到着、逃げられない
到着
その後の道中、渋滞には一度もかからなかった。
風斗を始め誰も居眠りすることなく車内の会話はテンポ良く弾んだ。風斗が何を話しても美咲がニコニコと聴き、いずみもそれに乗って会話を広げてくれるおかげだった。俺の逆立っていた神経は徐々に落ち着いて運転に集中できた。風斗の体調について思うところはあるけれど、今すぐどうこうというものではなさそうなのでこの旅行が終わってから考えることにした。手のかかる弟に心を砕くより、目先の余暇を満喫したかった。
何者かが俺達を導くかのように全てがタイミング良く流れ、想定より一時間以上早く磯乃荘に到着した。
美咲にアドバイスされていた通り現地はやや気温が低く、一日中快晴だったはずなのに長袖一枚では少し肌寒いくらいだ。ちゃんと上着を持って来て良かったと思った。
磯乃荘は三階建てのこぢんまりとした建物で、全体的に黒で統一された佇まいだった。海風に晒されているにしては褪せた印象はなく、屋根も壁も清潔感と瑞々しさがある。客室数は十数室ほどだそうだ。
地図アプリで見て想像していたよりずっと海が近く、旅館の前の通りを南西に進むと港前広場に出るようだった。明日は屋台がその広場に並び、祭りの船もそこから乗るらしい。反対の北東側はこちら側から見るとやや上り坂になっていて、木の陰になっていて見えにくいが少し折れ進んだ先に丘があり、御磯様とやらの祀られている社が建っているとのことだった。時間があったら見てみたいが、行くにしても明日になりそうだ。今日は運転でほとんど体力を使ってしまった。
駐車場に停まっている車のナンバープレートは全国各地から泊まり客が来ていることを示していた。空いている駐車スペースも少ない。予約があまり埋まっていないと聞いていたから意外だった。それどころか人気旅館じゃないか。改装してそんなに経っていないのかアスファルトの色は濃く、車止め部分も綺麗だった。高級感とはまた違った「ちゃんとした」場所だというのがそこかしこから感じられて、本当に格安で泊まらせてもらって良いのかという気になった。
「いらっしゃい。遠いところから皆さんようこそ!」
「ただいまあ!」
「お世話になります」
「よろしくお願いしますー」
「お願いします」
出迎えてくれた女将さんに皆口々に挨拶をする。
「何もない村ですけど明日の祭りは賑やかになりますから、皆さん楽しんでってね。屋台も美味しいのよ。もちろんウチのお食事も最高ですけど!」
女将さんは顔も眼鏡も丸い小柄な中年の女性だった。美咲と並ぶと目元が似ているのがよくわかるし、纏った雰囲気にも共通するものがあった。少し話すだけでも朗らかで人懐こくて、もっと話をしたいと思わせた。
「パパは?」
「御供物用の荷物を船に運んでるところ。あんたも後で手伝いに行きなさい」
「わかったー」
フロントには俺達以外の客はおらず静かだった。
受付で台帳に記入すると、美咲が客室まで案内してくれた。いずみと美咲は隣の部屋に泊まるということで、部屋の前で別れた。
三階の客室は古い作りながらも手入れのされている和室だった。畳は光沢があって、毛羽立ち一つない。年季の入った椅子とテーブルが置かれた広縁の向こうの窓から、見事なオーシャンブルーの夕焼けが望める。思わずため息が漏れる。
「わー! すげえ!」
風斗は子供のように歓声を上げた。長丁場の運転で疲れを感じていたけど、この景色だけで来て良かったと思えた。いつもコンクリートに囲まれて生活しているから、海が近くに見えるだけで「遠くに来たな」と感じられる。
荷物を降ろして二人して座卓に腰を落ち着ける。茶菓子が用意されているのを風斗が目ざとく見つける。
「兄ちゃん、これもらっても良い?」
風斗は人数分の茶菓子を自分の方に引き寄せて、申し訳程度に申し訳なさそうな顔をしてみせる。俺がNOと言わないのを知っていて聞いてくる、そういうところがカンに触るんだよな。ささやかな抵抗として風斗の頭を一発しばいてから許可した。よくある一連の流れなものだから「いってえ!」と叫ぶ風斗の声は軽い。絶対に痛いと思っていない。風斗はその後におざなりに礼を言ってから、美味そうに饅頭を頬張った。
「夕食前にさ、早速温泉行こうよ」
「は? 俺は行かねえよ。温泉は入らない」
「えっ、せっかく来たのに? 入らないと勿体無いよ! 珍しい海水温泉だよ?」
食い下がる風斗に悪気は一切なく、心の底から「兄と温泉を楽しみたい」と思っているのがわかるだけに苛立った。俺が温泉に入りたくない理由を一応知ってはいるが、こいつの中では大したことじゃないらしくこうしてしょっちゅう誘ってくる。その無垢さに俺は顔を背ける。
「うるせえなとっとと行ってこい! 晩飯は十八時だからそれまでに戻って来いよ」
強めに風斗の肩を叩いて問答無用で部屋から追い出した。一人になるとささくれ立った気分はすぐに落ち着いた。テレビを付けるとローカル番組が流れていた。知らない出演者が、近場の店のグルメ情報を紹介している。見るもの聞くものが物珍しくて新鮮だ。慣れない景色が自分の心境を非日常に逃がしてくれる。さっきも思ったが、来て良かった。
今の風斗は多少小突いてもガキの頃みたいにすぐに泣いたりしないだけ、まだマシだなと思う。俺はイラついたら即暴言暴力を弟に浴びせる。良くない癖だという思いと、それくらいしても許されるだろという気持ちが同じだけある。
お茶を淹れていると扉が叩かれ、いずみが入ってきた。
「あれ、いずみは温泉行かないの?」
「美咲が明日のお祭りの打ち合わせに行っちゃってさ、晩御飯食べて美咲が落ち着いてからにしよっかなって。一人で入るの寂しいし。風斗くんはもう入りに行っちゃった感じ?」
「今行ったとこ。やっと静かになってホッとしたよ」
「ふふ、そっか」
いずみの分のお茶を淹れてやる。茶菓子を風斗に渡すんじゃなかったなと少し後悔した。いずみは受け取った湯呑みを両手で包み込み、そっと一口飲んだ。
「じゃあ今なら誰も来ないね。背中流してあげよっか?」
いずみがバスルームの方を指しながら悪戯っぽく笑う。
「んー……今は良いや。ありがとな」
「わかった」
いずみはそれ以上食い下がってこない。冗談でも、あまり絡まれたくない話題というものはある。その塩梅を察するのがいずみは上手いなと思う。
いずみは俺が何故温泉に入りたがらないのか、他人に肌を見せたくないのかを知っている。過度に同情することなく、軽く笑い飛ばしてくれる。
俺の背中には大きな火傷痕があるのだ。それそのものよりも、火傷痕を見てショックを受けられたり心配されることが鬱陶しかった。嫌がられる方がまだマシで、慰めや優しい言葉をかけられてしまうと、この傷跡が深刻で可哀想なものなんだと意識してしまって嫌だった。
これまで付き合った女性達の反応も大体が優しさから来る同情で、気遣いは有り難かったけど同じくらいしんどかった。こんな傷どうってことない、平気だ、心配しないで、とこちらが逆に慰めなくてはいけないのが面倒だった。
いずみだけは違った。「今も痛いの?」と一度聞いてきて「たまに痒いかなってくらいで日常生活に支障はない」と答えると、「ふーん」とだけ返ってきた。それからは見ないようにするでもなく、触る時は触るしデカいホクロくらいにしか感じていないようだった。かといって「誰も気にしないよ」などと無理に肌を晒すよう強制してくることもない。この距離感が心地良かった。だから、いずみの前でだけは肌を見せることに抵抗がなくなった。
火傷した理由を、家族以外ではいずみだけが知っている。
俺が五歳の頃、風斗が生まれた。俺は嬉しかった。両親は当たり前に風斗を可愛がっていて、当時は俺だって同じくらい風斗が生まれたのを喜んでいたんだ。弟ができて「お兄ちゃん」というものになれて心底誇らしかった。俺のお気に入りのおもちゃをベビーベッドで眠る風斗の枕元に並べてやったりした。欲しがるものは何でも譲った。お兄ちゃんだから。親もそれが当然だと言っていた。
でも、風斗がちょっと大きくなって自分の意志でアレが欲しいコレが欲しいと言い出すと、流石に全部は譲ってあげられなくなってきた。でも風斗は相変わらず「お兄ちゃんの持っているものは良いものに違いない」と思っていてわざわざ俺の持っているものばかり欲しがった。
俺が十歳のクリスマスに、サンタからプレゼントをもらった。当時流行ってたアニメのフィギュアだ。テンションぶち上がるくらい嬉しかった。別のおもちゃをもらっていたくせに、風斗はいつもみたいにそれを欲しがった。でもさすがに俺は拒否した。絶対に嫌だった。風斗は火がついたように泣いた。弟を泣かせるなんて悪い兄だなってちょっと罪悪感を覚えた。
はっきり覚えているのはそこまでだ。
気がつくと、俺は思い切り突き飛ばされていた。今ではほとんど見なくなった石油ストーブが、その頃はまだ現役で家にあり、俺が突き飛ばされた先にあった。
痛かったし熱かった気がする。風斗よりもデカい声で泣いた気もする。でもそこだけ別人の記憶みたいに遠いんだよな。
ただ、怖かった気持ちだけは強烈に身体の芯まで刻まれて、傷がじくじく痛むと嫌でも思い出してしまう。
風斗の強請りを断ることが怖いと思う。
母さんが怖くて憎くなる。
俺を突き飛ばしたのは、母さんだから。
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