第2話 鐘の音と白パン
朝は鐘の音で始まる。
街の中心にある塔の鐘が「ゴーン」と鳴れば、それはパン屋の焼き上がりを告げる合図だ。
みのりはその音で目を覚ます。いや、飛び起きる。
「……しまった!」
寝坊だ。
顔もろくに洗わず、水汲みポンプの前でバシャバシャと水をかぶる。籠をつかんで、靴をつっかけ、玄関を飛び出した。
朝の空気は冷たいけれど、頬に当たる風が気持ちいい。
石畳の住宅街を駆け抜けていると、向こうから知った顔が見えた。
「おはよう! アルク!」
「おはよう、ミリィ。今日も元気だね」
アルクは、隣の家の奴隷仲間。私がこの街に来てから最初に話しかけてくれた人だ。
獣人の町のこの一角――中級家庭が立ち並ぶ住宅街では、どの家も当たり前のように奴隷を所有している。獣人の主人に、人間の奴隷。ときどきその逆もあるけれど、たいていはそうだ。
「今日もパン屋?」
「うん……ド――じゃなくて、ご主人様が…“あそこの白パンじゃなきゃダメ”って」
アルクの前では、“ご主人様”と呼んで体裁を保つ。危ない。ついドレイクの名前を呼びそうになる。
「いいなぁ。うちなんて、まだ石パンだよ。噛んでると顎が外れそう」
アルクは冗談めかして笑うけど、その目は少しだけ、本気の羨望を宿していた。
みのりは笑ってごまかす。
いまだにドレイクと同じ食卓で食べてる――なんて、アルクには言えない。
ある日ぽろっと言ってしまった時、アルクは眉をひそめてこう言った。
「……他の奴隷には、絶対に言うな。俺たちは奴隷なんだ、調子に乗るな。」
忠告とも脅しとも取れる言葉にみのりは怯んだ。
それ以来、食事のことも、部屋のことも、ベッドのことも、何も話していない。
アルクの目に浮かんでいたのは、忠告だけではなかったはずだ。
戸惑いと、妬み。そして、哀れみ。
きっと、私は“愚かな”奴隷なんだ。
⁻⁻⁻
みのりがドレイクの家に迎えられてしばらく経った。
生活は穏やかで、規則正しい。食事も毎日出るし、部屋もあり、寝床は柔らかい。けれど、その整いすぎた優しさに、どこか落ち着かないものを感じていた。
この家では、朝食はドレイクが作ることが多い。
みのりがキッチンに立とうとすると、「座ってろ」と手で制されることもしばしばだった。
ある朝、みのりがパンを買って帰ると、ドレイクはかまどの前でスープをかき混ぜていた。昨晩の残り物を温め直しているのだろう。
「おはようございます、ドレイク様」
「おはよう。パンをありがとう、ミリィ」
言葉と同時に、ドレイクは鍋の蓋を開け、香草の香りを確認する。みのりはそっと白パンをテーブルに置くと、その香りに心を和ませた。
食卓には、白パンが二つずつ置かれていた。スープの中身を見れば一目瞭然。ドレイクの方には大きな肉がごろりと入っているが、みのりの皿には野菜が数片浮かんでいるだけだ。
以前ドレイクに「もっと肉を食べろ」と言われた。朝から肉はみのりには少しばかり重かった。案の定、腹を壊したみのりに、ドレイクはオロオロと慌てて医者を呼んでくる始末だった。それ以来、ドレイクは肉を食べることを強要しなくなった。みのりの食事についても細心の注意を払っている気がしてならない。
きっとこれは破格の対応なのだろう。みのりの世間知らずで、どの程度が奴隷として弁えている領分なのかが分からない。いつ足元を掬われるか、ドキドキしながら綱渡りをしている状態だ。この世界では慎重に誰にも気を許さず、生きなくてはいけない。
気を張っていたみのりはパンを割り、ふわりと立つ湯気に頬を緩ませた。
「……ありがとう、ございます」
小さな声で呟くと、ドレイクが不思議そうに顔を上げる。
「ん? どうした?」
「いえ……今日も、パンが美味しそうだったから」
ドレイクは少しだけ目を細めて、何も言わずに頷いた。
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みのりがこの家に来たばかりの頃、ほとんど食事を取らなかった。
出されたものは手をつけず、水だけで何日も過ごし、徐々に顔色が悪くなっていった。何かが違う。食べ物が合わないのかもしれない。そう気づいたドレイクは、街の人間の店を片っ端から探した。
そこで出会ったのが、赤い天幕のパン屋だった。
「人間の女の子? ああ、それなら白パンがいいよ。柔らかくて消化もいいし、甘味もちょっとある」
その言葉に救われたような気がして、ドレイクは大量の白パンを買い込み、急いで帰った。
その夜、みのりが初めてパンを食べた。
目を丸くして、一口、また一口と大事そうに噛みしめる。その様子を見て、ドレイクは胸を撫でおろした。
「そうか……これなら、食べられるのか」
その日から、白パンは朝食の定番となった。
けれど、みのりが再び普通のパンを食べようとし始めたとき、ドレイクはすぐに察した。
“自分がいい思いをしてはいけない”
そういう顔をしていた。
だからドレイクは命令した。「あの店の白パンを買ってこい」と。
それが、自分の好みだからだと、みのりは思い込んでいた。
それでいい。
優しさは、気づかれなくても構わない。
ただ、少しでも、この異国で安らげる居場所になれば――それだけでいい。
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ドレイクの配慮に気づいたのは、ずっと後になってからだった。
みのりは白パンをちぎって、スープに浸す。口に運ぶと、ほんのり甘さが広がる。
(この甘さ……)
自分のために探してくれた味。
そう思ったとき、胸がきゅっと締めつけられるような気持ちになった。
誰かに守られるのが、こんなに温かいなんて。
だけど。
(どうして、こんなに優しくしてくれるんだろう)
その答えが、みのりにはまだわからなかった。
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