5.再起

 十二月中旬。山陽女子ロードレース当日。

 岡山の冬の朝は、思っていたよりも冷え込んでいた。

 宿泊するビジネスホテルの窓から見える空は薄い雲に覆われているが、時折差し込む陽光が、レース日和を約束しているようだった。

 村田監督が私に付き添い、この岡山の地に来ていた。礼は多気町で調整中、大井ヘッドコーチがそれを監督している。今日のこのレースは、私にとって、長い不調のトンネルから抜け出せるかどうかを試す、決定的な舞台だった。

「緊張しているか、鬼頭?」

 会場へ向かうタクシーの中、村田監督が尋ねた。

「はい。ですが、それ以上に楽しみです」

 私は窓の外を流れる岡山の街並みを見つめながら答えた。

「自分の新しい走りが、どこまで通用するのかを試したい」

 私の声は、不安よりも期待に満ちていたはずだ。

「いい顔だ」

 村田監督は静かに頷いた。

「何度も言ったが、目標は東の去年のハーフ通過タイム、一時間十分四十秒だ。前半は設定ペースを守り、後半の落ち込みを防げ。ネガティブスプリットを狙っていこう」

 ネガティブスプリット——前半よりも後半の方がペースを上げる走り方。

 かつての私には不可能だった走りだ。スピードに頼って前半で飛ばし、後半で失速する。それが、「都大路の鬼」と呼ばれた私の走り方だった。

 だが、今は違う。

 多気町で積み上げた耐久性。矯正されたフォーム。そして、「張り」という悪魔から解放された体。

 すべてが、この日のために準備されてきた。

 岡山県総合グラウンド陸上競技場。

 スタートラインに並んだ私は、深く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺を満たし、全身の細胞が目覚めていくのを感じる。

 周囲を見渡すと、有力選手たちが並んでいた。その中でも、ひときわ目を引くのが蒲生嵐子だった。

 大学時代の二年先輩。当時、無名だった彼女に完敗し、私の鼻っ柱は見事にへし折られた。あれ以来、私は「都大路の鬼」という虚像と、現実の自分との乖離に苦しみ続けてきた。

 だが、今日は違う。

 号砲が鳴り響いた。

 レースがスタートする。

 競技場を一周する間、私は先頭に立った。これは昔からの癖だ。深い理由はないが、強いて言えば集団の中で揉まれて転倒するリスクを下げたいというものだ。

 総合公園を駆ける間に、私は集団に飲み込まれていく。この公園を一周して公道に出るころには、先頭集団の後ろ側に位置していた。

 電話での作戦会議で大井ヘッドコーチが言った言葉が蘇る。

「中間点を過ぎるまでは、テレビの中継に映らないくらいの位置をキープしろ」

 その言葉を信じて、私はまばらかつ縦長となった先頭集団についていく。

 ほどなくして、旭川を架ける橋が迫ってくる。

 ここは若干の勾配になっている。私は坂に強い。それは自覚している。ここでスピードを出したい——そんな衝動が湧き上がる。

 だが、ここで先頭に立つような無茶な走りは、ネガティブスプリットを達成する今回の目標を果たせないだけではなく、嫌だけれども馴染みのある「張り」が現れる可能性が高い。

「ここはステイだ」

 そう自分に言い聞かせて、勾配区間に突入する。変わらず縦長の先頭集団の後方に位置する。

 この橋の途中にある五キロ地点で、手元の時計に目をやった。

 最初の五キロは十六分四十七秒。キロペースは三分二十秒ちょっとか。

 このペースは、私にとっては遅いと感じる。かつての私なら、焦りが先立ち、ここで仕掛けていただろう。しかし、

「前半で使い切るな。後半の爆発のために溜めろ」

 村田監督の言葉が、私の頭の中で反芻されていた。

 かなり離れている先頭に目をやる。先頭を突き走っているのは、この大会の注目ランナー・蒲生嵐子だった。

 彼女のペースは、推測するにキロ三分十秒を切るくらいか。

 彼女も私と同じように、実業団に入ってからは低迷している。このレースに再起をかけている。だが、もちろん負ける気はない。それどころか、勝つ気しかしない。

 大学時代のあの時、絶望の底にたたきつけられた時から数年の時を経て、やっと満足できるくらい走れるようになったのだ。

 私こそが、今回のレースで輝くのにふさわしい。

 本気でそう思っている。

 再び旭川を渡る橋に差し掛かる。

 気をそらすように先頭の方を見渡すと、相変わらず蒲生は先頭集団のペースメーカー役のように、全くペースを落とす気配がない。彼女もまた、このレースで何かを証明しようとしているのだろう。

 私の体は、このペースを「遅い」と感じながらも、一切の焦りを見せていなかった。

 多気町でのトレーニングで獲得した新しいフォームと耐久性が、私に冷静さを与えていた。以前の私なら、この遅いペースに苛立ち、衝動的に飛び出していただろう。そして、中盤で失速し、「張り」の痛みに苦しんでいたはずだ。

 だが、今は違う。

 足底が地面を「掴み」、爆発力を「流す」感覚——それは、膝や腰への無駄な衝撃を完全に吸収し、体幹から推進力へと変換する、効率の塊のような走りだ。

 私は集団の後ろ、風の影響を受けにくい位置をキープしながら、正確に呼吸を刻み続ける。

 村田監督の指示通り、今はまだ「前半で使い切らない」フェーズだ。集団内で風除けを利用し、後半のためのエネルギーを溜める。地面を強く蹴らず、「流す」感覚を維持できているか、常に意識する。

 先ほど公道に出てきた地点でちょうど十キロだ。

 再び手元の時計に目をやる。

 三十三分二十五秒。

 変わらずキロペース三分二十秒ほどで刻めている。非常に良い展開に持ち込めている。もう少し先に迎える中間点からペースを上げて、ネガティブスプリットを達成すれば、一位入賞は充分に可能だと確信できた。

 ふと、前方で走る蒲生に目をやる。

 ペースは落ちてキロ三分十五秒ほどか。

 彼女は大学時代、私にとって超えるべき絶対的な壁だった。鳴り物入りで入学して調子に乗っていた私の鼻っ柱を折ってくれたのは、彼女だった。

 当時、無名であった彼女の走りを見て、「無名でもこんなに速いのか」と驚愕したのは印象に残っている。

 しかし、あの頃の自分と今の自分は決定的に違う。

「都大路の鬼」と呼ばれた高校時代のスピード。水泳とウェイトで鍛え上げた耐久性。村田監督と大井ヘッドコーチが矯正した効率的なフォーム。

 私は静かに、しかし熱い決意を胸に秘めて、蒲生の背中を見つめた。

 中間点を過ぎた。

 いよいよ勝負所だ。

 集団のペースは僅かに上がったが、依然として私は余力を残している。

 電話での作戦会議で大井ヘッドコーチが言った「テレビの中継に映らないくらいの位置をキープ」は達成できた。ここからは、礼の去年のハーフ通過タイムを上回るペースで、集団を崩しにかかる。

(ここからが、私のレースだ)

 誰も気づかないほどわずかに、私は呼吸を深くした。

 足底が地面を掴む力を強め、推進力を一段階上げる。集団の後方からゆっくりと、しかし確実に前方の選手を射程距離に入れ始める。

 新幹線と在来線をくぐるためのアンダーパスに差し掛かるころには、先頭集団の中団に潜り込んでいた。

 私が得意とする上り坂が待ち構える。

 第一の仕掛けどころはここだと思い、ギアを上げる。

 拇指球から力を入れ、地面を深く捉えるという、地面を「掴む」ポイント。蹴り出さず、その力をそのまま体幹を通して前方の推進力へと変換するという、力を「流す」ポイント。

 この二点を意識して繰り出す加速は、以前のような「力任せの加速」とは全く異なる。

 それは、まるで坂道という名のターボチャージャーを得たように、効率的かつ静かに、私のスピードを一段階引き上げた。

 中団で先を伺おうと粘っていた選手たち——何とか耐え抜いていた選手たちをわき目に、私はすいすいと前に出ていく。

 そして、蒲生が引っ張っている集団の先団につく。

 この勢いのまま先頭に躍り出ようかとも考えたが、ここはいったんこの先頭についていって、一時的に体力を温存するべきだ。仕掛けどころは再びあるアンダーパスだ。

 そう判断し、私は蒲生の後ろにぴったりとつき、風よけとして利用させてもらう。

 十五キロと書かれた看板が見える。

 その横を通り過ぎる瞬間、手元の時計を垣間見る。

 四十九分二十秒。キロペース三分十秒と少し。

 目標のネガティブスプリットは、今のところ達成できている。

 このネガティブスプリットを維持しつつ、先頭の座を奪取すること。それこそが今の私に求められていることだろう。

 再び気を引き締めて、足の回転数、ストライドの大きさ、腕の振りなどに意識を向ける。

 六名ほどで形成されていた先頭集団は、この十五キロを過ぎたころから、一人また一人と脱落していく。

 私が仕掛けどころだと判断した二度目のアンダーパスを迎えるころには、私と蒲生、そしてもう一人だけになっていた。

 観客の多くは、この三人のうちの一人が一位に入賞するのだろうと思い、それぞれに名前を叫ぶ。

 やはり、「蒲生!」と叫ぶ観客が多いように思える。

 そんな下馬評を覆してやる。

 そう思い、再びギアを入れ直す。

 線路の高架部分を抜け、登り坂に差し込んだ瞬間。私は地面を「掴み」、力を「流す」意識で、登り坂をぐいぐいと登っていく。

 登り坂の中腹地点で蒲生と並ぶ。数秒拮抗した後、蒲生の前に立つ。

 だが、蒲生も一線級のランナー。先ほどの私のように、私の背後にぴったりとつく。もう一人のランナーはついていけないのか、ずるずると私と蒲生から離れていく。

 再び平坦な道に出る。

 私はペースを落とさなかった。いや、むしろ、背後につく蒲生の存在が、私の闘志をさらに燃え上がらせていた。

「このまま引き離す!」

 私の体は、これまでのレースの中で経験したことのないほど、軽快に動いていた。

 疲労感は当然ある。だが、大学・メートク時代に感じていたような「張り」は全く来ない。

 持久力という土台の上に、スピードという名のエンジンが、効率よく回り続けている感覚だ。

 先ほども通った交差点を右折する。

 すると、ほどなくして岡山駅が見えてきた。

 昨日村田監督と夕飯を食べに行った桃太郎像のある東口側は、地元・名古屋と比べると見劣りはするが、都会の様相を呈していた。

 しかし、今走っている西口側は、地方都市然とした景色が広がっている。

 右の方に目線をやると、新幹線が停車しているのが見える。よく目を凝らすと「博多」の文字が見える。左の方に目線をやると、昨日宿泊したビジネスホテルが目に入る。

 経費削減のため、メートク時代では泊まることのなかったビジネスホテルというのは、かえって新鮮だった。

 ふと、二つのことに気がついた。

 一つ目は、私自身の状態の驚くほどの良さだ。

 今までのレースでは「張り」が走りの邪魔をして、レースの終盤に差し掛かるころには、まともな思考力はなく、常に脳裏には「棄権」の二文字がちらついていた。そして実際、「棄権」の選択肢を取ったこともある。

 だが、今の私はどうだ。

 景色を視界に入れる余裕もあれば、ビジネスホテルの外観を認識し、名古屋と岡山の街並みを比較する思考力もある。これは、全力で出し切るレースの終盤ではありえないことだった。

 今、全身を支配しているのは、心地よい疲労感と、エネルギーが効率よく変換されているという確信だけだ。

 多気町の山間で、水泳とウェイトで積み上げた耐久性、そして矯正された「流す」フォームが、私の体を別次元のランナーに変貌させていた。

 これは痛みに耐える「我慢」の走りではない。

 これは「持続可能な」走りそのものだった。

 二つ目は、背後につくはずの蒲生との距離が、知らぬ間に開いていることだった。

 数分前までは蒲生の激しい息遣いが背後から響いていた。だが、私がわずかに右斜め後方を振り返ると、蒲生の姿は、風よけとして利用できる距離ではなくなっていた。

 その差は十メートルほどに開いていた。

 蒲生の表情を見ると、このレースを十五キロ以上引っ張ってきた弊害か、あごは上がり、苦しそうな表情をしている。

 彼女のペースは、私がアンダーパスで仕掛けた後のハイペースに、ついに耐えきれなくなったのだ。

 二十キロの看板が掲げられた地点で、再び私は背後を振り向いた。

 蒲生との差は、既に五十メートル近くに広がっていた。

 彼女は必死に腕を振っているが、そのフォームは崩れ、重心が定まっていないのが遠目にも分かった。それは、大学時代、私がスピードを失い、後ろの大学に追いつかれた時の、かつての私の姿のようだった。

「もう、大丈夫だ」

 私は、勝利を確信した。

 これまでのレースは、ライバルに勝つために「全力」を使い、その結果「痛み」に苛まれるという悪循環だった。

 しかし、今の走りは違う。

「効率」と「耐久性」がもたらした余裕が、私を勝利へと導いている。

 私は、もう振り返らなかった。

 ゴールである競技場へ向かう最後の道。

 沿道から「鬼頭! そのまま行け!」という観客の声が聞こえる。

 その声は、私の背中を押す力となった。

 私の目標は、単に勝つことではない。ネガティブスプリットを達成し、名古屋で戦えるタイムを出すことなのだ。

 競技場のゲートをくぐり、トラックに入った瞬間、爆発的な歓声が私を迎えた。

 目の前の時計が刻むタイムは、一時間七分後半だった。

 最後の四百メートル。

 私の足は、多気町のトラックで何度も繰り返した三分十五秒のインターバルの感覚を正確に再現した。

 地面を「掴み」、力を「流す」。

 力ではなく、技術と効率で——

 私はフィニッシュラインに飛び込んだ。

 タオルを持って私に向かってくる係員をいなし、フィニッシュラインの横に設置されているトラックタイマーシステムを見つめる。

 一時間八分二秒。

 目標としていた礼の去年の通過タイム・一時間十分四十秒を二分以上更新し、自己ベストを大幅に塗り替えた。

 私は茫然として立ち尽くした。

 村田監督が駆け寄ってくる。

「凄い、凄すぎるぞ、鬼頭!」

 監督の声は、普段の冷静さを失っていた。

「前半十キロは三十三分二十五秒だったのに対し、後半十一・〇九七五キロは三十四分三十七秒だ! ラップタイムは順番に、十六分四十七秒、十六分三十八秒、十五分五十五秒、十五分三十四秒、三分八秒だ! 見事なネガティブスプリットだ!」

 村田監督の興奮が伝わってくる。

 私は、疲労と達成感で震える体で、ゆっくりと顔を上げた。

「これで君は、名古屋ウィメンズマラソンという大舞台に、自信を持って立てる」

 監督は、私の肩に手を置いた。

「そして、この結果は、多気町の礼にも、最高のメッセージになっただろう」

 その言葉を満面の笑みで受け取った私は、その場を離れ、クールダウンのジョグを始めた。

 冷たい風が、汗で濡れた肌を優しく撫でる。

 この瞬間、私の心の中で、数年間続いた「絶望の時代」が完全に終わりを告げたのを感じた。

「都大路の鬼」と呼ばれたスピードは、もう痛みを伴う虚勢ではない。

 耐久性という名の土台を得て、持続可能な最強の武器へと生まれ変わったのだ。

 インタビューをそつなくこなした後、興奮冷めやらぬまま新幹線へと乗り込んだ。

 レースを終えて一番最初にしたかったことが、まだできていなかった。

 座席から立ち、デッキへと移動する。そしてスマホを取り出し、私は礼に電話をかけた。

「もしもし、清美。レース、見たよ」

 礼の声は、電話越しでも、興奮と喜びで弾んでいた。

「礼……」

「一時間八分二秒でしょ! 凄すぎるよ! あの二回目のアンダーパスでの加速……画面越しでも鳥肌が立った!」

 礼の言葉が、まるで機関銃のように続く。

「正直、清美がネガティブスプリットで優勝するなんて……四月の清美からは想像もつかなかった」

 その素直な言葉に、私は思わず笑みがこぼれた。

「今の私は、昔とは違うからね。基礎を固めたからこそ、あのスピードが生きた」

 私は、デッキの窓から流れる景色を見つめながら言った。

「次は礼の番だよ。大阪で『量と正確性』の成果を見せて」

「もちろん」

 礼の声には、静かな決意が込められていた。

「清美が最高の目標を作ってくれた。私のトレーニングは、まさに『大阪の終盤でペースを落とさないこと』に懸かってる」

 礼が一呼吸置いた。

「次は、私が清美を驚かせる番だ」

 その言葉に、私の胸が高鳴った。

「そして——」

 礼の声が、わずかに低くなった。

「名古屋では勝負だよ」

 私たちは短い時間だったが、お互いの健闘を称え合った。

 そして、三月・名古屋の舞台でぶつかり合うことを、ここで初めて確認し合った。

 電話を切った後、私は新幹線のデッキに立ち尽くした。

 窓の外を流れる景色は、冬の夕暮れに染まり始めていた。

 岡山から名古屋へ。そして、三月の名古屋ウィメンズマラソンへ。

 私の新しい物語は、今、確かに始まったのだ。


 一月三日。新年最初の定例会は、いつになく朗らかな空気に包まれていた。

 リビングの窓から差し込む冬の陽光が、テーブルに置かれたコーヒーカップを温かく照らしている。テレビでは箱根駅伝の中継が流れ、ランナーたちが凍てつく箱根路を駆け抜けていた。

 その穏やかな雰囲気の理由は明白だった。礼の大阪国際女子マラソンに向けた調整が順調なこと。そして何より、私が長い不調のトンネルから抜け出したことを、先月の山陽女子ロードレースで証明できたからだ。

「鬼頭」

 村田監督の落ち着いた声が、テレビの実況を遮った。

「先月のレースで、君のスピードは十分にあると確認できた。三月の名古屋ウィメンズマラソンまでは、ビルドアップ形式でのロング走や起伏走といったスタミナ練習を中心に組む」

 私は静かに頷いた。山陽女子での記録は大きな自信になったが、マラソンでそれを活かすには、土台となるスタミナが不可欠だ。スピードだけでは、四十二・一九五キロは走り切れない。

「これまでスピード練習の割合が多かったこと、そして君が持つ天性のスピード力。それらを活かすためにも、今月はとにかく走り込みだ」

 監督は一度言葉を区切り、私の目を真っ直ぐ見つめた。

「特に意識してほしいのは、脚が動かなくなってからのペース維持だ。三十五キロ以降、誰もが限界を迎える。その時、いかにフォームの崩れを最小限に抑えられるか。それがマラソンの勝負を決める」

 テレビに目をやると、箱根のランナーが懸命にタスキを繋いでいる。華やかな駅伝の舞台と、これから私が取り組む地道な走り込み。その対比が妙に胸に響いた。

「はい、承知しました。長い距離を走る中で、フォームと粘りを強化していきます」

「焦る必要はない。だが、その持ち前の勝負強さを、練習の段階から見せてくれ」

 村田監督の力強い眼差しに、私の胸は高鳴った。不調のトンネルを抜けた今、やるべきことはただ一つ。三月の名古屋で、この長い期間の努力を結実させることだ。

「それと——」

 村田監督が、珍しくわずかに口元を緩めた。その表情の変化に、礼も大井ヘッドコーチも、そして私も注目する。普段は表情を変えない監督が見せる微笑み。それは何か特別な知らせがある時の、彼なりの前触れだった。

「鬼頭の山陽女子ロードレースが終わった数日後、私のスマホに一件の連絡が来た」

 監督は言葉を区切り、私たちの反応を確かめるように視線を巡らせた。

「連絡主は、今サクラで監督をしている有賀監督だった」

「有賀監督?」

 大井ヘッドコーチが、驚きを隠せずに身を乗り出した。

「ねぎらいの言葉でもくれたのか?」

 村田監督は、静かに首を振った。

「いや、違う。内容は——ゼルメイトへの資金提供の打診だった」

 その言葉は、リビングに大きな衝撃を起こした。

 礼は目を見開き、大井ヘッドコーチは唖然として口を開けたまま固まった。私は一瞬、何が起きたのか理解できなかった。静寂が場を包む。箱根駅伝の実況だけが、まるで別世界のように響いている。

「資金提供って……一体どういうことだ?」

 大井ヘッドコーチが、ようやく絞り出すように尋ねた。

 村田監督は、冷めたコーヒーに口をつけ、その苦味を飲み下すように説明を始めた。

「有賀監督は、私たちの活動を以前から注目していたそうだ。だが、それだけではない」

 監督は言葉を選びながら続けた。

「監督の目には、君たちの活躍——特に鬼頭の復調と礼の安定性が、日本の陸上界に風穴を開ける可能性として映っているらしい。選手中心の新しいチーム運営の形。その先駆けとして、ゼルメイトを『モデルケース』として支援したいと」

「具体的な支援内容は?」

 礼が、静かに、しかし核心を突く質問をした。

「年間数百万規模の現金提供だ」

 大井ヘッドコーチが、にこやかに口を開いた。

「俺たちの資金も有限だからな。やっと資金提供までこぎつけられたのは感無量だぜ」

 万歳のポーズを取りかけた大井ヘッドコーチを横目に、村田監督は表情を引き締めた。

「ただし——有賀監督には一つ、譲れない条件があった」

 監督の声のトーンが、わずかに低くなった。

「それは、ゼルメイトのウェアの胸元に、小さくではあるが、サクラのロゴを入れることだ」

 大井ヘッドコーチが、顔色を変えた。

「サクラのロゴだと? それは実質、俺たちがサクラのサテライトチームになるということじゃないか!」

 村田監督は、コーヒーカップを静かにテーブルに置いた。

「有賀監督は、資金提供の正当性をサクラの役員会に示す必要がある。そして何より、日本の陸上界全体に対し、『サクラは古い慣習にとらわれず、新しい可能性を支援している』というメッセージを打ち出したいのだろう」

 監督は、窓の外に視線を移した。

「彼の言葉を借りるなら、『ゼルメイトの成功こそが、サクラの未来への投資である』と」

 礼が、戸惑いながらも冷静に尋ねた。

「そのロゴを入れることで、私たちの活動に具体的な制約は生まれるのでしょうか?」

「それはない」

 村田監督は即答した。

「有賀監督は、練習メニュー、レース選択、広報活動——すべてにおいてゼルメイトの完全な独立を保証すると約束してくれた。ロゴはあくまでロゴであり、資金提供の大義名分だ」

 大井ヘッドコーチは、深く息を吐いた。

「年間数百万の資金。それは世界を目指す上で絶対に欠かせない要素だ。独立性が保たれるのであれば、受け入れる価値は十分にある」

 村田監督は、最終的な決断を私たちに委ねるように、静かに見つめた。

 礼は、コーヒーカップをそっとテーブルに戻し、清々しい表情で答えた。

「私は有賀監督の意図も理解できます。私はそのロゴを背負って、大阪で走りたいです」

 私も、静かに頷いた。

「ロゴがユニフォームに入ったくらいで、私たちの走りは変わらない。少しでも資金が確保できるなら、それに越したことはないと思います」

 村田監督は、満足そうに頷いた。

「よし。じゃあこの話を受けることにしよう」

 私たちは、やっとスポンサー的存在を手に入れることができたのだ。

 気づけばテレビでは、箱根のランナーがゴールテープを切っていた。新しい年の始まりに、私たちもまた、新しいステージへと踏み出そうとしていた。


 一月下旬。礼が挑む大阪国際女子マラソンの日が来た。

 私と大井ヘッドコーチはリビングに集い、テレビ中継を見守っている。画面には、冬の大阪の街並みとスタートラインに整列するランナーたちが映し出されていた。

「女子陸上界の名伯楽・有賀監督のもとで鍛え上げられたスーパーエリート!名門の意地を懸けて挑みます!サクラ・千田佳奈!」

「この大阪国際女子マラソン、なんと四度目の参戦!百戦錬磨のベテランとして、若手には負けられません!メグロ・田原恵!」

「昨年の日本選手権一万メートルで二位入賞のトラック実力者がロードへ参戦!実力は折り紙付きだ!京阪神都市銀行・加賀華恋!」

 アナウンサーの興奮した声が響く。そして、礼が画面いっぱいに映し出された。

 胸元には、小さなサクラのロゴ。それは、私たちの新しい挑戦の証だった。

「長野、北海道に続いて今年度三回目のフルマラソン!その姿はまさに"走る労働者"!前回の世界陸上日本代表、ゼルメイト・東礼!」

 "走る労働者"。その言葉は、礼が日々のトレーニングで培ってきた「量」と「正確性」を端的に表現していた。派手さはない。だが、揺るぎない粘り強さがある。

 私は、テレビに映る礼の凛とした表情を見つめた。

 山陽女子ロードレースの後、礼は私に電話でこう言った。「次は私が清美を驚かせる番だ」と。

 私の走りが「爆発」ならば、礼の走りは「精密機械」だ。

 対照的な二人のランナー。そのトレーニングの成果が、この大阪の舞台で試されようとしていた。

 号砲が鳴り響き、レースがスタートした。

 序盤は外国人招待選手が牽引するハイペースで展開していく。その後ろに、ペースメーカーが引っ張る第二集団が形成された。

 礼は、その第二集団の真ん中——風よけを最大限に利用できる位置に落ち着いた。

 そのフォームは、私が何度も見てきた通り、一切の無駄がない。

「ペースメーカーの設定タイムはキロ三分二十秒。三十キロ地点でペースメーカーが外れるまでこのペースを維持し、そこからの一二・一九五キロを粘りの走りで押し切る作戦だ」

 大井ヘッドコーチが解説する。

「彼女の今日の目標は、長野マラソンと同じ。三十キロまでは先頭集団で待機し、後半から粘って、落とされていく選手を見送ることだ」

 確かに長野マラソンの走りは圧巻だった。記録も、グレートスリーのレースでは前代未聞の好記録。その走りができれば、相手がしっかり揃っているこの大阪国際女子マラソンでも優勝を狙える。

「礼は完璧ですね。まるでメトロノームみたいにピッチが正確」

 私は画面を見つめながら呟いた。

 山陽女子で自身がネガティブスプリットを達成した興奮が冷めやらぬ今、礼の「量と正確性」の走りが、私の目にはより一層鮮明に、そして恐ろしいほどに効率的に映った。

 五キロ通過。礼のタイムは十六分四十五秒。

 十キロ通過。礼のタイムは三十三分二十八秒。

 ペースメーカーは設定通り、ほとんどブレることなく集団を牽引している。それに付く形で走っている礼も、正確なペースを刻み続けている。

「この正確さが、礼の最大の武器だ」

 大井ヘッドコーチが言った。

「疲労が来た時、フォームが崩れることが一番のロスになる。礼のトレーニングは、疲労下でもフォームを維持し続けることに特化しているからな」

 礼の顔には、一切の焦りも乱れもない。

 ただひたすらに、与えられたペースとフォームを淡々と遂行する——まさに「走る労働者」の姿だった。胸元の小さなサクラのロゴは、彼女の揺るぎない決意の証のように見えた。

 大阪城を左手に望む十五キロ地点を過ぎたあたりから、第二集団にわずかな混乱が生じ始めた。

 今大会の注目ランナー・千田佳奈が、ペースメーカーから離れ、単独で先頭の外国人集団を追おうと試みたのだ。

「千田が動いたな。焦りが出たか」

 大井ヘッドコーチが声を上げる。

 集団が若干乱れる中、礼は動じなかった。彼女はペースメーカーの後ろにピタリとつき、千田が飛び出したことに反応しない。

「よし、礼は冷静だ」

 私は安堵した。私なら、ここで衝動的に千田について行っていたかもしれない。

 礼は、自分の決めた「量」と「正確性」を信じているのだと、改めて実感した。

 礼にとって、他のランナーの動きは関係ない。なぜなら、正確にタイムを刻み続けるのが彼女の持ち味であり、最大の強みだからだ。

 中間点通過。礼のタイムは一時間十分ちょうど。ペースメーカーの設定通り、完璧なペースだ。

 二十五キロ地点。田原恵が第二集団から大きく遅れ始めた。百戦錬磨のベテランといえども、このハイペースは過酷だ。

「田原もきついか。長距離は正直だな」

 大井ヘッドコーチが冷静に分析する。

 この時点で、先頭をひた走る千田佳奈は、すでにペースメーカーの集団から大きく先行していた。しかし、そのフォームにはわずかながら力みが感じられ、追い上げの焦りが透けて見えた。

「千田は少し急ぎすぎた。長居公園に戻ってくるまで逃げ切れるかどうかだな」

 大井ヘッドコーチが呟いた。

 そして、三十キロ地点。

 礼は変わらず、ペースメーカーの真後ろで通過した。タイムは一時間四十分五秒。

「よし!」

 私は思わず声を上げた。

 ペースメーカーの役目が終わり、二人の選手がコースを外れる。残るは、礼と京阪神都市銀行の加賀華恋、そして、はるか前を走る千田佳奈と数名の外国人選手。

 レースは、ここからが本当の始まりだ。

 加賀華恋が、一気にギアを上げた。力強いストライドで、千田を追うべく加速する。

「加賀が仕掛けたぞ。速いな!」

 大井ヘッドコーチが前のめりになる。

 しかし、礼は動じない。加速した加賀との距離が開き始めたが、礼のピッチは変わらない。

「鬼頭、見ていろ。礼の勝負は、ここからだ」

 大井ヘッドコーチが静かに言った。

 作戦通り、礼は三分二十秒をここまで刻み続けていたが、若干ピッチを下げ、三分二十秒を少し上回るくらいのペースまで落とした。

 これは失速などではない。ここからの粘りの走りを完遂するために、作戦的に落としたのだ。

 彼女のトレーニングの成果は、疲労下での「正確性」の維持。他の選手がペースを乱し始める中で、自分だけが設定されたタイムを刻み続けること——それこそが「走る労働者」の最大の武器なのだ。

 三十五キロ地点。

 千田佳奈のフォームが急に乱れた。加速の反動が、ゴールまで後十キロもないこの地点で襲いかかったのだ。

 そんな千田とは対照的に、礼は依然として正確無比なペースを刻み続ける。その表情は、苦しいはずなのに無表情。まるで、予めプログラムされた通りに動く機械のようだった。

 そして、三十八キロ地点。

 千田佳奈が急激に失速し、ついに礼の視界に入ってきた。

 礼は、わずかではあるがピッチを上げた。

「私は清美を驚かせる番だ」

 その言葉が、私の脳裏に響いた。礼の視線は、ただ前だけを捉えている。

 四十キロ地点。

 礼は、とうとう千田佳奈を抜き去った。千田は、礼についていけず、ずるずると後退していく。

 さらにその先には、加賀華恋。加賀もまた、無理な加速のつけが回り、ペースが落ちていた。

 礼は、一切の無駄な動作なく、加賀も抜き去る。彼女の顔には、この過酷な状況下にもかかわらず、まだ余裕さえ感じられた。

 数名の外国人選手はかなり前方をひた走っており、ここから追いつくのは困難だろう。しかし、現在礼は日本人一位だ。

 ここで日本人一位を獲得できれば、MGCシリーズチャンピオンの座は確定といってよいだろう。

 三分二十五秒のペースを維持したまま、礼は陸上競技場へ入った。

 トラックを半周。

 礼の背中には、もう誰もいない。

 礼は、日本人として一番目にフィニッシュテープを切った。

 電光掲示板に表示されたタイムは、二時間二十二分五秒。

「やった! 礼が優勝だ!」

 私は飛び上がった。

「礼は、完璧にやり遂げたな。量と正確性が、この大舞台で最高の成果を生み出した」

 大井ヘッドコーチが、静かに、しかし深い感動を込めて言った。

 テレビ画面には、ゴールラインを越えた後も、まるで疲れを知らないかのように、淡々とした表情を崩さない東礼の姿が映っていた。

 その姿は、私の「爆発」とは対照的な、揺るぎない粘り強さの勝利を物語っていた。

「これでMGCシリーズチャンピオンの座に輝くことは確実だ。もう礼は名古屋ウィメンズマラソンに出走する必要はなくなった」

 大井ヘッドコーチの言葉に、私は二つの感情を抱いた。

 一つは安堵だ。

 私はその名古屋ウィメンズマラソンで参加標準記録を出さなければならない。東礼という有力なライバルが出走しなければ、私自身の優勝の可能性が大きく高まる。

 安堵と共に、闘志が湧き上がった。礼の圧倒的な勝利を目の当たりにした今、私もまた、結果という形で自分の存在を証明する必要がある。名古屋で「爆発」を起こし、礼と肩を並べられるような存在へとランクアップしたい。

 二つ目は寂寥だ。

 山陽女子ロードレースの後、礼に電話した際、「名古屋では勝負だよ」という言葉が脳裏から離れない。

 あの時、礼の口調はいつも通り淡々としていたが、その言葉には、私との対決を望む意思が確かに込められていた。

 私の「爆発」と、礼の「精密機械」。タイプの異なる二人のランナーが、日本女子マラソンの主要な舞台で激突すること。それは、私自身、楽しみにしていた未来図の一つだった。

 私は、自分の中に湧いた安堵に対して、一瞬の自己嫌悪を感じた。

 本当は、礼がいても、自分の力で勝ちたかった。そして、礼の揺るぎない粘り強さを、真正面から打ち破る自分の「爆発」を、試してみたかったのだ。

 そんな二律背反な気持ちを抱えた私の前で、テレビ画面は勝利者インタビューへと切り替わった。

「放送席!放送席!今回の大阪国際女子マラソンで見事、日本人一位を獲得しましたゼルメイト・東礼選手です!」

 スタジアムが歓声で包まれる。インタビュアーがマイクを向ける。

「東選手、おめでとうございます!見事な優勝、そしてMGCシリーズチャンピオンの座を決定づける走りでした。今のお気持ちはいかがですか?」

 礼は、マイクに口を寄せ、芯のある声で答えた。

「ありがとうございます!今日は、自分が設定したペースを忠実に遂行することに集中しました。後半、他の選手がペースを落とす中でも、ブレずに走り切れたことが結果に繋がったと思います!」

 再びスタジアムは歓声に包まれる。

 その後も、礼はこのレースの走りについて投げられた質問を、そつなく返答していく。冷静で、的確で、それでいて謙虚な受け答え。それが礼らしかった。

 インタビュアーは、最後にこう尋ねた。

「今回のレースでMGCシリーズチャンピオンはほぼ確定し、世界陸上の舞台に立つことが決まりました。次走は名古屋ウィメンズマラソンと発表されていますが、やはり休んで今秋の世界陸上へ備える形でしょうか?」

 スタジアムの歓声がわずかに収まり、誰もが日本人トップランナーの次なる動向に注目した。

 大井ヘッドコーチが言った通り、礼が名古屋を欠場するのは当然の選択だ。私も、礼が「出ない」と公言するのを覚悟してテレビを見つめた。

 礼は、マイクを握り直し、少しだけ間を取った。

 その静寂が、彼女の言葉に重みを加える。

「名古屋ウィメンズマラソンは、予定通り出走します」

 スタジアムだけではなく、遠く離れた多気町のこの家でも、驚きの声が漏れた。

「それはなぜでしょうか!?」

 アナウンサーが驚いた様子で問いただす。

 MGCシリーズチャンピオンの座を確実にした今、コンディションを整え、世界陸上に備えるのが常識的な判断だ。国内のライバルたちを突き放した礼が、なぜリスクを冒してまで連戦を選ぶのか。

 礼は、動揺するインタビュアーを一瞥して答えた。

「……戦いたい相手がいるんです」

 そう端的に述べて、礼はカメラに向かって微かに口角を上げた。

「その選手の名前をお聞きしてもよいですか!?」

 アナウンサーは興奮気味に叫ぶ。

「チームメイトの鬼頭清美です」

 私の名前が、テレビから流れた瞬間、時間が止まったような感覚に陥った。

「仲間であり、ライバルである彼女は、天性の才能を持っています」

 礼の声は、いつも通り淡々としていた。だが、その言葉には確かな熱が込められていた。

「私のこの決断は、清美を試すという意味もあります」

 礼は一度言葉を区切り、カメラを真っ直ぐ見つめた。

「清美の『爆発』が、私を上回る瞬間を、間近で見てみたいんです」

 礼の静かな声が、まるで私の耳元で囁かれたかのように聞こえた。

 心臓が激しく脈打つ。手のひらに汗が滲む。

 そのままインタビューは終わり、テレビはこのレースのハイライトを放送し始めた。礼が千田を抜き去る瞬間、加賀を置き去りにする瞬間——その一つ一つが、礼の圧倒的な強さを物語っていた。

 私は、その場から立ち上がった。

 安堵も寂寥も、すべてが吹き飛んだ。

 私の中に残ったのは、最高のライバルと最高の舞台で戦えることへの、純粋な喜びと闘志だけだった。

「礼……!」

 私は、拳を強く握りしめた。

 礼の決断は、私が感じていた「礼がいない寂しさ」を、「正面からぶつかれる興奮」へと変えてくれた。

「鬼頭」

 大井ヘッドコーチが、高揚した表情で私を見た。彼の顔には、礼の決意に対する深い理解と、そして勝利への確信が浮かんでいた。

「最高の舞台と相手が揃ったぞ」

「はい!」

 私は力強く頷いた。

「私の『爆発』を、"仲間"の隣で試す……! こんな最高のチャンスはありません!」

 私の胸は、興奮で張り裂けそうだった。

 名古屋での目標は、もはや「世界陸上出場権獲得」だけではない。

 礼を打ち破り、名古屋で優勝すること——それが、新たな目標だ。

 村田監督が、静かに口を開いた。

「二人とも、最高のライバル関係だな」

 監督の言葉には、教え子たちへの信頼と、そして少しの誇りが込められていた。

「鬼頭。お前の『爆発』と、礼の『精密機械』。どちらが勝つか、俺も楽しみにしているぞ」

 テレビでは、礼が胸のサクラのロゴに手を当てている映像が流れていた。

 そのロゴは、私たちの新しい挑戦の証。そして今、それは私と礼を結ぶ、ライバルとしての絆の証にもなった。

「礼、待ってて」

 私は心の中で呟いた。

「名古屋で、私の本当の『爆発』を見せてあげる」

 窓の外では、冬の日差しが少しずつ強くなり始めていた。春はもうすぐそこまで来ている。

 そして、名古屋ウィメンズマラソンも——。

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