悪夢

 母のことを思い出したからだろうか、夢に母が出てきた。

 薄暗い空間に俺は立っている。

 俺はぼんやりと「ここは夢なんだな」と理解している。だからと言って自由に操れるわけじゃないことをもどかしく思っている。

 はっきりと見えてはいないのに、海の上にいるのだとわかる。見渡す限りが水面で、どこにも陸地は無い。足元が緩く波立っている。俺は浮いているのでなく、海の上に裸足で立っている。足裏にひんやりとした水の感触がある。地面のように固くはないのに安定した感覚がある。目を凝らすと遠くの方に水平線がある。暗いせいで境界線は曖昧でぼやけているのに、空と海が確かに分かれているのは見える。

 俺の目の前には俯く母の後ろ姿があった。顔はこちらを向いていないのにその人物が母だとわかる。小さな女だと思う。華奢な肩、黒く長い髪、細い腕を俺は見下ろしている。

 母は白い服を好んでよく着ていた。今も半袖の白いワンピース姿で、この暗い空間では光っているかのようによく目立つ。スカート部分が、小柄な母には少し丈が長いように思う。そう思ってから、足首が海に浸かっているから余計に長く見えるのだと気がつく。

 俺は母の顔を覗こうと回り込む。でも俺の動きに合わせて母も動くため、いつまで経っても後ろ姿しか視界に映らない。海面を踏み締めると、ばしゃりと飛沫が俺の足首を濡らす。母の髪が動きに合わせて流れるように揺れる。お互いにぐるぐる回って、俺は次第にれてくる。こうなったら何が何でも顔を見てやろうと意地になってくる。母はどんな顔だっただろうか。どんな声だっただろうか。最後に俺の顔を見て笑ったのは、いつだっただろうか。

 記憶にある母はいつも風斗の方ばかり見ているから、横顔しか思い出せない。

 ここには風斗はいないのに、それでも母は俺の方を見ない。足元の海を覗き込むように首を曲げている。

 過干渉な母に構われたくなかった。でもそれは無視されて良いと同義じゃない。手がかからないとはいえ「子供にしては」の注釈が付く程度で、親の支えや庇護は当たり前に必要としていた。

 どうして俺達は適度な距離でいられなかったんだろうと今でも思う。

 母がしゃがみ込む。裾が濡れるのも構わず水の中に手を入れ、何かを探しているように見えた。黒い毛先が水面に滑り落ちる。

 もどかしくなった俺は母の肩を掴もうとして、伸ばした手を払いのけられる。母の腕は青白い。もう死んでいるからだ。死んでもやっぱり俺のことは眼中にない。

 海の中に何がいるんだろうな。風斗の喜ぶものなのかもな。いや、風斗がこの中にいるのかもしれない。俺も隣に屈んで水の中を覗こうとした。

 すると、母が弾かれたように顔を上げた。か細い腕が伸びて来て、俺の首を絞める。黒髪が蛇のように鎌首をもたげてそれに加勢する。解こうとするのに腕が重くて動かない。

 やっとこちらを向いた母は、充血した目をこれでもかと見開き俺を睨みつけていた。歯を剥き出しにして、何かを喚いている。

 何と言っているか聞こえない。息ができない。

 抵抗できないまま、俺の身体が浮き上がる。気づけば母は立ち上がり、俺は高々と持ち上げられていた。必死に足をばたつかせる。つま先が虚しく空を切る。水面が遠くなっていく。

 言葉は聞き取れないのに、何かを拒絶しているのだけは伝わってくる。俺のことがそんなに嫌いなのかよ。黒髪が顔にも絡み付いてくる。皮膚に食い込む一本一本が痛い。母はまだ何か喚いている。足元から何かが上がってくる気配がする。海底にいる何者かが、急速に近づいてきている。母の口角が上がる。ぎりぎりと歯を見せる。この人はこんな顔だったか。これが笑顔だったか。泣いているようにも怒っているようにも見える。目を逸らさず見つめているはずなのに母の表情がわからない。夢だとわかっているのに何一つ思い通りにならない。息ができなくて、身体が動かない。


 視界が黒く閉ざされる直前、母は俺をそらに向かって突き飛ばした。

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