第16話「決意のプロポーズと揺れる心」

 カイザー殿下の正体が明らかになってから、村の空気は一変した。

 いや、村人たちはまだ彼の本当の身分を知らない。

「カイは、実はどこかのお偉いさんだったらしい」という程度の認識だ。

 それでも、あの壮麗な馬車と騎士たちの存在は、村に緊張感をもたらしていた。


 カイザー殿下――まだ、そう呼ぶのには抵抗がある。

 俺は、館に滞在し続ける彼と、どう接していいか分からずにいた。

 彼は、以前と変わらず「カイ」として振る舞おうとしたが、その言葉の端々や仕草に、隠しきれない王族の気品がにじみ出ている。

 俺たちの間には、見えない壁ができてしまったようだった。


「妃として、帝国に来てほしい」


 彼のプロポーズが、ずっと頭の中で反響している。

 嬉しい。

 だが、怖い。


 王宮という場所が、どれだけ息苦しく、欺瞞に満ちた場所か、俺は嫌というほど知っている。

 もう二度と、あんな場所には戻りたくない。

 このグライフェンの地で、土にまみれながら生きる、今の穏やかな生活が、俺にとってはかけがえのないものだった。


 その夜、俺は一人、自分の育てたカブ畑の前に立っていた。

 月明かりに照らされた畑は、静かで、美しい。

 ここが、俺の再出発の場所。

 俺の誇りだ。


「……ここにいたのか」


 背後から、カイの声がした。

 いつの間にか、彼は俺の隣に立っていた。


「レオン。まだ、迷っているのか」


「……当たり前だろう」


 俺は、畑から目を離さずに答えた。


「俺は、この村が好きだ。ここの人たちが好きだ。ようやく見つけた、俺の居場所なんだ。それを、簡単に捨てられるわけがない」


「捨てろとは言っていない」


 カイは、静かに言った。


「お前の功績は、俺が帝国に帰った後も、決して無駄にはしない。このグライフェンを、帝国の直轄領として、手厚く保護することを約束する。お前が望むなら、いつでもここに戻ってこられるようにしよう」


 彼の提案は、あまりに魅力的だった。

 俺個人の感傷だけでなく、村の未来までをも考えてくれている。


「……なぜ、そこまでしてくれるんだ」


「言っただろう。お前が、俺の運命の番だからだ」


 カイは、俺の肩にそっと手を置いた。


「それだけじゃない。俺は、一人の男として、レオン、お前に惚れているんだ。お前がこの村を愛しているように、俺はお前という人間を愛している。だから、お前が大切にしているものも、俺は同じように大切にしたい」


 彼の言葉は、飾りがなく、まっすぐで、俺の心の奥深くにまでじんわりと染み渡ってきた。

 俺は、ゆっくりと彼の方へ向き直った。


 月明かりの下、彼の金の瞳が、熱を帯びて俺を見つめている。


「俺のそばに来てはくれないか、レオン。お前がいない人生など、もう考えられない」


 彼は、俺の前に片膝をつくと、俺の手を取った。

 それは、騎士が主君に忠誠を誓う、最も敬意のこもった作法だった。


「俺の全てを懸けて、お前を幸せにすると誓う。だから、俺の妃になってほしい」


 帝国の皇太子が、追放された罪人である俺に、跪いている。

 その光景が、俺の最後の躊躇いを打ち砕いた。

 身分も、過去も、性別も関係ない。


 ただ、この男の隣にいたい。

 この温かい手を、離したくない。


 俺の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 それは、悲しみの涙ではなかった。


「……俺で、いいのか」


 震える声で尋ねる。


「お前がいい。お前じゃなきゃ、だめなんだ」


 迷いのない、即答だった。

 俺は、こぼれ落ちる涙をそのままに、精一杯の笑顔を作った。

 そして、小さく、しかしはっきりと、頷いた。


「……はい」


 その返事を聞いたカイは、子供のように顔を輝かせると、俺の手の甲に、優しく口づけを落とした。


「ありがとう、レオン。愛している」


 抱きしめられた彼の腕の中は、温かくて、安心できる、俺だけの場所だった。

 揺れていた心は、もう迷わない。


 俺は、この人と共に生きていく。

 そう、決めた。

 運命を受け入れる覚悟を決めた、静かな夜だった。

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