が蓄積した状態でも正確なペースを刻めるようにする。それが、JMCシリーズのポイント争いで他を圧倒するための武器となる。」

 東は、自分の計画書を手に、決意を新たにした表情で頷いた。

 「はい。JMCシリーズチャンピオンに向けて、自分の強みを最大限に活かせるトレーニングを積み上げます。」

 「二人の道のりは全く違う。だが、お互いに違う強みを認め合い、切磋琢磨することで、ゼルメイトは強くなる。」

 私は、二人にトレーニング計画書を手渡し、そして付け加えた。

「これは、世界への切符を手に入れるための、最初の一歩だ。ここから、新しい戦いが始まる。」

 ゼルメイトの改めての出発は、今、このファミレスの一角で、明確な現実を伴って始まるのだという実感が湧くと同時に、私の胸の中にふと冷たいものがよぎる。

 陸上を愛せていない自分が陸上に対して情熱を注ぐ三人を抱えて、この無謀な道を突き進んでよいのかという疑念だ。

 鬼頭は近年、伸び悩んでいるものの過去の実績を鑑みると可能性の塊と言えるランナー。東は日の丸を背負った圧倒的な実績を持つ国内有数の有力ランナー。大井は”メートク・クラブチーム”へのコーチ打診を受けた将来を嘱望されている未来ある指導者だ。

 そしてなにより、この三人には並々ならぬ陸上に対する情熱がある。

 東と大井に関しては約束された未来を投げ売ってまでこのいばらの道を共に突き進んでくれると、力強く宣言してくれた。

 鬼頭に関しては気圧されるほどの陸上に対する情熱を持っていることをスカウト活動の際、感じさせてくれた。その情熱は二人に負けないほどである。

 そんな三人とは違い、私は現役時代とも変わらず現在でも、陸上というものに対して非情に後ろ向きである。

 メートク時代で自分が指導者として、喜びを見出すことができる人間だということは分かった。だが、それは選手たちが立ち上がる姿から来る喜びや感動であって、陸上競技そのものへの愛情とは遠いものだった。

 彼女たち三人が持っている陸上に対する熱意が、眩しくて、同時に恐ろしい。その情熱こそが、彼女たちを世界へ連れていく原動力であるのだろうと、どこか他人事のように思えてしまう。

 私は陸上の美しさを語れない。

 それでも、俺は今、このチームの核心にいる。

 四月からは監督としてこのゼルメイトを引っ張っていくこととなるのだ。

 三人の情熱に応じることはきっとできない。

 だが、「クビ」を宣告されたある選手がこよなく愛する陸上を続けるためにも、自分を育てた環境が「非効率」と切り捨てられたある選手がもう一度世界陸上の舞台に立つためにも、ある指導者が理不尽にも選手を切り捨てた企業を見返すためにも指導には全力を注ぐ。

 そしてなによりその情熱を無碍にはしたくない。

 これは陸上に関わる人間としてではなく、村田星一という一人の人間の願望だ。

 そんな秘めたる思いを胸に閉じ込め、私は他愛ない会話へ路線変更したファミレスのテーブルの中に混じる――。


 三月三十一日。私たちは村田コーチの実家がある多気町へとやってきた。

 「ここが、今日から君たちの家だ」

 目の前に現れたのは、本当に「家」と呼ぶのがふさわしい、年季の入った木造平屋だった。メートクの豪華な寮を見慣れていた私にとっては、あまりにも簡素で、古びて見えた。だが、その古びた佇まいには、どこか人の暮らしの温もりが染み込んでいる。

 庭には丁寧に手入れされた植木と、簡易的な机といすがある。玄関の引き戸は木枠で、開けるたびに「ガラガラ」とどこか懐かしさを覚える音が鳴った。メートクの自動ドアの無機質な音とは対照的な、人の手が触れてきた証のような音だ。

 しかし、古びた外観とは裏腹に、家の中は掃き清められ、電気も水道も通っている。むしろ、誰かが私たちを迎えるために準備してくれたのだと分かる清潔さがあった。

 「鬼頭、ここが君の部屋だ」

 村田コーチに案内されたのは、六畳ほどの和室だった。壁には年季を感じさせるシミが点在しているが、畳は清潔に保たれ、真新しい布団が敷かれていた。窓からは、静かで起伏に富んだ山々が見える。これから毎日走ることになるであろう、あの山道が。

 ここでの生活には不安がないわけではない。防犯面での不安、田舎暮らしの不便さ。夜になれば街灯もまばらだろう。コンビニまでの距離も気になる。

 だが、この家がコーチの言うグラウンドまで徒歩三分の距離にあること。そして何より、この家には「家賃」という足枷がないこと。それらがデメリットを打ち消して余りある。メートクでは毎月の寮費が給料から天引きされていた。ここにはそれがない。この古びた一軒家が、私たちの再出発を可能にしてくれた。文字通りゼロからの基点だ。

 その夜から私たちの新しい生活が始まった。

 夕食の準備は、村田コーチの叔父さんが担当してくれた。叔父さんは張り切っている様子で、私たちのクラブハウスの寮母役を買って出てくれたのだという。

 食卓に並んだのは、豪勢で栄養バランスの取れた料理の数々だった。地元の野菜をふんだんに使い、魚は新鮮そのもの。何より、揚げ物一つとっても油っぽさがなく、プロの技が光っていた。私は思わず息を呑んだ。この料理の数々は、確かに「アスリートの身体を作る食事」だった。

 「わあ……すごい。いただきます!」

 礼が目を輝かせて言う。彼女の素直な反応に、叔父さんも嬉しそうに笑った。

 村田コーチ改め村田監督、大井コーチ改め大井ヘッドコーチは早速、叔父さんとカロリーやタンパク質の摂取量について話し込んでいる。私は無言で、山盛りのご飯を頬張った。

 これまでの生活を思い出した。メートクの寮の食事は栄養士が管理していたが、どこか画一的で、味気ないものだった。効率と管理が優先され、食べることの喜びは二の次だった。

 ここでは違う。私たちの練習量や体調に合わせて、きっと食事が変わっていくのだろう。この上質な食事が、私たちの肉体を作り直してくれるのだと思うと、ありがたい気持ちでいっぱいになった。

 「明日からは、水泳とウェイトトレーニングで、筋肉が悲鳴をあげるだろう。だから、今日はしっかり食べておけよ」

 叔父さんはそう言うと優しく笑った。その笑顔には、私たちを家族のように受け入れてくれる温かさがあった。

 食費や光熱費は私たちで負担するものの、このプロ級の腕を持つ叔父さんが担ってくれる食事の準備は、私たちが練習に集中できる、何物にも代えがたい環境だった。


 四月。ゼルメイトの一員として、私の本格的なメニューが始まった。

 礼が早朝のグラウンドでの基礎練習と、日中の起伏に富んだロードコースでのロング走に精を出している頃、私は櫛田高校に併設された二十五メートルプールでトレーニングをしていた。

 幸いにも設備に故障等は見られず、水道代を払うだけで、普通であれば何十万もかかるであろうプールトレーニングをこなすことができるのは嬉しい誤算だった。

 世間では温暖化が理由で春が短く、すぐに暑くなると騒ぎ立てるが、まだ四月の水の冷たさは身に染みる。そして、慣れ親しんだ名古屋よりも多気町は山間部のため、気温が若干ではあるものの低いのもプールの辛さに拍車をかけていた。

 プールに入った瞬間、全身が凍りつくような冷たさが襲う。だが、現状の私にとってプールトレーニングは最善の一手であると、村田監督から耳にタコができるほど聞かされた。それは走ることが好きすぎて、大学時代に走りすぎて疲労骨折をした経験のある私を安心させる意味もあったのだろう。

 水の中では、脚への負担がない。着地の衝撃がない。しかし、水は粘り強く抵抗する。全力で水を掻いても、私の爆発的なスピードは生まれない。陸上での「爆発」が「衝撃」となり私を苦しめたように、水の中では「我慢」が私を強くする。

 「速く走るための、我慢」

 小さく口に出してこのトレーニングが今の私にとって最善なのだと言い聞かせる。心肺機能は悲鳴を上げているが、脚には負担がない。これは、故障の爆弾を抱える私にとって、まさに最適化されたトレーニングなのだ。

 プールから上がると、次はウェイトトレーニング。

 村田監督は、股関節周りと足底の小さな筋肉の強化に時間をかけるよう指示した。私は鏡に映る自分の体を見つめる。メートク時代よりも、わずかに細くなった気がする。だが、それは悪いことではない。無駄な筋肉を削ぎ落とし、本当に必要な筋肉だけを残していく過程なのだ。私の爆発力は、この筋肉たちが生み出している。この筋力を削ることなく、むしろ強化し、着地時の衝撃を吸収するインナーマッスルを組み直す。

 「高性能なサスペンションを、内側から組み直す」

 村田監督の言葉を反芻しながら、私は監督が大金をはたいて購入した重いバーベルをゆっくりと持ち上げる。この地味な努力が、来年三月、名古屋のタータントラックの上で、世界陸上への切符という形で報われることを信じて。

 私は、新しい居場所で、全く新しい自分を再構築し始めている。礼とは違う道。それでも、二人で世界へ行く。その決意を胸に、私は今日の練習メニューへと向かった。

 水泳とウェイトトレーニングで土台を固める日々は続いたが、もちろん、走ることを完全にしないというわけではない。

 早朝、礼がグラウンドで基本的なドリルを行う隣で、私も軽めのジョグと、短い距離でのウィンドスプリントを繰り返した。土のグラウンドを蹴るたびに、足底の小さな筋肉が悲鳴を上げたが、それが鍛えられている証拠だと信じた。土の感触は、タータントラックとは全く違う。柔らかく、不安定で、しかし優しい。

 日中の多気町のロード練習は、私にとって初めての「多気の洗礼」だった。

 「よし、鬼頭。今日は東のペースメイクに合わせて、外周コースを十キロだ。ラスト五キロはペースを上げるぞ」

 大井ヘッドコーチが指示を出した。

 走り出す。多気町のロードは、メートクで走っていたタータントラックや都会の舗装路とはまるで違う。足元が不安定で、場所によって抵抗が変化する。アスファルトが途切れ、砂利道に変わる箇所もある。そして、すぐに緩やかな上り坂が始まった。

 「フッ、フッ」

 礼は一定の呼吸で、まるで平地を走るかのように上り坂を駆け上がっていく。その姿は、本当に精密機械のようだ。

 私は、高校時代に都大路の激坂で鍛えた登りの強さに自信があった。一気にペースを上げ、礼に並びかける。身体が自然と前に出る。これが私の走りだ。

 「清美、ペース速いよ!」

 礼は驚いた表情を見せたが、私は構わずに坂を上り切った。体が勝手に爆発的な推進力を生み出してしまう。この衝動的なスピードこそが、私の才能であり、故障の原因でもあった。

 しかし、坂を下り、平坦な道に出た途端、脚に違和感が走った。

 「っ……!」

 痛みではない。でも、いつもの嫌な張りだ。坂道での大きなストライドと着地衝撃が早くも脚に負担をかけていることを示していた。

 この張りは大学時代に負った右足首の疲労骨折後、いつの間にか自分の身に降り注いだ災難だった。この張りの影響で、メートク時代は満足に走ることができなかった。この張りが私自身の走りを奪い、メートクから「クビ」を宣言された一因だと言えるだろう。

 この忌々しい張りに若干の苦しみを覚えた私を一瞥することなく、礼は淡々と設定ペースを刻み続けている。私は歯を食いしばり、必死でその背中を追った。

 礼は、起伏に富んだコースで、淡々と精密機械のごとく、驚くほどの正確さでペースを刻んでいく。上りでも下りでも、平坦でも、彼女のピッチは変わらない。その姿は、まるで故障とは無縁の鉄の機械のようだ。

 「これが、私との違いか……」

 ここで求められているのは、四二.一九五キロを走り切るための「タフさ」。私にとって、それは礼の持つ「天賦の才能」であり、越えなければならない「壁」だった。


 四月下旬。礼は長野マラソンに出場した。

 礼と村田監督は長野の現地に赴いているため、私と大井ヘッドコーチは共同スペースであるリビングにあるテレビの前に集まり、レースを見守った。礼がMGCシリーズチャンピオンという目標に向けた、初戦だ。

 テレビ画面には、スタート地点に集まったランナーたちが映し出される。

 「円熟の三十四歳!二児の母が信濃路を駆けます!史上最強のママさんランナー!マツバ精工・楠智子!」

 「百八十二センチメートルの長身から繰り出される圧倒的なストライドが彼女の武器!走りの"巨人"!東亜製鉄川崎・高比良桃花!」

 「父はガーナ出身!その血がもたらす心肺機能とラストスパートの爆発力は圧倒的!瀬戸内紡織・大仁田アデレ!」

 アナウンサーがランナーの武器を一文にまとめた前口上で、次々と注目ランナーを紹介していく。そして、礼がカメラに抜かれる。

 「メートク新チーム・オルディアには加入せず、村田星一とタッグを組みました!前回の世界陸上日本代表、ゼルメイト・東礼!」

 その前口上には、意外な道を選んだという驚きの感情が込められているように思えた。やはりメートク内でも注目度が高かったにもかかわらず、オルディアには加入せず、新設されたチームに加入するという、言わばいばらの道を突き進んだ礼の姿は、このアナウンサーのように多くの陸上ファンに波紋を広げたようだった。

 だが、礼はそんなのどこ吹く風というように、今から走っていく長野市街の街並みを見据えていた。その表情には、この道を選んだことに対して後悔はないと、言葉なしにテレビの前の視聴者に伝えているようだった。

 「長野マラソンは前半で目立った三度の上り下りをこなした後、後半では目立った勾配がない平坦なコースとなる。高低差は約四十メートルあるものの、激しい登りは前半に集中している。東は前半は一キロ三分二十秒前後のペースで最初から突っ込んでいって、後半に一キロ三分二五秒前後のペースまで落として一位を守り抜く作戦だ」

 「MGCシリーズではグレードスリーに位置付けられているから、そこまで有力ランナーは参戦してこない。だから、東の一位はほとんど確実と言っていい。だが、MGCシリーズの評価基準は順位だけではなく、タイムも影響する。そのために東はこのレースにも全力をぶつける」

 大井ヘッドコーチがこのレースの概要と、礼が果たすべき使命を説明する。私はうんうんとうなづくと、いつの間にか長野マラソンの開始を知らせる号砲がテレビから流れた。

 スタート直後から、礼は落ち着いていた。インターネットで見られるラップタイムを確認すると、事前に設定していた通り、一キロ三分二〇秒前後のペースを、本当に寸分の狂いもなく刻み続けている。

 十キロ通過。礼はすでに先頭集団を形成している。

 二十キロ通過。礼の表情には余裕すら感じられる。

 そして礼は中間点を通過した。このころにはほぼ独走状態と言って良かった。走りのギアを若干落として一キロ三分二十三秒ほどのペースにするが、それでも後方の選手とは大きな差が開いている。

 「すごい……」

 私は思わず声を漏らした。礼の走りは、速い、というよりも「正確」なのだ。中間点、三十キロ、そして勝負所の四十キロを過ぎても、彼女のフォームは全く乱れない。そしてラップタイムも三分二十三秒前後をきっちりと刻み続ける。その走りには驚きを超えて恐怖すら感じる。

 人間がこんなに正確にペースを維持できるものなのか。まるで、体内にメトロノームが内蔵されているかのようだ。

 礼は最後の最後まで三分二十三秒前後のペースを刻み続ける粘りの走りを見せ、自己ベストには届かなかったものの、他のライバルたちと圧倒的な差をつける全体一位を獲得した。このレースに出走するには明らかに頭一つ抜けた実力を持っている。二位との差は、二分以上。圧勝だった。

 そして、インタビューを終えてひと段落した二人からグループ通話が掛かってきた。

 「よくやったな、礼。狙い通り、ほぼ設定ペースを維持できた。この安定性がポイント争いで効いてくるぞ」

 大井ヘッドコーチが開口一番、礼をねぎらう言葉をかける。

 「礼、お疲れ様。圧倒的だったね」

 私も大井ヘッドコーチに続くように言葉をかける。そして、その言葉を受けた礼は話し出す。

 「大井ヘッドコーチ、ありがとうございます。清美もね。次は北海道マラソンに向けて、さらにタフな練習を積みます」

 「これでゼルメイト初勝利だ。この勢いのまま、ローテに入ってるマラソン全部で好走を目指していくぞ」

 村田監督が総まとめの言葉を言うと、他愛もない話題に話は逸れていく。現地の気温のこと、宿の食事のこと、お土産の話。

 そんな話に入れず、私は考える。礼はマラソンを年間何回も走るという、異例のローテーションを当たり前のようにこなしていく。彼女の「怪我をしない」という才能が、本当に世界でも稀なものだと、この時痛感した。

 私の戦い方とは、全く違う。

 礼が「年間を通じた安定性」でポイントを積み上げる一方で、私は来年の「一発」に全てを懸けなければならない。

 彼女のレースを見て、私の心には焦りが募った。早く走り込みたい。早く、思い切りスピードを出したい。水泳とウェイトだけでは、本当に世界と戦える「脚」ができるのだろうか?

 この疑念を振り払うように、私は静かに拳を握りしめた。

 礼の勝利は、チームに確かな勢いをもたらした。だが、私の心には静かな焦燥を植え付けた。

 「怪我をしない」という天賦の才を持ち、精密機械のような安定性でポイントを積み上げていく東礼という選手の姿は、私の最大の武器である「爆発的なスピード」と、それに裏打ちされた「怪我のリスク」という悩ましい現実を、鏡のように突きつけてきた。

 「礼の戦い方は、年間を通じた安定性。私の戦い方は、一発の爆発力」

 村田監督の言葉が脳内で反芻される。頭では理解している。今の私にとって、水泳とウェイトトレーニングこそが、フルマラソンを走り抜くための「高性能なサスペンション」を内側から組み直す、唯一の道だと。

 しかし、身体は、そして心は、血が沸き立つような衝動を抑えられない。

 走りたい。土の上を、ロードを、風を切って思い切り疾走したい。だが、ここで無理をして走ってしまえば大学時代の二の舞となることは自明だ。しかし、風のように駆けたい気持ちで胸の中は充満していた。

 焦燥心から走りたい気持ちで溢れる野心と、ここで走らないことが何よりも全速で走れる近道だと冷静に考える理性。その二つが、私の心を激しく揺さぶり続けていた。

 窓の外では、多気町の山々が静かに夕日に染まり始めている。あの山道を、いつか思い切り疾走できる日が来るのだろうか。

 私は深く息を吸い込み、明日のプールトレーニングに思いを馳せた。冷たい水の中での「我慢」が、いつか灼熱のトラックでの「爆発」に変わると信じて。


 五月に入り、多気町は新緑の季節を迎えていた。

 私がプールから上がると、隣接するグラウンドからは、礼が土煙を上げながらロード練習へと向かう姿が見える。その背中が遠ざかるたびに、私は自分の選択が本当に正しいのか、自問自答を繰り返していた。

 冷たいプールの中で何時間も過ごし、地味なウェイトトレーニングを繰り返す日々。一方で、礼は毎日何十キロも走り込んでいる。このギャップが、私の心に小さな棘となって刺さり続けていた。

 ある日、ウェイトトレーニングを終えた私に、大井ヘッドコーチが声をかけた。

 「焦っているな、鬼頭」

 彼は私の表情を深く見透かしているようだった。

 「……はい。礼を見ていると、早く自分も同じように走って、脚を作り直さなきゃいけないんじゃないかと」

 私は正直な心情を吐露した。言葉にすると、その焦りがより鮮明になる。毎日、礼の走る姿を見るたびに、自分だけが置いていかれているような気がしていた。

 「気持ちはわかる。だが、思い出せ。お前の目標は、来年三月の名古屋ウィメンズマラソンで、世界陸上の切符を掴むことだ。来年の三月に最高の状態で爆発するために、今のこの地味なトレーニングは不可欠なんだ」

 大井ヘッドコーチは、私に一本の動画を見せた。それは、あるトップアスリートの練習風景だった。彼は膝に深刻な怪我を負った後、驚くほど地味で、非効率に見えるリハビリと基礎トレーニングを、何ヶ月も黙々と続けていた。華々しい疾走シーンは一切ない。ただ、淡々と、同じ動きを繰り返す姿だけが映っていた。

 「世界で戦う選手は、誰しもが我慢の時期を通る。お前が持つ『爆発的なスピード』は、天性の才能だ。それを削り取ってはいけない。今、やっているのは、その才能を活かすための耐久性という名の土台作りだ」

 彼は続けた。

 「お前のネガティブスプリットの強み、登り坂に強い才能は、フルマラソンにおいて後半の勝負どころで必ず活きる。だが、その強みを活かすには、四二.一九五キロの距離を耐え抜ける土台が絶対に必要なんだ。東のタフさは、お前の壁ではなく、お前の才能を活かすための目標だと考えろ」

 「目標……」

 私は、その言葉を反芻した。礼の安定性は、私が獲得すべき耐久力の象徴だ。彼女が積み重ねる「量」の練習は、私が「質」と「リカバリー」で追いかけるべき、フルマラソンの基準なのだ。

 彼女と同じ道を歩む必要はない。私には私の道がある。

 「分かりました。我慢します。速く走るための、我慢」

 私は改めて、バーベルの重みを感じながら、目の前のメニューに集中した。一歩一歩の着地で脚にかかる衝撃を吸収するための、内側の筋肉。それを、今日も一つ一つ、組み直していく。

 窓の外では、新緑の葉が風に揺れている。春が夏へと移り変わろうとしている。季節は進む。私も、前に進まなければ。


 七月に入ると、梅雨が明け、多気町にも本格的な夏が訪れ始めた。蝉の声が響き渡り、アスファルトからは陽炎が立ち上る。村田監督の指示で、私のロード練習の比重が少しずつ増え始めた。

 早朝のグラウンド練習では、礼とともに土の上を走る。土はタータンと違って足元が不安定だ。蹴る場所によって抵抗が変わるため、自然とバランスを取ろうと体幹と足の安定筋が鍛えられる。水泳とウェイトで培ったインナーマッスルが、土の上でさらに強化されていくのを感じた。

 一歩踏み出すたびに、足底の小さな筋肉が地面を掴む。これまで意識したこともなかった感覚だ。

 日中のロード練習は、私にとっての最大の試練だった。多気町の起伏に富んだコースは、単なるトレーニングコースではない。それは、礼の安定性と私の爆発力が試される、戦場だった。

 「今日のロング走は、外周コース二十キロだ。ペース設定は、礼に合わせて一キロ三分三十秒。鬼頭は、ラスト五キロでペースを上げるな。最後までこのペースを刻みきることが目標だ」

 大井ヘッドコーチの指示は、私の本能に逆らうものだった。私は、ついペースを上げてしまう。それは、高校時代から染み付いた「速く走る」という習慣であり、同時に、着地衝撃を増大させる原因でもあった。

 走り出す。礼は、まるで風景の一部であるかのように、無駄な動きなく、静かにロードを刻んでいく。上り坂でも、下り坂でも、彼女のペースは本当に微動だにしない。その走りには、無駄な力が一切入っていない。

 私も、懸命に礼の背中に食らいつく。水泳とウェイトで鍛えた心肺機能は、ロング走に必要なスタミナをしっかりと供給している。呼吸は苦しいが、以前のようにすぐに限界が来るわけではない。

 しかし、身体が熱くなり、息が上がってくると、私の脚は勝手にペースを上げようとする。特に登り坂では、体が爆発的な推進力を生み出してしまう衝動を抑えるのが難しかった。これが私の才能であり、同時に弱点でもあった。

 「鬼頭!ペースを意識しろ!」

 横から原付に乗る大井ヘッドコーチの声が飛ぶ。

 「っ……!」

 私は、歯を食いしばり、意識的にストライドを狭め、ピッチを刻むことに集中した。スピードを抑えることで、着地の衝撃を最小限に抑える。それは、私の最大の武器である「爆発力」を、自らの手で縛りつけるような苦しさだった。

 速く走るための我慢。そう頭では理解しているが、体はそれを拒んでいるような感覚だった。走りたい。もっと速く。この坂を一気に駆け上がりたい。しかし、それをしてしまえば、すべてが水の泡になる。

 二十キロを走り終えたとき、私は崩れ落ちた。礼は、涼しい顔でクールダウンのジョグへと向かう。自己ベストを更新したわけでもない、設定ペースを刻みきっただけの練習に、これほどの疲労を感じたのは初めてだった。

 精神的な疲労だ。自分の本能を押し殺し続ける苦しさ。

 「よくやった、鬼頭。お前は今日、ただ距離を走ったんじゃない。ペースをコントロールするという、フルマラソンで最も重要な技術を学んだんだ」

 大井ヘッドコーチは、私に冷たい水を渡し、穏やかに言った。

 「お前のスピードは、後半に爆発させるためにある。前半で使い切ってしまっては意味がない。多気の起伏のあるロードで、礼と同じペースを刻み切れたこと。それが、お前がフルマラソンの耐久性を身につけ始めている何よりの証拠だ」

 私は、冷たい水を飲み干し、礼の背中を見つめた。彼女の「タフさ」は、もはや恐怖ではなく、目指すべき指標に変わっていた。

 

 八月下旬。礼は、北海道マラソンに出場し、長野に続き、再び圧倒的な独走で勝利した。

 真夏のレースで、自己ベストには届かなかったものの、過酷なコンディションの中で、設定ペースをほぼ正確に刻みきった彼女の走りは、MGCシリーズチャンピオンへの道を確固たるものにした。テレビで見る彼女の走りは、灼熱の太陽の下でも、まるで涼しい秋の風の中を走っているかのように安定していた。

 「これで、来年のMGCシリーズへのポイントも大きくリードできた。東、次は大阪国際女子マラソンに向けて、走り込むぞ」

 村田監督の指示に、礼は迷いなく頷いた。彼女の年間を通じたタフなレースローテは、もはや常識外れと言ってよかったが、それを可能にするのが彼女の「怪我をしない」才能だ。

 一方、私のトレーニングは、この時期も着実に、そして慎重に続けられていた。ウェイトトレーニングはより実践的なものへと移行し、土台は固まりつつあった。バーベルを持ち上げる腕にも、以前より力強さが宿っている。

 そして、暑さが若干ではあるもの落ち着きつつある九月初旬。私たちは、村田監督の指示で、それぞれの目標に向けた真逆のメニューをこなしていた。

 礼のメニューは、「量」に重点が置かれていた。早朝から夕方まで、ひたすら走り込み、疲労が蓄積した状態でのペース走を繰り返す。彼女の目標は、疲労困憊の状態でも、正確なペースを刻む鉄の意志と、更なる耐久性の獲得だ。

 私のメニューは、「質」と「リカバリー」が鍵だった。疲労を過度に蓄積させないように、ロング走の距離は礼よりも短く設定されていた。しかし、週に一度、村田監督が「ネガティブスプリットの才能を磨く」と銘打った変則的なインターバルトレーニングが課された。

 それは、全力疾走の後、わざと設定ペースよりも遅いジョグを挟み、再び後半のペースを上げさせるというものだった。心拍数が上がりきった状態から、再び爆発的なスピードを引き出す訓練。疲労した状態からの「爆発」。これが、フルマラソンの後半に求められる力だ。

 「鬼頭、マラソンは後半だ。前半の『溜め』と後半の『爆発』のメリハリをつける。その才能は、お前が生まれ持っているものだ」

 大井ヘッドコーチはそう言う。

 練習後、私は礼がジョグする隣で、念入りにストレッチとアイシングを行った。礼の脚は、連日の走り込みで疲労しているはずなのに、驚くほどしなやかに見えた。私の脚は、ウェイトで鍛えた筋肉が、まだどこか固い。だが、それは悪いことではない。これから実戦を重ねるうちに、柔らかさも備わってくるはずだ。

 「清美のウェイト、すごいね。身体が引き締まってきた」

 礼が、私の体幹をちらりと見て言った。

 「ありがとう。礼のそのタフさが羨ましいよ。どれだけ走っても、壊れないんだから」

 私が思わず本音を漏らすと、礼は少し考えてから言った。

 「私はね、清美のスピードが羨ましい。爆発力だよ。私にはあれはない。だから、私は自分の強みで戦うしかない。清美も、自分の強みで戦えばいい。今は、その爆発力を活かすための準備期間なんだから」

 彼女の言葉は、私の中に残っていた最後の焦りを洗い流してくれた。礼と私。戦い方は全く異なる。しかし、お互いの強みを認め合い、刺激し合っている。このゼルメイトというチームは、二つの異なる才能が、一つの「世界」という目標に向かって、最高の形で最適化されていく場所なのだと、私は確信した。

 夕暮れの多気町は美しかった。山の稜線がオレンジ色に染まり、秋の虫の声が響く。この場所で、私は変わり始めている。

 そして、秋が深まるにつれて、私のトレーニングは次の段階へと移行した。

 「鬼頭、今日から水泳はなし。ウェイトトレーニングも比重を落として、引き続きのインターバル走と、鬼頭の走りに特化したドリルを行うぞ」

 村田監督は続ける。

 「耐久力の土台は固まりつつある。ここからは、その土台の上で、いかに衝撃を逃がす走り方を身につけるかが鍵だ」

 そのドリルは、これまで意識したこともない、着地時の衝撃吸収に特化したものだった。

 「足底の小さな筋肉で、着地を『優しく』掴むイメージだ。地面を強く蹴りすぎない。お前は坂道に強い。それは、坂道で『押し上げる』力が強いからだ。だが、平地ではその力を『前に流す』ことに集中しろ」

 これまでは、地面を強く蹴って爆発的な推進力を生み出すことだけを考えてきた。しかし、今の私は、地面からの反発力をいかにスムーズに推進力に変換するか、を意識する。

 最初は、もどかしかった。スピードを殺しているように感じた。まるで、自分の武器を封印されているような感覚。

 「こんな走り方で、私の爆発力は消えてしまうんじゃないですか……」

 私が不安を口にすると、村田監督は静かに答えた。

 「爆発力は消えない。君の持つ天性の心肺機能と脚力は、水泳とウェイトでさらに磨かれている。ただ、これまでの爆発力は『ガソリンを一気に燃やす』ようなものだった。これからは、『高性能エンジンで、燃費よく、持続的に加速する』ためのフォームを身につけるんだ」

 その言葉を信じて、私は淡々とドリルを繰り返した。地面を優しく掴む。力を前に流す。何百回、何千回と繰り返すうちに、それが身体に染み込んでいく。

 数週間後、地道なドリルと、叔父さんが作ってくれる栄養満点の食事のおかげで、私の身体には変化が現れ始めた。

 村田監督が取り出したデータは、その変化を明確に示していた。

 「これを見ろ、鬼頭」

 それは、インソール型圧力センサーから取られた、私が走っている時の地面反力に関する新しいグラフだった。

 「春の時点では、着地時のブレーキのピークが非常に高かった。地面を強く蹴りすぎることで、その衝撃が脚に跳ね返っていた証拠だ。だが、今のグラフはどうだ?」

 グラフのピークは、以前に比べて明らかに低く、なだらかになっていた。そして、その衝撃が推進力に変わる『プッシュ』のカーブが、より長く、スムーズに伸びている。まるで、激しい波が穏やかな波へと変わったかのようだ。

 「着地衝撃の吸収の仕方が上手になってきた。股関節周りと足底の筋肉が、うまくサスペンションとして機能し始めている証拠だ」

 大井ヘッドコーチが、横から口を開く。

 「俺から見ても、お前の走りは滑らかになった。以前は、力任せに走っているように見えたが、今は『効率的』だ。無駄な力が抜けている」

 この数値の変化は、私に大きな自信を与えてくれた。水泳とウェイトトレーニングという「我慢」が、無駄ではなかったことの証明だ。私の爆発力は温存され、むしろ、故障のリスクを最小限に抑えながら、マラソンという未知の領域に耐えうる「脚」に進化しつつあるのだ。

 私は、自分の脚を見つめた。この脚が、来年三月、私を名古屋のトラックへと連れて行ってくれる。

 私の「爆発」は、来年三月、名古屋で。それまでは、この地味で苦しい「我慢」の道を、一歩ずつ歩み続ける。


 十月。月初めに行われる簡易的な定例会を行うため、私たち四人は共同スペースであるリビングに集っていた。

 外は冷え込み始めている。リビングの窓からは、多気町の山々が紅葉し始めているのが見える。季節は確実に進んでいる。

 「礼。引き続き次走は来年一月の大阪国際女子マラソンとする。このレースをMGCシリーズチャンピオンに向けての決定的な一戦とするぞ」

 村田監督の言葉に、礼は静かに頷く。彼女はすでに年間を通じてポイントを積み上げ、大阪国際マラソンで日本人一位といった好成績を残せれば、MGCチャンピオンの座に輝くのは目前だと言って差し支えなかった。

 「そして、鬼頭」

 監督が私に目を向けた。その眼差しには、期待と厳しさが混在している。

 「お前の勝負レースは名古屋ウィメンズマラソンだ。だが、久しぶりのレースで、参加標準記録を狙うのはリスクが高すぎる。だから、一度、実力を試す必要がある」

 私は息を呑んだ。ついに、実戦の話が出た。

 「お前の真の勝負レースは、名古屋だ。だが、その前に、一つ通過点が必要だ。それは、再来月の十二月に開催される山陽女子ロードレースに設定したい」

 確かに私は去年のぎふ清流ハーフマラソン以降、大学時代の怪我がぶり返し、まともにレースに出走できなかった。ぶっつけ本番で、名古屋ウィメンズマラソンに出走すれば、約二年ぶりのレースとなる。レース勘が鈍っている状態で一発勝負に挑むのはあまりにリスキーだろう。

 私は計画書に目を落とす。そこには、十二月、ハーフマラソンの文字が記されていた。

 「このレースは、来年の名古屋ウィメンズマラソンへの試金石とする。狙うタイムは、東が去年の世界陸上代表を決定づけた、名古屋ウィメンズマラソンのハーフの通過タイム一時間十分四〇秒より早いタイムだ」

 礼のハーフマラソンの通過タイム。それは、私の持つハーフの自己ベストよりも遥かに速い。約二分も速い。

 「ここをクリアできれば、お前の耐久性は、フルマラソンで戦えるレベルに達したと判断できる。そして、何より」

 村田監督は、真剣な眼差しで私を見据えた。

 「これは、お前がメートクの呪縛を断ち切り、ゼルメイトの選手として世界を目指すための、最初の『爆発』だ。山陽女子ロードで、お前の持つスピードと、四月から培ってきた耐久力と、持ち前の爆発力を見せつけてやれ」

 久しぶりのレースで確かに不安はある。だが、それ以上に心臓の高鳴りを感じた。長い助走期間を経て、ようやく訪れた実戦の機会。走りたかった。ずっと、走りたかった。

 「……分かりました。山陽女子ロード、そこで一度、爆発させてみせます」

 その言葉は静かなリビングに確かな決意となって響いた。二人の世界への道は今、それぞれ異なるレースに向け、再び加速し始めた。


 十一月に入り、多気町の朝の空気は一段と冷え込み始めた。山間のグラウンドを包む霧は、私たちの目標が近づいていることを象徴しているようだった。

 息が白くなる。指先が冷たい。しかし、走り出せば身体はすぐに温まる。

 私と礼、二人のメニューは、それぞれの「勝負」に向けて、さらに特化したものへと加速していた。

 礼のトレーニングは、相変わらず「量」と「正確性」に重点が置かれていた。疲労困憊の状態でのロング走やペース走が繰り返され、まるで鉄の機械のように、一キロごとのラップタイムを正確に刻み続ける。

 「礼、さすがに今日の三十キロ走はきつかったでしょ?」

 練習後、クールダウンのジョグをしながら私が尋ねると、礼は肩で息をしながらも、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。

 「もちろんきついよ。でも、大阪の終盤でペースを落とさないためには、この疲労状態での粘りが必要なの。清美のウェイトトレーニングも、この前より重いの持ってたじゃない。お互い様よ」

 彼女の言葉には、私への気遣いと、自分自身の戦いへの確固たる自信が滲んでいた。

 一方、私のメニューは、山陽女子ロードレースのハーフマラソンに向け、爆発力と耐久性の融合がテーマとなっていた。基礎的な耐久力は水泳とウェイトで固めた。今は、その土台の上で、高校時代の「スピード」を取り戻す段階だ。

 いや、取り戻すだけではない。さらに進化させる。

 「鬼頭、今日のインターバルは、改めて着地衝撃を意識しろ。地面を強く蹴るな、前に流せ」

 村田監督と大井ヘッドコーチが見守る中、私はトラックを疾走した。心肺機能は、フルマラソンのためのスタミナを獲得している。そして、ドリルで微修正したフォームは、以前のような無駄な衝撃を生まず、推進力へと変換されているのが分かった。

 風を切る感覚。これだ。この感覚を、ずっと求めていた。

 「ラスト一本は三分二十秒切れるように追い込むぞ!」

 千メートルを既に九本走った私にとって、大井ヘッドコーチの言葉は酷なものだった。だが、今の私ならできる。そう強く思える。そんな思いを抱きながら、ラスト一本をこなすため、スタートラインに立つ。

 「ラスト四百メートル、上げろ!」

 大井ヘッドコーチがそう叫ぶ。体が爆発的なスピードを欲し、自然と加速する。しかし、以前のように勢いに任せて地面を強く蹴るのではなく、足底の小さな筋肉で地面を「掴み」、力を「流す」感覚。

 痛みではなく、全身の筋肉が効率よく連動する、新しい「爆発」だった。これが、私の新しい走りだ。

 「よし!三分十五秒だ!ベストラップ更新だ!」

 大井ヘッドコーチの歓声が響く。私はその場に倒れ込むことなく、膝に手をつき、呼吸を整えた。爆発力は消えていなかった。むしろ、耐久性という土台を得て、より鋭く、持続可能なものに進化していた。

 そして何よりうれしかったのが、このようなハードなトレーニングをしても、馴染みのあるあの忌々しい張りが現れなかったことだ。メートク時代、どんな練習をしても顔を出したあの張りと決別の時は近いのだと思うと喜びがこみ上げる。この現状は、ひとえに水泳とウエイトトレーニングを半年間みっちりとこなしてきた賜物だろう。メートク時代、どんな練習をしても顔を出したあの張りと決別の時は近いのだと思うと喜びがこみ上げる。

 「この感覚だ、鬼頭。これならハーフの目標タイムはクリアできる。このスピードを、後半まで維持するのが君の走りを左右する。山陽女子は、君の新しい脚と、冷静なレース運びを試す場だ。」

 喜びに隠れて浸る私に向かって、村田監督はそう言い放ち、水の入ったペットボトルを私に渡す。それを受け取ると封を開け、中身を徐々に流し込む。一息つくと暗くなってきている多気町の風景が目に入る。この環境が私を強くさせたのだと感慨深い感情になりそうになる。だが、まだ早い。感慨深くなるのは名古屋ウィメンズマラソンが終わってからでいい。そう気を引き締め、体を冷やさないためにクールダウンを始めた。

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