両親共に風斗には甘かったけど、母の溺愛の仕方は今考えても異常だったと思う。風斗を泣かせるもの、困らせるものに対しての敵愾心てきがいしんが強かった。

 俺は自分で言うのも何だけど病気知らずで運動も勉強もそこそこできるタイプで、年齢の割には目端が効いて要領が良い子供だった。親目線から見ると、手がかからないのは良いけど可愛げはなかったかもしれない。

 母は何にでも世話を焼きたがるタイプで、俺との相性はあまり良くなかった。放っておいても自分でできることまで口も手も出そうとしてくる母のことを、たまに重たく感じた。

 そこに、風斗が生まれた。

 風斗は生まれた時の体重も軽めで見るからに弱々しくて熱を出しやすくて、赤ちゃんの頃は特に目を離せない状態だった。母は俺にできなかった分を取り返すように甲斐甲斐しく世話をして、俺に対する過剰な視線はそれを正に必要としている風斗にたっぷり注がれて、俺はやっと息ができるようになった。

 でも風斗だって成長する。幼稚園に上がる頃には、まだちょっと病弱ではあるけど生まれたての赤ん坊ほどではない、くらいにはなった。それでも母は風斗をかまいたがった。乳飲み子の時と同じように先回りして障害となるものは取り除いて、風斗の望むことは全て叶えようと躍起になっていた。俺のおもちゃを欲しがるなんてのは簡単に実現できる部類のことだから、俺の持ち物はいつ風斗に取られても良いものとして扱われた。風斗にはろくに操作もできない、内容も理解できないゲームですら簡単に所有権を放棄させられた。自分のものだったはずのものに、弟に許可を得ないと触れさせてもらえなくなった。俺は屈辱という言葉の意味を知った。

 事なかれ主義な父は母を怒らせるのを怖がって、何の抵抗もせず母に従った。家の中には敵しかいなかった。

 異様な母は外面の良さも異様で、世話焼きで仕切りたがりな性質を最大限に発揮して活躍していた。PTAの面倒な役職を喜んで引き受け、町内会の活動にも精力的に参加し「素敵なお母さん」として人気だった。見た目も小綺麗にしていたからよく羨ましがられた。先生が母のことを褒めるたびに俺は吐き気を堪えて口の中を噛んでいた。

 親の威光と俺自身の立ち回りの上手さで、いじめに巻き込まれることは皆無だった。認めたくないけど、そういう要領の良さは確実に母譲りだと思う。

 反面、風斗は父親譲りの気の弱さと両親の精力的な甘やかし育児が実を結んで、空気の読めない小太りの薄ら馬鹿になった。

 子供の世界は良くも悪くも素直で残酷だ。風斗は小学校に上がる頃には男子からも女子からも疎まれるようになった。

 もちろんそれを母が許すはずもなかった。風斗が青あざ作って泣いて帰ってきた日の翌月には、手を出した児童は転校した。一向に逆上がりができない風斗のことを皆の前で笑いものにした担任教師は、二学期の途中で体調不良を理由に休職した。普段の活動で築き上げた人脈と地位を駆使して風斗の敵は徹底的に締め上げ、追い詰め、排除した。逆に少しでも風斗に優しくする人間がいれば俺なんかに対するよりもよっぽど尽くして面倒を見た。かと言って、それで風斗にちゃんとした友人ができるかは別だった。子供は良くも悪くも正直だ。いじめがなくなった代わりに、みんな風斗じゃなく後ろに控えている母の顔色を窺って一定の距離を取るようになった。

 放任という名の無関心を決め込んでいた父は、俺が火傷させられた件でさすがに目が覚めた。目が覚めて——自分だけ逃げ出した。俺が小学校を卒業する前に両親は離婚して、それから父とはろくに顔を合わせていない。寂しいどころか、敵が減っただけマシだと思った。

 こんな環境で暮らして、風斗が化け物に育つのは時間の問題だと思っていた。でも、そうはならなかった。世の中何が起きるかわからないものだ。

 母はある日、交通事故であっさりとこの世を去った。悲しみや喪失感よりも、どんな人間も死ぬ時は死ぬんだなという無常感ばかりが残った。俺が二十歳、風斗が十五歳の時だった。

 成人している俺はともかく、風斗を父が引き取ることはなかった。養育費もろくに払わない人間だから納得だった。葬式に少しばかり顔を見せて、父とはそれきりだ。以来、俺達は二人暮らしをしている。

 生活費と風斗の学費を捻出するために俺は大学を辞めて就職した。母の死亡保険や遠方の祖父母の援助だけじゃ足りなかった。正確には俺の学費はギリギリ間に合いそうだったが、風斗に“譲らないと”いけない気がした。もう母はいないのに、優先権は風斗にあるのだという刷り込みから逃れられないでいた。身長百五十くらいの小柄で華奢な女に対して、骨の髄まで恐怖心が染みついてしまっていた。母が生きていた頃は、俺の方が力でも身体のデカさでもとっくに上回っていたのに、逆らおうとすると身が竦んでいた。その都度背中の痛みが蘇る気がした。その恐怖は死んだくらいじゃ消えることはなかった。これは今でもそうだし、これからもそうなんだろうと諦めている。だから、俺は風斗に「ちょうだい」されたら差し出さずにはいられない。それが何であっても。

 起こってほしくないことだが、もしいずみのことを「ちょうだい」されてしまった時、毅然と断れる自信が俺にはなかった。絶対に嫌だ、それだけは許さないと頭では思っている。でも、これまでの人生で刻まれた呪いは、簡単に自分の心を折るし縛る。それを直視するのが怖かった。

 だから、美咲の存在が心底有難かった。彼女には悪いが、風斗の目をいずみから逸らしてくれている間は俺は心穏やかでいられる。身勝手なのはわかっているが、俺が風斗と離れて暮らすようになるまでは美咲に恋人ができませんようにと密かに願っている。

 母の死後、甘やかされ倒されていた風斗を「ワガママで甘ったれだがぎりぎり社会で生きていけそうな男」にまで何とか矯正できたのは不幸中の幸いだと思っている。トロくさくて空気を読むセンスが無いのは相変わらずだけど、生来の素直さと一定の学力のおかげである程度再教育できた。何故かこんな俺に懐いているのも大きかった。ガキの頃から今に至るまで、どんなに小突き回しても兄ちゃん兄ちゃんと後ろを引っ付いて回る。

 まだまだムカつくところも多い奴だけど、多少の思いやりも身につけてきた。これから人生経験を積んだらもっとマシになるはずだ。むしろそうなってくれなくては困る。風斗のため、だなんて殊勝な気持ちじゃない。真っ当な人間として自立して、俺に関わらないどこか別の場所で生きるようになってほしかった。俺のものを欲しがらなくても、自分で手に入れられるように。もう俺が譲らなくても良いように。俺から断ることができないから、風斗の方から求めないようになってほしかった。なんとかバイト先に馴染んできたことでそれが実現しそうなのだけが未来の希望だった。


 誰にも、いずみにも言えない本音だけど、母が死んでくれて良かったと思っている。もしも母が生きていたら、俺の人生は今よりは学歴はあっても雁字搦めで暗い道だったに違いない。

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