煙に沈む王国で、僕は少女神官と文明を壊す

桃神かぐら

第1話 煙の港、沈む家

 雨上がりのジェノヴァの港は、いつも少しだけ血の匂いがした。


 船を縛る縄が擦れて毛羽立った麻の匂い、魚と海水が腐りかけたぬめり、酒と吐瀉と汗が混じった路地裏の湿気。その全部をまとめて、潮風が一息でさらっていく。だが、石畳の上に沈んだ匂いまでは運び去れない。


 レオナルド・スピノーラは、濡れた石畳に靴底をきしませながら、手の中の羊皮紙から目を離せずに歩いていた。


 ――支払猶予、三十日。


 ――利率、一四パーセント。


 ――担保、倉庫三棟および船舶一隻。


 銀行の書記が書いた細かな文字が、波の揺れみたいに視界で歪む。


(三十日……)


 数字そのものより、「この三十日で自分は何もできないかもしれない」という予感の方が、胸に重くのしかかる。


 石造りの倉庫群の向こうに、自分の家の看板が見えてきた。

 《スピノーラ商会》――かつてはもっと誇らしげに見えた彫り文字は、今は煤けて端が剥がれかけている。


 港の空気には、どうしようもない腐臭が混ざっている。魚、酒、汚物、雨水。

 それでもレオナルドの鼻には、その底に微かに“甘い樹脂”の影が感じられた。どんな濁った匂いでも、混ざり物の種類だけは分かってしまう――香屋の息子として育ったせいだろう。


 扉を押すと、いつもの匂いがふっと鼻をくすぐった。


 乾いた薬草と、香木を削った粉。樽の中に眠る酒精と、棚に並んだ瓶のガラスにまとわりついたアルコールの残り香。その奥に、長くここで働いてきた人間たちの汗と皮革の匂いが薄く沈んでいる。


 外の港と違って、ここは“整えられた匂い”だ。混ざりはしているが、全部が計算されている。


「……レオか?」


 カウンターの奥から、父の声がした。


 クラウディオ・スピノーラ。

 白髪の混じった髭を撫でながら、帳簿を前に眉間にしわを寄せている。昔はもっと大きな声で笑っていた男だ。今は笑う前に、指で計算をする癖がついた。


「銀行は?」


「……延長は認められたよ。三十日だけな」


 レオナルドは羊皮紙を父の前に置いた。

 父は一瞥して、ふう、と小さな吐息をこぼした。


「利率は下がらなかったか」


「むしろ上がったさ。俺たちみたいな小さな商会が、二隻も沈めたあとでもまだ貸してもらえるだけ、ありがたいと思えってさ」


 苦笑いを混ぜたつもりだったが、自分でも声が乾いていると感じた。


 倉庫の隅では、年老いた職人が香木を削っている。刃物が木肌を剥ぐたびに、甘くて少しだけ痺れる匂いが立ち上る。その匂いを嗅ぎながら育った。幼い頃、母の後ろについて、乾燥させた薬草の束を裏庭で並べた。蒸留器から落ちる透明な滴を「海の涙だよ」と教えられて笑った日を覚えている。


 今、その“海の涙”では借金は流せない。


「マルコは?」


「銀行だ。まだ食い下がっているだろうさ」


 父の声には、長男――家督を継ぐべき兄への苛立ちと、期待と、諦めが少しずつ混じっていた。


「母さんは?」


「二階で、瓶の整理をしている。……カテリーナは、さっきまでここで香の紐を編んでいた。お前が戻ると聞いたら、また降りてくるだろう」


 父はそこで一度言葉を切り、羊皮紙から目を逸らさずに続けた。


「レオ」


「なんだい」


「……この三十日で、何かを持ち帰らなければ、倉庫は取られる。倉庫を取られれば、取引はできなくなる。取引ができなくなれば、船も人も養えない」


「分かってる」


「分かっているなら、考えなくてはならない」


 父は顔を上げた。

 疲れた目が、ほんのわずか光を取り戻している。


「家を救える可能性を持っているのは、お前だけだ、レオ。

 ……それを言うのは、親として情けないがな」


「また、それか」


 何度も同じ言葉を聞いてきた。

 長男は家を守る者。次男は軍務に就き、共和国に顔を売る者。そして三男は――


「海に出る者だ」


 父は言った。


「危ない航路に乗り、誰も知らないものを持ち帰る。それが、この街で三男に与えられた役目だ。……お前は、海と匂いの両方を知っている」


「匂い、ね」


 レオナルドは、棚に並ぶ瓶たちを見渡した。


 アニス、クローブ、シナモン、樹脂、乳香。

 オリエントから運ばれた香料、北から来た油脂、地中海一帯で採れる薬草。どれも、もう十分に“知られている匂い”だ。


 銀行は、新しい匂いを求めている。まだ誰も嗅いだことのない、金の匂いを。


「……海の向こうの話を、また持ってきたのか?」


 カウンターの後ろの階段から、軽い足音が下りてきた。


「レオお兄ちゃん」


 カテリーナだった。

 まだ十六になったばかりの妹は、編みかけの香の紐を両手に持ったまま、心配そうに兄を見つめている。髪には乾かしたばかりのラベンダーが少し挟まっていた。


「銀行、どうだった?」


「最悪だよ。……でも、終わりとは言われなかった」


 レオナルドは、少しだけ笑って見せた。


「三十日間、息をさせてもらえるらしい」


「三十日で、何ができるの?」


 その問いには答えられなかった。


 代わりに父が、低く短く言う。


「レオ。今夜、お前に会いたいという客がいる」


「客?」


「国家商務院だ。……いや、“国家商務院”を名乗る者たちだ」


 店の空気が、少しだけ重くなった。


 ジェノヴァで商いをする者なら、誰でも噂くらいは知っている。

 公式の“商務院”の裏で、もっと濃い匂いのする取引や、地図に描かれていない契約を扱う連中がいることを。


「影の、ほうか」


「名前を口にするな」


 父がささやき、視線で階段を見やる。


「母さんとカテリーナには、余計な心配をさせたくない。……だが、家を救う最後の手だ」


 レオナルドは、握りしめた羊皮紙がじわりと湿っていることに気づいた。


 雨ではない。


 自分の掌の汗だ。


 妹の方を見やる。

 カテリーナはまだ事情を知らない顔で、編みかけの香の紐を見下ろしている。

 レオナルドは、その紐を見るだけで、胸の奥が少し柔らかくなるのを感じた。


(この子だけは、守らなきゃならない)


 そう思う一方で、自分に本当にそんな力があるのかどうかは分からなかった。


 * * *


 夜のジェノヴァは、昼より静かで、それでも決して眠らない。


 港に並ぶ船のマストが闇に突き刺さり、その間を縫うように小舟の灯が揺れている。酒場からは笑い声と歌声、時折怒鳴り声。路地裏からは、喧嘩の音と、誰かが吐く湿った音。


 潮風は昼より冷たく、濡れた石壁の匂いを強く運んでくる。

 それでもレオナルドの鼻は、どこかで焚かれた安物の香と、酒場の奥で燃やされる香木の“雑な煙”を嗅ぎ分けていた。


 レオナルドはマントの襟を立て、指定された建物へ向かった。


 港から少し離れた、石造りの古い倉庫。

 扉には何の印もないが、入口の両脇に立つ男たちの目が、この場所が“ただの倉庫ではない”ことを告げている。


「レオナルド・スピノーラだ」


 名前を告げると、片方の男がわずかに顎を動かした。


「中でお待ちだ」


 扉の内側は暗く、石の冷たさがそのまま空気になっていた。

 階段を下りると、地下の広間にたどり着く。壁際には蝋燭が並び、中央には丸い石卓。その周りに、四つの影が座っている。


 蝋燭の火はオイルの匂いを部屋に満たしていたが、そのさらに奥に、ごく微かに“焦げた樹脂”の匂いが混ざっていた。誰も香炉を出してはいないはずなのに。


(――ここも、煙の場か)


 港の上とは別種の匂いだ。もっと乾いていて、意図をまとっている。


 影の商務院――カメラ・オスクラ。


「来たか、スピノーラ家の三男」


 最初に声を発した男は、六十を越えているように見えた。

 顔の皺は細かく刻まれているが、目だけは濁っていない。むしろ、金属のように冷たく光っている。


「ロドリゴ・マラヴァル卿だ。お前の父とは、昔、海運で少し縁があった」


 レオナルドは軽く膝を折った。


「光栄です、閣下」


「頭を床にこすりつける必要はない。ここは神殿ではないからな」


 隣に座る女が、小さく笑った。

 黒い髪を後ろでひとつに束ね、インクで汚れた指先でグラスの縁を撫でている。指の動きは、香炉の縁を撫でる仕草にも似ていた。


「エリザベッタ・フォスカ。薬と香と毒とを研究している、ただの女よ」


 彼女の声には、香を焚くときの“一定の呼吸”が混じっていた。

 祭壇の前の神官か、香炉の前の薬師のような、ゆっくりとした息づかい。


「ただの、ね」


 迎えの声をかけた老男が、わずかに肩をすくめる。


「そして、こちらが――」


「ファウスト・サヴォーナだ。元は海賊、今は外交官。肩書きはどうでもいいがな」


 ごつごつした手を、ファウストは卓の上に投げ出した。

 指には古い傷が数本刻まれている。そのひとつひとつが沈めた船の数に見えた。


 そして、卓の端に控えている若い男が一歩進み出る。


「ニコロ・サルヴァーニです。記録と連絡を担当します。……レオ、久しぶりだな」


「ニコロ?」


 ジェノヴァの下町で、一緒に石を投げ合って遊んだ幼なじみ。その顔が、今は官吏の冷静な眼差しをしている。


「お前も、ここ側に来たってわけか」


「食うためさ。お前と同じだろう?」


 短いやり取りを、ロドリゴの咳払いが切った。


「座れ、レオナルド・スピノーラ」


 石椅子に腰を下ろした瞬間、背中に冷たさが走った。

 この場では一言一言が、家の生死と自分の未来を決める。


「お前の家の借財は、既に把握している」


 ロドリゴは、ニコロから渡された書類束を軽く叩いた。


「船二隻沈没、香料投機の失敗、銀行への負債。三十日後には倉庫の鍵を差し出さねばならぬ。……だが、我々が口を挟めば話は変わる」


「どういう、意味でしょう」


「簡単な話だ」


 エリザベッタが、机の上に小さな瓶を置いた。

 琥珀色の液体が、蝋燭の光を受けて揺れる。


「これは、阿片を酒精で溶かしたもの。痛みを消し、心を柔らかくする。東では古くから使われているわ。王侯も兵士も、町医者もね。戦場じゃ、これなしで手足は切れない」


 鼻を近づけると、濃密な匂いがした。

 甘く、重く、喉の奥にまとわりつく。


「あなたの家が売ってきた香や薬草と、大きくは変わらない。ただ、少し“強い”だけ」


 エリザベッタは笑みの形をした無表情で言った。


「我々はこれを、海の向こうに持って行きたい」


「海の向こう……?」


「南西だ」


 ファウストが、卓上の羊皮紙に線を引いた。

 地中海、西アフリカ、大西洋、そしてその先。まだ地図の端は曖昧に描かれている。


「そこには、煙で神と話す連中がいる。香の煙を吸って幻を見る。神官も戦士も、子どもも大人も、皆だ。お前の家のような香商が、都市全体を支えている世界だと聞く」


 レオナルドは息を呑んだ。


「……煙で、神と?」


「信じるかどうかはどうでもいい」


 ロドリゴが言葉を切り捨てる。


「重要なのは、そこが“香と煙に依存した文明”だということだ。香の供給を握れば、祭りも、戦も、裁きも、全て握れる」


 そして老男は、レオナルドに鋭い視線を向けた。


「お前には、その文明の中心に入り込んでもらう」


 レオナルドは、思わず身を引いた。


「……私は、ただの商人です」


「だからいい」


 エリザベッタの声は柔らかいが、内容は硬かった。


「征服者は嫌われる。剣は恐れられる。でも、香を売る商人は歓迎される。『もっと強い煙を』『もっとよく見える夢を』――そう言って、向こうから手を伸ばしてくるでしょう」


 彼女は机を指でとん、と叩いた。


「そこで少しだけ、混ぜ物をするのよ」


「混ぜ物……」


「阿片を、南の香に。酒精を、彼らの杯に。彼らが元から使っている幻視の草と、『我々の薬』を混ぜる」


 ファウストが薄く笑った。


「神託とやらが、どれだけ簡単に狂うか、興味があるだろう? 

 銀と煙は文明を動かす。南の連中は煙を、我々は銀を重んじている。……価値観が違えば、争いの形も変わる」


 レオナルドは口を開きかけて、閉じた。


 己の家の棚に並ぶ瓶たちが頭をよぎる。

 母が教えてくれた。薬は人を救うものだ、と。だが同時に、量と使い方を間違えれば毒になる、と。


(薬は救いにも毒にもなる――母さんの言葉が、今になって胸を刺す)


 目の前の連中は、その「毒として使う」ことを最初から前提にしている。


「……もし、私が断ったら?」


 しばらくして、ようやく言葉がこぼれた。


 ロドリゴは少しだけ首をかしげた。


「お前の家は、銀行に倉庫を取られ、香も薬草も売る場所を失う。お前の妹は、持参金のない娘として婚約を破談にされる。父は病み、兄たちは仕事を失い、使用人たちは路上に出るだろう」


 それは、想像に難くない未来だった。


「逆に、お前がこの任務を引き受け、成果を持ち帰れば――」


 ニコロが、用意していた別の羊皮紙を広げる。

 そこには銀行の名前と、数字の列が並び、その下に短い文があった。


「影の商務院の名で、負債の全額を肩代わりする。倉庫も、船も、人も、失わずに済む」


 蝋燭の炎が、文字をなぞるように揺れた。


 レオナルドは手のひらを握りしめた。

 爪が手の肉を押し、痛みがかすかに熱をくれる。


「……私は」


 海の匂いがした。

 港の上のどこかで、帆布が鳴っている音がする。誰かが歌い、誰かが笑い、誰かが泣いている。


 この街は、いつだってそうだ。


 誰かが沈み、誰かが浮かぶ。そのたびに、海は何も言わない。


 ペンとインク壺が卓の上に置かれた。


 ニコロが静かに言う。


「レオ。これは、国家の命令ではない。あくまで“契約”だ。お前が引き受けるなら、ここで同意の印を押せ」


 羊皮紙の下部には、空白の欄がひとつだけあった。


 レオナルドは、インク壺に羽根ペンを浸した。


 ペン先が少しでも震げば、この契約が“躊躇した商人”の記録になる。

 震えなければ、“腹をくくった商人”として刻まれる。


 震える指先を、自分で押さえつける。


(これは、家族の命に押す印だ)


 ペン先が、ゆっくりと紙の上を滑る。


 ――Leonardo Spinola


 署名が完成したとき、ロドリゴが短く頷いた。


「よかろう。準備に三日やる。船は手配してある。“サンタ・リュミエール号”だ。港の西埠頭で待機している」


「あの船長か?」


 ファウストが少しだけ笑った。


「マテオなら、お前を海の底までは連れて行かないさ。たぶんな」


 蝋燭の炎が、ふっと揺れた。


 それが風のせいなのか、それともこれから世界のどこかで燃え上がる煙の前触れなのか、まだ誰も知らない。


 * * *


 家に戻ると、二階から灯りが漏れていた。


 母は、テーブルの上に広げた瓶を一本ずつ布で拭いていた。疲れた目を上げ、レオナルドの顔を見て、何も聞かずに微笑んだ。


「遅かったね」


「ああ。少し、海を見ていた」


「また、どこか遠くへ行くの?」


 何気ない風を装った問いだった。

 だが、指先が布を握り締めている。


「……少し、南へ」


 曖昧に答えると、母はうなずいた。


「海は怖いけど、陸も怖いよ。どこにいても、人は何かを失う。だったら、自分で選んだ場所で失いなさい」


 母の言葉にはいつも、薬草の苦味と、香木の温かさが同時に混ざっていた。

 飲めば舌が痺れるのに、あとから体を温める薬草茶のように。


 カテリーナは部屋の隅で、香の紐を編んでいた。

 兄の顔を見ると、すぐ立ち上がる。


「やっぱり、行くんだね」


「こういう話が来るってことは、まだ俺たちは“価値がある”ってことだ」


「そんなふうに言わないでよ」


 妹は唇を噛んだ。


「お兄ちゃんは、誰かを救うために薬を運んできたんでしょう? 痛みを減らすために。眠れない人を眠らせるために。……今度は、何を運ぶの?」


 その問いに、レオナルドは答えられなかった。


 香の紐から、柔らかな匂いが漂う。

 ラベンダーとミントと、少しだけ混ざった樹脂の香り。


 カテリーナは紐を胸に抱きしめるようにして、ぽつりと言った。


「お兄ちゃんの匂いは、家の匂いだから。……帰ってこなきゃ、嫌だよ」


 胸の奥が、きしりと鳴った。


「ああ。ちゃんと戻ってくる」


 それが本当かどうかは分からない。

 分からないからこそ、約束にしておかなければならない。


 窓の外では、港の灯が揺れている。

 ジェノヴァの夜は、煙の匂いで満ちていた。


 その煙の一部が、数日後には海を越え、見たこともない森と川の向こうへ流れていくことになる。


 レオナルド・スピノーラはまだ知らない。


 自分が運ぶ煙が、遠い大陸の都市と少女と、ひとつの文明の行く末を、どれほど深く曇らせることになるのかを。

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2026年1月1日 19:00
2026年1月4日 19:00
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煙に沈む王国で、僕は少女神官と文明を壊す 桃神かぐら @Kaguramomokami

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