第4話「小さな一歩と土の匂い」

 村人たちの協力、というよりは黙認を得て、俺はすぐに土壌改良の準備に取り掛かった。

 まずは、西の丘で石灰岩を集めることからだ。


 村の若者――名をヨハンという――が、道案内だけはしてやると言って、ぶっきらぼうに先を歩いてくれた。

 彼は、俺が村人たちに頭を下げた時、最初に口を開いた青年だった。


「本当に、あんな石ころで畑が良くなるのかよ」


 道すがら、ヨハンが疑わしげに尋ねる。


「ええ。この土地の土は酸性に傾きすぎているんです。石灰には、それを中和させる力があります」


「さんせい……? ちゅうわ……?」


 聞き慣れない言葉に、ヨハンは首をかしげる。

 専門用語は避けるべきだったな、と俺は反省した。


「簡単に言うと、土が病気にかかっているような状態なんです。石灰は、その病気を治す薬だと思ってください」


「ふーん……」


 ヨハンは納得したような、していないような顔をしていたが、それ以上は何も聞いてこなかった。


 西の丘は、ごつごつとした白い岩肌が露出した場所だった。

 これが石灰岩だ。

 俺は持ってきた麻袋に、手頃な大きさの石灰岩を詰め始めた。

 一人での作業は骨が折れる。

 ヨハンは腕を組んで見ているだけだったが、俺が汗だくで石を運ぶ姿に、何か思うところがあったのかもしれない。


「……ちっ、見てらんねえな。少しだけだぞ」


 そう吐き捨てると、彼は俺よりもずっと大きな石を軽々と持ち上げ、袋に入れてくれた。


「ありがとうございます、ヨハン」


「勘違いすんな。あんたが倒れたら、寝覚めが悪いだけだ」


 口は悪いが、根は優しい青年なのだろう。


 二人で運んだ石灰岩は、思った以上の量になった。

 村に戻り、それを硬い石で砕いて粉状にする。

 地道で根気のいる作業だ。

 村人たちは遠巻きに眺めているだけで、手伝おうとする者はいなかった。


 次に、堆肥作りだ。

 森は危険だという村人たちの忠告に従い、まずは村の周辺で枯れ草や落ち葉を集める。

 それに、家畜の糞や生ゴミを混ぜて積み重ね、発酵させる。

 これもまた、時間のかかる作業だ。


「うわっ、くせえ!」


 ヨハンが鼻をつまんで顔をしかめる。


「これが、最高の肥料になるんです。土にとって、何よりのごちそうですよ」


 俺は平然と堆肥を混ぜ返しながら言った。

 公爵令息がこんな作業をしているなど、王都の連中が知ったら卒倒するだろう。

 だが、俺は泥と土の匂いに、不思議な心地よさを感じていた。

 生きている、という実感。


 数日がかりで準備を整え、俺は村の一角にある、使われなくなった小さな畑を借りることにした。

 まずは実験だ。

 ここで成果を出せなければ、誰も俺の言うことなど信じてくれないだろう。


 粉状にした石灰を畑にまんべんなく撒き、クワで丁寧に土と混ぜ合わせる。

 次に、発酵させた堆肥をスキ込んでいく。

 それだけで、パサパサだった土は見違えるようにしっとりと、黒々とした生命力を帯び始めた。


「すげえ……」


 いつの間にか、作業を見ていたヨハンが感嘆の声を漏らした。

 他の村人たちも、興味深そうにこちらを窺っている。


 土壌の準備が整い、次はいよいよ種まきだ。

 俺が王都から持ってきた、わずかな荷物の中には、寒冷地に強く、痩せた土地でも育ちやすい品種改良されたカブの種が入っていた。

 これは、いつかこんな日が来るかもしれないと、密かに準備していたものだ。


 一粒一粒、丁寧に種を蒔いていく。

 この小さな種が、この村の未来を、そして俺の未来を切り拓く希望になる。


「レオンさん」


 作業を終えた俺に、ヨハンが話しかけてきた。

 さん付けで呼ばれるのは、少しむずがゆい。


「あんた、一体何者なんだ? ただの追放された貴族じゃねえだろ」


 鋭い問いだった。


 俺は空を見上げ、穏やかな風を感じながら答えた。


「俺は、ただのレオンです。この土地で、皆さんと一緒に生きていきたいと願っている、ただの男ですよ」


 嘘ではない。

 それが、今の俺の偽らざる本心だった。


 ヨハンはしばらく黙って俺の顔を見ていたが、やがてふっと笑った。


「そうかよ。まあ、せいぜい頑張れよな。……水汲みくらいなら、手伝ってやってもいいぜ」


 それは、この村で得た、最初の信頼の証だった。

 俺の小さな一歩は、確かにこの地に根付き始めていた。

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