3.奔走

 十二月一日付で、メートク本社のホームページに一本のプレスリリースが掲載された。「来年四月以降のメートク女子陸上部に関して」――その簡潔なタイトルが、後に日本陸上界全体を揺るがす大きな波紋を呼ぶことになる。

 翌日の朝刊には、東海地方の地方紙だけでなく、全国紙の社会面にも大きく報じられた。「メートク女子陸上部、解散決定!」「名門チーム、新体制へ移行」の文字が躍った。

 創部から四半世紀。数多のトップアスリートを輩出してきた名門・メートク女子陸上部の突然の解散報道は、地域社会に、そして日本陸上界全体に衝撃を与えた。さらに、メートクの看板選手である東が「放出」されることにも、更なる衝撃が走った。

 メートク本社が公表した解散理由は「成績不振のため」だった。

 世間からのバッシングを恐れた本社が、「経費削減」という本当の理由を隠したのは明らかだった。確かにメートク女子陸上部はこの十年、日本の女子陸上部にとって最大の栄冠の一つとされるクイーンズ駅伝の優勝からは遠ざかっている。しかし、シード権はコンスタントに獲得しており、エースの東は去年、世界陸上にマラソン日本代表として選出されたばかりだ。

 「成績不振」を理由に大所帯のチームを突如解散し、小規模な新チームを立ち上げる――その不自然さに、世間は容易に真相を見抜いた。経費削減のための「リストラ」。あまりに簡素で不可解な点が複数浮かぶプレスリリースは、大きな波紋を広げた。昼のワイドショーは連日この話題を取り上げ、メートク・クラブチームに向けられる世間の目は、日に日に冷ややかなものになっていった。

 そして、この解散発表を機に、私たち『ゼルメイト』は、大手を振って新チーム立ち上げに動き出すことができた。

 メートクに吹く逆風は、私たちにとって追い風だ。今が、畳みかける時だった。

 大井が新チームに関する資料をまとめ、メールのやり取りといった雑務を担当する。そして、ネームバリューのある私が実際に企業へ赴いて直接交渉を行う――そういう形でスポンサー探しに奔走することとなった。

 高校時代に名を馳せた鬼頭、そして現在日本女子長距離界を牽引する東を擁するこのチーム。先日の会議では「スポンサー探しには時間がかかるだろう」と保険をかけてしまったが、小口かもしれないがきっとすぐにスポンサーが見つかると踏んでいた。

 だが、その甘い考えは一ヶ月もしないうちに打ち砕かれることとなった――。

 

 スポンサー候補との面談は、練習の合間を縫って連日スケジュールに組み込まれた。メートク女子陸上部のネームバリュー、鬼頭・東という実力あるランナーを擁しているという事実、腐ったメートクから抜け出す新チームというドラマ性。これらは、アポイントを取る上では強力な武器となった。どの企業も「話だけでも聞きましょう」と、快く応じてくれた。

 しかし、いざ面談のテーブルに着くと、どの企業も態度を豹変させた。好意的だった電話口とは打って変わって、驚くほど冷淡な反応が返ってくる。

「御社の理念、そして選手の熱意はよく分かります。ですが、東海圏の経済を牛耳るメートクさんでも切らざるを得ない現状を見てしまうと……」

 最初に交渉に訪れた企業・名岐交通では、メートクの解散理由についての憶測から、投資リスクを遠回しに指摘された。担当者の言葉は丁寧だったが、その奥に潜む拒絶の意志は明確だった。

「もちろん、東選手や鬼頭選手の実力は認めます。ですが、スポーツ部門への新規投資は、今は少しリスクが高いと判断せざるを得ません。特に、立ち上げ直後のチームでは……」

 次に訪れたナゴヤ総合では、立ち上げチーム特有の実績のなさと、メートクという大きな後ろ盾を失ったことによる不安定さを懸念された。応接室の重厚な革張りのソファが、私たちとの距離を物理的にも心理的にも示しているようだった。

「CSRの一環としてスポーツ支援は重要ですが、今は地域密着型の活動を重視しておりまして。既存の地元のスポーツイベントへの協賛で手一杯なのが現状でしてね」

 そして、多くの中小企業からは、予算的な制約と投資対効果が見えにくいという理由で断られた。小口でもいい、というこちらの要望にも、「小口でも継続は難しい」という返答が多かった。


 十二月の末。クリスマスムードも年末の賑わいも関係なく、私の手元に残ったのは、断りの電話とメールの記録だけだった。どれも返事は「お見送り」。

「ゼロか……」

 アポイントを取れた企業は優に二桁を超えていたにもかかわらず、スポンサー契約に結びついたものは、一つとしてなかった。

 年が明け、一月も中旬に差し掛かる頃には、いよいよ焦燥感が募り始めた。鬼頭と東には、メートクの施設が使えなくなる三月末までに、確かな未来を示してあげたかった。二人は私たち『ゼルメイト』に全てを賭けてくれた。その信頼に応えられないまま、路頭に迷わせるわけにはいかない。

 しかし、世間での数週間前までの"メートク・クラブチーム"に対する逆風は、いつの間にか止んでいた。まさに「ほとぼりが冷めた」という慣用句が当てはまる状況だった。それどころか、切り捨てられた選手を「ただの実力不足」だと吐き捨てる世間の一部の声は、なかなか心に来た。

 それに、練習場所に関する交渉も難航を極めていた。

 公営のグラウンドやスタジアムは、まとまった練習時間を確保することができない上に、使用料金も嵩むことは分かっていた。だから、母校の伝手をたどる道が真っ先に浮かんだ。そして、それが最終手段であることも自覚していた。

 私の高校・榊原高校、大井の高校・総武高校、そして私と大井の母校である京浜葉大学。それぞれに現地へ赴いて頭を下げ、頼み込んだ。早朝や夜遅くでもいい。選手の邪魔は絶対にしない。望むなら生徒への指導もする。そう誠実に申し出た。

 しかし、返答はどこも「難しい」の一点張りだった。

 榊原高校の恩師・坂井は、私を哀れむような目で見ながら、淡々と話し出した。

「メートクの解散は、お前たちだけの問題じゃないのは重々承知だ。だが、学校側としては、現役の生徒たちへの影響を考えると、実業団の元選手を受け入れるのは難しい。それに……」

 坂井は少し言い淀んでから続けた。

「大学時代からパッとしない鬼頭を見てしまうと、選手たちのモチベーション低下が考えられる……」

 私たちを思いやる姿勢は見せながらも、結局は選手たちへの影響を鑑みて拒否した。その言葉は、鬼頭の現状を容赦なく突きつけるものだった。

 京浜葉大学に至っては、もっと事務的だった。

「OB・OGの支援は可能な限り行いたいのですが、学内の施設利用は、事前のアプローチ不足により、今年度の予算とスケジュールでは組み込めません。ご理解ください」

 要するに、「いきなり来られても困る」という、冷たい突き放し方だった。

 母校の、恩師や関係者の「裏切り」にも似た対応は、私の心に深く突き刺さった。メートクという大きな傘を失った途端、私たちは一気に「リスク」や「厄介者」として扱われるようになったのだ。かつて「箱根のエース」として称賛された日々が、まるで幻だったかのように思えた。今の私には、何の価値もないのだろうか――そんな暗い考えが、頭の中で渦巻いた。

 練習資金については、先日の話し合い通り、自分たちの資産である程度は運営できる。その期間に実績を出せれば、スポンサーは後からでもついてくるだろう。だが、それを実現するためには、実力を蓄える練習拠点が必要不可欠だった。

 この手は使いたくなかったと思いつつも、最終手段中の最終手段を取るしかない現実に目を向けた。


 メートク女子陸上部の解散まであと一ヶ月を切った三月上旬。集合場所に指定した大曽根駅西口のロータリーにレンタルしてきた軽自動車を回す。助手席に大井が、後部座席に鬼頭と東が乗り込む。

 全員が乗り込んだのを確認して「じゃあ、出発します」と手短に声をかけると、早朝ということもあってか、車内は重い沈黙に包まれた。黒川ICから名古屋高速へ入ると、数分間包まれていた静寂を破るように、大井があくびを噛み殺しながら私に尋ねる。

「たまの休みに俺たちを連れ出して、今日はどこに連れてってくれるんだ?」

 朝早く起こされた腹いせか、少し皮肉めいた口調だ。いつもの大井らしい、軽妙な物言いだった。

「今から一時間半高速に乗って、三重県多気郡多気町へ行く」

 数ヶ月ぶりに乗る高速道路に若干の緊張を覚えながら答える。

 三重県多気郡多気町――三重県中部に位置する、伊勢茶と鮎の甘露煮が名産ののどかな町だ。人口は一万五千人ほど。東京育ちの大井はおそらく地図上でも指せないだろうし、鬼頭と東も訪れたことはないはずだ。

 大井は納得した表情でうなずくが、鬼頭と東は疑問が晴れない曇った表情に見えた。

 右手側には、冬の時期に鈴鹿おろしを吹き荒らす鈴鹿山脈。左手側には、三重県の人口の大半が集中する伊勢平野と、県民の台所を支える伊勢湾を望みながら、伊勢自動車道を南下していく。

 私の母校・榊原高校の最寄りの久居ICを過ぎていくと、望む景色にただでさえ多かった緑の割合がさらに増していく。松阪ICを過ぎた頃、一時間抱えていた疑問を晴らすように鬼頭が口を開いた。

「多気町って……お二人のどちらか、アテがあるんですか?」

 驚きの表情を見せた大井がその問いに答える。

「知らなかったのか、村田は多気町出身だ。だから、何かしらアテがあるんだろう」

 ルームミラー越しに後部座席の方に目をやると、鬼頭と東は驚きと納得が入り混じる表情を見せた。

「アテ、というよりは……」

 私は一呼吸置いて、ハンドルを握り直した。

「正直、この手は使いたくなかったんだが、メートクの解散が迫る今、他に道がなくなってしまった」

 軽自動車は伊勢自動車道を伊勢方面へ南下し、カーナビが多気勢和ICの出口を指示した。私はそれに従う。ここから先は、私の生まれ故郷だ。

「高校・大学の先生にも頭を下げたが、公的な場所はどこもダメだったのは伝えたよな。だから、頼れるのは公の目に晒されない、個人のツテしかない」

 鬼頭が不安げな声で尋ねた。

「そのツテというのは……具体的にどこなんです?」

「まあ、もう少しで着くから、そこについてから詳しいことは説明する」

 紀勢本線の踏切を超えると、山を切り開いた県道を道なりに進んでいく。車窓には日本の原風景といった様子で、数軒の民家と田んぼが広がる。そして目的地が目の前に迫り、私は徐行して道端に車を停止させ、皆に降りるよう促した。

「県立櫛田高校。現在は地域のコミュニティセンターとして細々と使用されている廃校だ」

 私は名古屋から一時間半かけて目指した目的地を指さして、そう告げる。大井は、その衝撃的な「アテ」に、言葉を失って助手席で目を丸くした。

「おい、村田。廃校って……冗談だろう?」

「冗談じゃない。数年前に閉校となって、現在はこの周辺の自治会が管理している。あのグラウンドは、今も草刈りこそされているが、普段は誰も使っていない。そして、私の叔父がその自治会の理事をしているんだ」

「公営グラウンドや大学の施設と違って、私たちを拒否する決定権を持つ人間は、自治会だけだ。そして、そこに私の親族がいる。私たちは今、このグラウンドを練習拠点として借りるための交渉に来た」

 元は校庭として使用されていたグラウンドに足を踏み入れる。春先特有の、冷たく湿った土の匂いが鼻を突いた。今使っているメートクの練習設備のように、高い走行性能を誇るタータントラックや、夜遅くまで練習ができるような照明設備といった豪華な設備はない。ただ草刈りだけされた、殺風景な土のグラウンドだ。ここでの練習は、地道な走り込みとロード練習を強いられると容易に想像できた。

「この手を使いたくなかったのは、正直、一流の環境とは程遠いからだ」

 私は鬼頭と東に向き直った。

「だが、現段階で誰にも邪魔されず、自分たちの力だけで、好きなだけ走れる場所はここしかない。今の私たちに残された唯一の練習環境だ」

 私の言葉に、鬼頭はしばらくグラウンドを見つめていたが、やがて目を閉じ、深く息を吸い込んだ。そして、力強く頷いた。東もまた、不安を押し殺すように、固く拳を握りしめていた。

「行こう。叔父に頭を下げて、何とかこの場所を確保してみせる。今は私たちのチームがここから始まることを祈るしかない」

 私は車のトランクから叔父へのお土産を取り出し、廃校のすぐそばにある家へ三人を引き連れて歩き出した。この地で、私たち『ゼルメイト』としての道が開けるか、全てが終わるか。全ては、叔父の判断にかかっている。

 アスファルトで舗装されていない懐かしい砂利道を数分進むと、叔父一人が住むにはいささか大きすぎる木造平屋建ての日本家屋にたどり着いた。奥には、自分が生まれ育った実家が見える。

 玄関前に立つと深く息を吐いて、インターフォンを押さずに施錠されていないスライド戸をガラガラと開ける。東京生まれ東京育ちの大井は、この田舎おなじみの風景を見て、信じられないという驚きの表情を見せた。

「叔父さん。星一です」

 そう呼びかけると、叔父は居間の奥からゆっくりと姿を現した。細身で背筋の伸びたその姿は、私が小学生の頃から全く変わっていないように見えたが、目尻に刻まれた深い皺や、前会ったときよりも白くなった頭髪を見ると、時の経過を実感させられる。叔父は若い頃、地域の消防団で活躍し、今も自治会の理事として地域をまとめている。厳格だが公平で、誰からも信頼される人物だ。その叔父に頭を下げる――これが最後の手段だと、私は覚悟を決めていた。

「名古屋から多気までわざわざお疲れさん。星一」

 私をねぎらう言葉をかけると、私の後ろで控える三人に目をやる。

「後ろの三人が星一が言っていた、新チームの皆さんか」

 三人を玄関に招き入れると、土間が手狭になる。

「叔父さん。改めて紹介するよ。左から順番に鬼頭、大井、東だ」

 叔父は三人の顔を一瞥する。

「皆さん、紹介するよ。こちらが私の叔父さん。名前は村田――」

「いい、いい。わざわざ紹介しなくても。それに今日は重要な話があるんだろう。さあ上がった上がった」

 叔父はそう言って、私たちを居間へと促した。今は畳敷きの広間が広がっている。飾り気のない、だが清潔に保たれた部屋には、昔ながらの座卓が置かれていた。

「まあ座りなさい。わしはお茶を用意してくるから」

 叔父は優しく微笑み、私たちに座布団を勧めた。緊張した面持ちで座ると、叔父は奥の台所に向かい、すぐに盆に湯気の立つ汲み出し茶碗を四つ、自分用だろう湯呑茶碗を一つ載せて戻ってきて座った。

「伊勢茶だよ。少し渋いが、疲れた時にはちょうどいい。遠慮しないで」

 叔父の気遣いに、張り詰めていた一同の空気がわずかに緩む。私は一口お茶をすすり、改めて向き直った。

「叔父さん。先日の電話でも話させてもらったけど、あのグラウンドを新チームの練習拠点として使わせてもらえませんか」

 私は深々と頭を下げた。横の大井、そして鬼頭と東もそれに倣って、頭を下げた。

「……顔を上げなさい」

 叔父の声は穏やかだった。しかしその響きの奥に、長年地域をまとめてきた者の重みがあった。私たちはゆっくりと顔を上げる。叔父は湯呑を置き、しばし黙ってこちらを見つめた。

「星一。先日の電話では大まかな内容は聞いて、事情は把握していたが、こう面と向かって頼み込まれると、本当に現実のことなのだと実感するな」

 そう言って、目尻の皺を深くしながら小さく笑った。

「叔父さん。覚悟の上です。どんな形でも、走る場所を失いたくないんです」

「うむ……気持ちは分かる」

 叔父はお茶をもう一口すすり、しばし黙考した後、低く唸るように言葉を続けた。

「ただな、あの廃校は自治会が管理しとる。使うとなると、理事会で話し合いを重ねなければならない」

 声色は優しかったが、今から続く内容に思考を巡らせると、先日までの母校に頼み込んだが結果は得られなかった光景が脳裏をよぎる。だが、続く言葉は予想を良い意味で裏切った。

「だが、星一、お前が本気で、このチームに賭けていることは、わしにはよく分かったよ」

 穏やかだが有無を言わせぬ響きでそう言った。

「わしはな、この櫛田高校が閉校になった時、本当に寂しい思いをした。地域から活気が一つ消えていくようで、堪らなかった。あのグラウンドが草刈りされるだけで、老人のゲートボールくらいでしか利用されていない現状を見ると、地元の者として辛い」

「それにここ最近は、少子高齢化問題やメガソーラー問題など、地域全体で暗い話題が蔓延している。そんな片田舎の暗いムードを払拭するためには、新たな風を吹かせる必要があるとわしは思う」

 叔父はまず東に視線を向けた。

「東選手。君のことは世界陸上で拝見させてもらったよ。日本でも指折りのランナーである君の走りは、この地域の活気を取り戻す大きなきっかけになるかもしれん。地域の者にとって、日の丸を背負った元メートクのエースがここで練習しているというのは、それだけでも夢や誇りになるだろう」

 叔父は続けて、鬼頭の方を見る。

「鬼頭選手。君のことは申し訳ないが存じ上げなかったので、星一にどんな選手なのか話を聞かせてもらった。天才だと高校時代はもてはやされたものの、ここ最近は結果を残しきれていない選手と聞かされた」

 事実を陳列しているだけだが、その現状は鬼頭に暗い影を落とす。

「そんな君が輝きを取り戻し、再び羽ばたいてくれれば、そんなドラマチックなことはないだろう。どうかこの地で力を蓄えて、再び活躍してほしいと私は切にそう願っている」

 叔父の言葉は、まるで私たちの胸の奥底に溜まっていた重い空気を一気に吸い出してくれるような輝きに満ちた、そんな力強い言葉だった。特に鬼頭に向けられた言葉は、彼女が背負ってきた重圧と、それでもなお前を向こうとする意志を肯定する響きを持っていた。

「つまりそれって、ここでの活動を認めてくれるということですか」

 今まで口を閉ざしていた大井が叔父に問いかける。

「わしの一存では決めかねるが、一個人としては君たちを歓迎したいと思っている。だが、先ほども言った通り、この話を自治会で通さなければならない。そのためには、地域住民に迷惑をかけないという誠意を、明確に示さねばならん」

 叔父は暖を取るように湯呑茶碗を両手で包み直すと、真剣な顔つきになった。それはこの地域を守り続けてきた者としての顔だった。

「単なる感情論では、きっと他の理事は動かんだろう。それに、田舎の人間は外部の人間が入ってくるのを極端に嫌がる。無断で使用させてしまったら、わしは村八分にされてしまうかもしれん」

 叔父はそう冗談めかしく笑いながら言い放つが、重い現状が脳の大半を占める私たちは、愛想笑いする余裕もなかった。

 私は身を乗り出して答える。

「必ずこの計画を実現させてみせます。なんせ私たちはもう後がありません。逆風吹き荒れる中かもしれませんが、このラストチャンス、絶対に逃しません」

 そう目を見開き、叔父の目を真っ直ぐ見る。

「よし。分かった。この計画を、『旧櫛田高校グラウンド利用に関する提案書』として文書にまとめなさい。そして、明後日の夕方、急遽、自治会臨時理事会を招集する。君たち全員、その場で、この計画を理事たちに直接説明し、質疑応答に答えなさい」

「明後日ですか……!」

 大井が思わず声を漏らした。突然の展開だったが、時間がない今の私たちにとって、これ以上の機会はない。

「ここで理事たち全員を納得させられなければ、この話は白紙に戻る。わしは一理事として、君たちの熱意を支持するが、最終的な決定は、地域住民の代表者たちが行う」

 叔父の言葉は厳しかったが、その眼差しには、私たちへの期待が込められていた。

「了解しました。ありがとうございます」

 私は力強く答えた。私たちは、急いで立ち上がり、叔父に深々と頭を下げた。この温かい日本家屋から、私たちは、未来を賭けた最後の戦いの準備へと向かうことになった。

 

 私はそのまま名古屋への帰路についた。軽自動車の車内は、朝の重い沈黙とは打って変わって、熱気と緊張感に満ちていた。

「明後日……実質、準備できるのは明日一日だけか」

 大井が唸るように言った。彼はすでに頭の中で、提案書の構成とプレゼンテーションの流れを組み立て始めているようだった。私は、叔父の言葉を反芻する。

「ああ。企業へのプレゼンとはわけが違う。相手は地域だ。私たちの活動が彼らの最も大切にする『平穏な生活』をどう守るかという誠意を見せなければならない」

 私はハンドルを握りながら、大井に指示を出した。

「大井、提案書は次の三本柱で構成してくれ。一つ目、活動理念や所属している人間のプロフィールを端的に伝えるチーム概要。二つ目、非公開練習の徹底、外部立ち入り制限といったリスク管理についての計画。三つ目、グラウンドの利用時間、設備維持への協力、そしてすべての活動に対する私の責任体制を明記したグラウンドの利用計画と責任体制。この三つだ」

 大井はスマホのメモアプリを操作しながら、即座に返事をした。

「了解。今夜中に骨子を作れるよう頑張ろう」

 私と大井は、名古屋に戻るとすぐに大井のアパートに籠もり、夜通しで提案書を作成した。翌日の早朝には、鬼頭と東を交え、プレゼンのリハーサルを行った。自治会の理事たちを相手に、いかに自分たちの情熱と、地域への誠意を伝えるか。言葉遣い、視線、間の取り方、全てを突き詰めた。

 そして、明後日の夕方。私たちは再び多気町にいた。

 町のコミュニティセンターとして使用されている旧櫛田高校の会議室。そこに集まったのは、叔父を含む約一〇名の自治会理事たちだ。全員が、どこか警戒心を抱いた静かで厳しい眼差しを向けている。座卓が並べられた部屋の中央に、私たちは並んで座った。

 叔父の紹介を受けて、私は立ち上がった。

 私は、メートクでの理不尽な解散劇、スポンサー探しでの挫折、そして母校からの拒絶という、私たちが辿った『後がない現状』を隠さずに話した。加えて、この土のグラウンドだけが、私たちに残された唯一の希望であることを、感情を込めて訴えた。

「私たちは、地域社会の皆様にご迷惑をかけるために来たのではありません。むしろ、この地で再起を懸ける私たちを受け入れてくださるなら、必ずや地域の皆様に貢献させていただきたいと考えております」

 そう力強く宣言するが、理事たちの表情は依然として固い面持ちのままだった。地元出身だからと甘い目で見てもらえるとは思っていない。わかっている。だが、箱根でのインタビューや引退インタビューで私が語った走りへの「無関心」という、今なお自分の中で変えきれていない走りに対する姿勢から想像される「走りに愛着を持たない無機質な人間」といったイメージが、今なお世間では色濃く残っているのだと、この重苦しい空気の中で改めて実感させられる。

 用意してきた資料を配るよう大井に指示を出す。理事たちに「一.チーム概要と活動理念」と記されたページを見るよう、声をかける。

「私たちのチーム・ゼルメイトは、元メートク女子陸上部の中核選手とスタッフによって立ち上げられました。私たちの理念は、文字通り『ゼロからの再出発』です。鬼頭選手は、高校時代の輝きを取り戻すべく、東選手は、世界を目指すランナーとしての地位を確固たるものとするべく、この地での練習に全てを懸けます」

 私は、鬼頭と東を指し示した。二人は緊張した面持ちながらも、真っ直ぐに理事たちを見つめていた。

 次に「二.リスク管理についての計画」と書かれたページを見るよう、再び声をかける。

「私たちのチームには、東をはじめとする話題性のある選手が所属しています。外部からの注目を避けるため、そして、この地域の平穏を守るためにも、練習は非公開を徹底し、部外者のグラウンドへの立ち入りを厳しく制限いたします。また、メディア対応についてですが、会見やインタビューを実施する際には、すべて貸会議場などを用いて対応いたします。これらの対応を以て、地域にご迷惑をおかけしない体制を構築します」

 最後に「三.地域社会への貢献と連携」のページに目をやるよう、再三声をかける。

「グラウンドの利用は、主に六時から九時の早朝と、十八時から二十二時の夜間に限定いたします。これは、地域の皆様の生活時間帯、特に日中のコミュニティセンターとしての利用時間帯を完全に避けるためです。夜間練習には、簡易的な照明を使用しますが、光漏れや騒音には細心の注意を払い、万が一苦情があった場合、即座に中止いたします」

 私は一息入れて口を開く。

「グラウンドの整備、特に草刈りや清掃は、私たち選手・スタッフが責任をもって定期的に実施します。設備に不備が生じた場合は、直ちに自治会にご報告の上、修繕費は全て私たちが負担いたします」

 そして、最も重要な点について、私は言葉に力を込めた。

「本計画の全ての活動に対する責任者は、私、村田星一が務めます。すべての苦情、ご要望、トラブルは、私にご連絡ください。私が全責任を負います」

 ここで、私は一呼吸置いた。理事たちの顔には、厳しいながらも、何かが動き始めたような感情が見て取れた。説明を終え、私は深く頭を下げた。横の大井、鬼頭、東も同様に深々と頭を下げる。

「……以上が、私たちの提案です。ご質問、ご意見がございましたら、遠慮なくお尋ねください」

 沈黙の後、一人の年配の理事が口を開いた。

「早朝と夜間は静かにできるのかね? 早朝は特に、音は響くぞ」

 私は即座に答えた。

「はい。早朝の準備・移動時は最大限静かにします。練習内容は、基本的にロード練習や、グラウンドでの単調な走り込みが主となります。競技場のような大声での指示は行いません。万が一、騒音があった場合は、即座に叔父を通じてご連絡ください。一度でも苦情があれば、練習時間をさらに短縮、あるいは早朝練習を中止することも含め、柔軟に対応いたします」

 別の理事が尋ねた。

「あのグラウンドは、わしらゲートボールや運動会でも使う。突然使えなくなる、ということはないだろうな?」

「決してございません。地域の行事や利用が最優先です。自治会様から利用予定を事前にいただければ、私たちの練習は完全に別の場所、例えば町の公道でのロード練習に切り替えます。私たちは、あくまで空いている時間をお借りしたいのです」

 最後に、一人の女性理事が、東と鬼頭に視線を向けた。

「東選手、鬼頭選手。メートクという大きなところから出て、こんな田舎の土のグラウンドで練習することに、不満はないのですか? 私たちは、一流の設備は提供できませんよ」

 東は、少し息を吸い込み、澄んだ声で答えた。

「私にとって、今必要なのは、設備ではなく、自由に走れる場所です。メートクの整った環境が、私を甘えさせていた部分もあったかもしれません。このグラウンドで、一から脚を作り直す。その挑戦を、この地域でさせていただきたい。何よりも、私たちは、私たちに人生を賭けた村田コーチ、大井コーチの想いに応えたいんです」

 鬼頭も、力強く頷きながら言葉を添えた。

「私自身、結果の出ない時期が続き、メートクから見放されました。だからこそ、このグラウンドからもう一度這い上がりたいんです」

 二人の言葉は、その場に集まった全員の心に響いた。それは、技術や理屈を超えた、純粋な熱意と覚悟だった。

 叔父が、ゆっくりと立ち上がった。

「わしは、彼らが地域の迷惑にならぬよう、全力を尽くすことを信じる。彼らの再起が、この町の活気となることも信じたい。反対意見のある方は挙手をしてくれ」

 叔父は、皆の顔を見渡し、静かに言う。数秒間の沈黙が流れた。誰も、手を挙げなかった。

「……よし。決まりじゃ。星一。来月の四月一日より、旧櫛田高校のグラウンドを、新チームの練習拠点として利用することを正式に許可する。ただし、利用規定を順守し、地域住民の生活を最優先とすること。違反があった場合は、直ちに利用を停止する。わしが、他の理事の前に顔向けできぬようなことだけは、してはならんぞ」

 私は、喜びと安堵、そして重い責任感に体が震えるのを感じた。目頭が熱くなる。隣では大井が天を仰いでいた。鬼頭は両手で顔を覆い、東は唇を噛みしめている。私たちは、ようやく「走る場所」を手に入れたのだ。ここから、全てが始まる。

「ありがとうございます! 必ず、ご期待に応えます!」

 再び深々と頭を下げると、理事たちの顔には、先ほどの厳しい眼差しではなかった。そこにあったのは温かい期待と、どこか楽しそうな表情だった。私たちは、寸でのところで最大の難関を突破したのだ。そう実感すると、強張った体から徐々に力が抜けていくのを感じた。


 午後八時半すぎ。御在所サービスエリアで遅めの夕食を取ることにした。私の注文したきしめんから立ち上る白い湯気が、まだ寒さが厳しい屋外から逃れてきた私たちをわずかに暖めていた。

 フードコートの壁に吊りかけられたテレビをふと見上げる。そこには「メートク女子陸上部、三月末をもって正式に活動終了へ」のテロップが躍る。三月のトピックをまとめたワイドショーは、名門の唐突な幕引きを惜しむコメンテーターの声を流していた。

「本当に、終わるんですね……」

 そのテロップを見上げながら、東がぽつりと呟いた。彼女の声には、メートクという大きな組織から解放される不安と期待が入り混じっているように聞こえた。鬼頭は箸を止め、無言で静かにうなずく。

 私は紙コップに汲まれた温かいほうじ茶を口に運びながら、その熱が喉から全身へと広がるのを感じた。メートクという巨大な流れが止まる。その瞬間がもうすぐなのだと、私たちは改めて実感した。

「この四月は"終わり"の季節でもあって、"始まり"の季節でもある」

 私の呟きは、ほうじ茶の湯気のように消え入りそうだったが、その言葉には、あの土のグラウンドから日本陸上界に風穴を開けるという、静かな、しかし強烈な意志が込められていた。二人のランナーは、その言葉の意味を噛みしめるように、私を見つめ返した。

 メートクという過去の栄光と挫折を清算し、ゼルメイトとして多気の町から立ち上がる時が、もうすぐそこに来ていた。

 車窓の向こうに、名古屋の夜景が徐々に近づいてくる。そして、その向こうには、私たちの新たな戦いの場――多気町の土のグラウンドが待っている。

 ここからがゼルメイトの本当の始まりだ。

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