第一章

第1話 狼と首輪

扉の軋む音とともに、重い空気がかき乱された。 薄暗い牢に差し込む光。その向こうから、ふたつの声が近づいてくる。


ひとつは聞き慣れた奴隷商の声。もうひとつは、低く、凛とした響きを持つ男の声だった。

うずくまっていたみのりは、ゆっくりと顔を上げた。


そこに立っていたのは――灰色の狼。 二本足で立ち、鎧を身にまとったその姿は、まぎれもなく獣人だった。


艶やかな毛並みが光を弾き、青い瞳はまるで湖の底。 見惚れてしまうほど美しく、息を飲む。


(獣人も……服を着るんだ)


みのりは思う。砂漠を旅していた獣人奴隷は裸同然だったから。 この狼男は、まるで騎士のようだった。


言葉は分からない。 けれど、その男――狼が、自分をじっと見つめたとき、みのりの背筋が凍った。


奴隷商がみのりを指さす。狼男の視線も、それを追うように動いた。

看守が鍵を開ける音が響き、みのりは牢から引き出される。 鎖が金属音を立て、空気が少しだけ自由になったように感じた。


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通されたのは、小さな応接室だった。

狼男と奴隷商が椅子に座っており、みのりは奴隷商の隣に立たされる。 歩くたびに足の鎖がジャラリと鳴る。


看守が無言で近づき、みのりの首に金色の首輪をはめた。 装飾のように煌めく奇妙な文様が、肌の上で不気味に光る。


(……光ってる。何かの機械?)


そう思った瞬間、まるで魔法のように世界が変わった。

聞こえなかったはずの言葉が、耳に飛び込んでくる。


「さ…が、外……隊の隊長殿!お目が高くていらっしゃる!こちら、レテのオアシスで拾いましてな。黒髪黒目、またとない珍しい色合いのニンゲンでございます!」


奴隷商が滑らかに喋る。まるで商品を売り込む商人のように。


「体力はありませんが、大人しくて使いやすい。小間使いには最適でしょう。……ただ、言語魔法が未付与でして。よろしければ、こちらの首輪も一緒にお買い上げください」


奴隷商の男はゴマをするように手をこねた。


(……やっぱり、この首輪のせいで言葉がわかる)


喋ろうとしたが、声が出なかった。 喉を撫でようとして、冷たい金属に触れる。


「ほう。拾った、か。……つまり、奴隷としての確証はないということだな?」


狼男――その声が一変した。 低く、冷たい。

奴隷商が言葉に詰まる。


「い、いえ、それは……」


狼男は、しばし沈黙したまま、みのりを見つめた。

みのりには分かった。 彼の視線は、自分を"人"として見る視線だった。


「……そのまま連れていこう。即金で払う」


ドン、と机に重そうな革袋が置かれた。 「おっ!お買い上げありがとうございます!」と奴隷商は顔をほころばせ、頭を下げた。


みのりは安堵した。


今まで散々見てきた奴隷出荷前の“教育”を受けずに済んだ。

それだけで、救われたような気がした。


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屋敷を出ると、外はバザールだった。 色とりどりの天幕が風にはためき、人々――いや、獣人たちが行き交っている。

中には人間もいた。だが、みな似たような首輪をつけていた。


(ここでは、人間は奴隷なんだ……)


無意識に首輪を撫でる。 金色の、言葉をくれる代わりに自由を奪う鎖。

ドレイクと名乗った狼男の家は、閑静な住宅街にあった。 小さな石造りの平屋。整ってはいないが、温もりのある空間だった。


「……入ってくれ」


玄関に立ち尽くすみのりに、ドレイクがそう声をかけた。 その声は、さっきよりもずっと柔らかい。


「俺はドレイク。お前の名前は?」


みのりは頷き、小さく答える。


「……み、り……ぃ」


久しぶりに出した声は掠れてほとんど出なかった。

ドレイクは目を細めた。


「ミリィ、か。いい名だ」


違う、と訂正しかけたが、言えなかった。


「……ご主人様」


口にした瞬間、ドレイクの毛が逆立った。


「やめろ! 俺はご主人様などではない!」


大声に、みのりは体を強張らせる。

すぐにドレイクが手を振る。


「すまん、驚かせた。怒ってるわけじゃない。その…俺はお前を奴隷として買ったわけではない。いや買ったのは事実だが…!この国では、奴隷は違法だ。いつか、自由にすると約束しよう。安心してほしい」


その慌てぶりに、みのりは目を見開く。

唐突すぎて、言葉の意味は半分も理解できなかった。

自由、という言葉だけが頭の中で繰り返し響いた。


「……ご主人様、ではなく、ドレイク……様?」

「“様”も、いらない。ドレイクでいい」


ドレイクの耳がへにゃりと垂れる。 獣人の感情表現は、目に見える分、なんだか可愛い。

どれほど優しそうに見えても、気は抜けない。


――機嫌を損ねないように。怒らせないように。


それが奴隷としての生きる術だった。

信じるには、まだ早すぎるのだから。

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