翌朝
目が覚めた時には全身汗びっしょりだった。心臓がどくどくと脈打っている。飛び起きたつもりだったのに身体はびくりと一つ震えただけで実際には行儀良く布団に横たわっていた。
床についたのは早かったのに、夢見が悪かったせいかあんまり眠れた気がしなかった。運転疲れが肩にも腰にも残っていて重だるい。寝る前は最高の気分だったのにその余韻は遥か昔の出来事のように遠かった。
母に締め上げられた首に手をやってみる。いくら現実感のある夢と言っても所詮は夢で、こうして起きて思い返すと夢の中で感じていた息苦しさや痛みはやっぱり現実には及ぶべくもなかった。
いつもはギリギリまで
肩が触れ合うくらいの距離まで近づいた。いつもなら風斗が愚にもつかないことを俺に言ってきてそれに俺が返答代わりに軽く小突いて、というパターンなのに風斗は微動だにしない。俺の存在に全く気づいていないみたいだった。それに腹が立つことはない。しょっちゅう弟に怒ってはいるが、こいつが余計なことをしなければ俺だって殴ったりしない。
まだ頭が起きていないのか、お互い何も喋らなかった。どれくらいの間そうしていただろう、あんなに陰鬱な夢を見たというのに随分穏やかな心持ちだった。悪夢の印象はまだ引きずっていたけど、その内容は急速に自分の中から薄れて霧散していくようだった。日差しの明るさ、部屋の空気の質感、床を踏み締めた足にかかる重力が、昨夜見たものはあくまで夢なんだという実感を後押ししてくれた。
視線の先の海面は小さく規則的に揺れていて、空との境界線が遠くでくっきりと分かたれていた。夢の中でもそうだった。空と海は溶け合わない。そんなもの、ここから見るから触れ合うように思えるだけで、実際には上下の距離は離れているんだからから当たり前だ。天と地が重なり合うわけがない。
空と海、青は青でも違う青だよなと考え、いつかの国語の授業で習った短歌がふと心に浮かんだ。白鳥やかなしからずや空の青海のあをにも染まず漂ふ、詠み人の名前は忘れた。とにかく静かだった。海も、部屋も、俺も弟も。
沈黙を破ったのは風斗の方で、微かに
普段は他人が聞いたら眉を潜めるような暴言だってぶつけられるのに、今日に限って言葉が出て来なくて、ただ「ああ」と答えた。俺以上に風斗の調子がいつもと違いすぎる。前もこんな風になった時があったな、まで思考して、ようやく思い至る。
「あのさ……昨日、もしかして、母さんの夢見たか?」
双子じゃあるまいしオカルティックなシンクロを感じたことはこれまでなかった。でも今日に限っては「もしかしたら」という思いに駆られた。
風斗は何も言わなかったが、一瞬目を見開いて、何度か瞬きをした。何も言わないことこそが質問への肯定の証だった。
二人して同じ晩に亡き母親の夢を見るなんて、ささやかだが俺達にとっては一生ものの体験かもしれないと思った。夢の内容自体は散々だったが。
風斗が見たのなら、俺と違って悪夢じゃないんだろう。楽しい夢を見て、溺れるほどの愛情を受けていた頃のことが思い出されて寂しくなってしまったのかもしれない。方や死を覚悟するほどの悪夢、方や郷愁の気持ちを刺激される良夢。どちらも母の本質で、どちらかしか知らない俺達は、心の大事な部分が大きく欠落している。それが不幸だとは俺は思わないが。心の形が
俺はいつだって正直でいたくて相対する人によって悪人になったり善人になったりしたくないと思っているのに、実際の振る舞いはそれと真逆で、いずみには優しくできるのに風斗に対しては自分でも理不尽だと思うような態度を取ってしまう。母と同じことをしたくない、あんな人間には絶対にならないと思っていたはずだったのに、側から見れば俺と母は同じ種類の人間だろう。
だからせめて、風斗と離れたいと思っている。物理的に距離を空けてしまえば、心乱されたり暴力を振るったりしなくて済む。上辺だけでも今よりマシな人間になれる気がしている。
口を開いたことで喉の渇きをやっと自覚して、俺は電気ポットに残っていた水を飲んだ。風斗にも注いでやった。幸い昨日の酔いはほとんど残っていない。寝汗に塗れた俺はサッとシャワーを浴び、風斗も身繕いを済ませて二人連れ立っていずみ達の部屋に向かった。
扉をノックするといずみが出た。もう着替えは済ませていたが、少し浮かない顔をしていた。何かあったのかと問う前にいずみの方から理由を話してくれた。
「美咲が戻ってこないの」
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