第5話「黒髪の傭兵、カイとの出会い」
カブの種を蒔いてから、数日が過ぎた。
俺は毎日、夜明けと共に起き出しては畑の様子を見に行くのが日課になっていた。
幸いなことに、小さな双葉がいくつも土から顔を出し始め、その光景は俺の心を温かいもので満たしてくれた。
村人たちの俺を見る目も、少しずつ変化してきたように思う。
ヨハンが積極的に手伝ってくれるようになったのを皮切りに、「水やりくらいなら」と数人の若者が協力してくれるようになったのだ。
彼らはまだ半信半疑だったが、それでも何かが変わるかもしれないという、かすかな期待がその瞳に宿り始めていた。
その日、俺は村の水源である川の上流を調査するために、一人で村の外れを歩いていた。
水路を整備するにあたって、正確な地形と水量を把握しておく必要がある。
森に近づくにつれて、空気がひんやりと澄んでくるのを感じる。
村人たちからは「魔獣が出るから危ない」と止められたが、昼間のうちは比較的安全だという話だったし、あまり奥まで入るつもりはなかった。
川の流れに沿って、慎重に歩を進めていく。
すると、不意にガサリ、と近くの茂みが揺れた。
『魔獣か!?』
緊張が走る。
俺は咄嗟に、護身用に持っていた古いナタを握りしめた。
貴族の嗜みとして剣術は学んでいたが、実戦経験など皆無に等しい。
茂みから現れたのは、しかし、俺が想像していたような牙を持つ獣ではなかった。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
歳は俺と同じくらいだろうか。
旅慣れた様子の革鎧を身につけ、腰には長剣を差している。
陽の光を吸い込むような艶やかな黒髪と、獲物を射抜く猛禽を思わせる鋭い金の瞳が印象的だった。
全身から放たれる、ただ者ではないという空気が肌をピリピリと刺激する。
男は俺の姿を認めると、少し驚いたように目を見開いたが、すぐに興味深そうな表情を浮かべた。
「……あんた、こんな場所で何をしてるんだ」
低く、落ち着いた声だった。
だが、その声には有無を言わせぬ圧がある。
「それはこちらのセリフだ。あなたこそ、ここで何を?」
警戒を解かずに問い返す。
見たところ、村の人間ではない。
旅人か、あるいは……傭兵か。
「俺はカイ。しがない傭兵だ。この先の森で、ちょっとした依頼を片付けてきたところでな」
カイと名乗った男は、肩をすくめてみせた。
その仕草には、妙な色気があった。
『アルファだ……』
直感的に悟った。
それも、並のアルファではない。
彼の周りの空気は濃密で、まるで重力さえもねじ曲げてしまいそうなほどの存在感を放っている。
俺は咄嗟に、いつも服用しているオメガの匂いを抑制する薬の効果が切れていないか、内心で焦った。
幸い、カイに特に変わった様子はない。
俺がオメガであることには気づいていないようだ。
「俺はレオン。この村の者だ」
身分を偽る。
いや、もう貴族ではないのだから、嘘ではないか。
「レオン、か。こんな寂れた村に、あんたみたいな男がいるとはな」
カイは面白そうに俺を頭のてっぺんからつま先まで眺めた。
その視線に、品定めされているような不快感を覚える。
「何か用か? なければ、俺はこれで」
早々に立ち去ろうと背を向けた、その時だった。
「待て」
カイの声に、足が縫い付けられたように止まる。
「一つ、頼まれてくれないか。怪我をしていてな。少しの間、この村で休ませてほしい。宿代は払う」
見れば、彼の左腕の鎧には真新しい切り傷があり、そこから血がにじんでいた。
森での依頼とやらは、魔獣の討伐だったのかもしれない。
怪我人を放っておくのは、寝覚めが悪い。
それに、この男から情報を引き出せるかもしれない。
辺境の情勢や、魔獣の生態について。
俺は小さくため息をつくと、彼の方に向き直った。
「……分かった。村に空き家はないから、俺の家でよければ使うといい。手当もしてやろう」
「ほう。それは助かる」
カイはにやりと、不敵な笑みを浮かべた。
この時、俺はまだ知らなかった。
この黒髪の傭兵との出会いが、俺の運命を、そしてこの世界の形さえも大きく変えることになるということを。
ただ、彼の金の瞳に見つめられていると、胸の奥が妙にざわつくのだけは、確かだった。
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