3、想痛-そうつう-
小学校四年生の時、俺は母さんの再婚で都会に引っ越した。
引っ越す前日、幼稚園に入る前からずっと一緒に過ごしてきた幼なじみと、「またね」と言ってお別れをした。
新しい父さんは、俺と対等に向き合ってくれる人。
俺にとって尊敬できる人だ。
お別れの寂しさも、クラスメイトの顔さえぼやけるほど楽しい日々。
あれから八年、父さんの転職で再び地元へ戻ることになる――。
三月中旬。一週間前に新築マンションの五階に引っ越してきた。
高校三年生を前にして地元に帰るなんて、思いもしなかった。
ベランダの柵に腕を乗せて、久しぶりの故郷を眺めてみる。
前は寂れた商店街だったのに、今じゃ真新しいビルが並ぶ。
都会ほどじゃないけど、人通りがあるし、マンションの前と裏にコンビニがある。
「八年かぁ……」
ふと、引っ越し前に「またね」と言ってお別れした幼なじみを思い出した。
元気にしてるかな。
時間はたくさんあったのに、一度も連絡を取っていない。
はぁ、今さら過ぎて自分が嫌になる。
気晴らしにちょっと外を歩こう。
小学校の時に入り浸ってたゲーム屋さん、今もあるかな。
「母さん、ちょっと散歩行ってくる」
そう言うと、母さんは少し目を丸くさせた。
すぐに眉を下げて柔らかく笑う。
「行ってらっしゃい。あんまり…………寄り道して遅くならないようにね」
「うん」
マンションを出て、駅前通りの商店街を歩きながら思い出を辿る。
以前あった服屋は美容室に。
文具店があった場所は古民家カフェに。
「あれっ」
間抜けな声と一緒に立ち止まった。
商店街の並びにゲーム屋さんがあったはず。
確か店の外にガチャガチャがあって、入り口はいつも開けっ放しで、店のおじさんがいつもニコニコしていたんだ。
なのに、今じゃ黄色く塗られた壁と「街のタイカレー屋さん」という看板に変わっていた……。
看板の角に、緑色のカエルがちょこんと座っているだけ。
八年が重くのしかかる。
みんなでわいわい遊んでいたあの放課後が、どこにも見当たらない。
肩が異様に重く下がってしまう。
体の輪郭をなぞる春の風が、少し冷たく感じた。
「……」
コンビニに寄ってから帰ろう、そう思って顔を上げた――同時に乾いた音が、どこからか響く。
多分、ギターの音色だろう。
看板に座っていたカエルが勢いよく飛び降りた。
ぴょんぴょん跳ねて、古民家カフェの角へ。
角から先を覗くと、自動車一台分の細い道が続いている。
その先に古いテナントが隠れていた。
弾き語りなら人通りの多い駅前でするものだと思っていた。
一体どんな人が弾いているのか、少し興味が湧いて奥に進んだ。
路地には三つのテナントが連なり、真ん中に居酒屋。左右は『テナント募集』の広告がシャッターに貼られていた。
居酒屋のシャッターが中途半端に下りて、入口の横にあるベンチに、少女が座っていた。
黒髪を下目の二つ結びにして、前髪はサイドに寄せてヘアピンで留めていた。
何より印象的だったのは、アコースティックギターを抱えていたこと。
弦を引っ張ったり、細い部分をいじったりして、目が少し不機嫌そう。
不思議と初めましてじゃない気がして、足が止まる。
アスファルトの欠片を引っ掻いた音が靴裏から鳴った。
すぐに少女と目が合った。
「あっ」
静かだけど、鋭い眼差しだ。
細長い黒い瞳が俺を見た瞬間、大きく開いた。
まるで、俺のことを知っているような……。
「冬夜?」
彼女は間違いなく俺を知っている。
「えっ」
ギターをベンチに置いて、少女は早足で詰め寄ってきた。
線の細い輪郭が目の前にいる。
俺はなんとか唇を上向きにさせた。
近い、近すぎる……思わず目を逸らしてしまう。
「もしかして、覚えてないの?」
眉を軽く歪め、目を伏せた少女。
俺も、彼女を知っているはずなのに――すぐに思い出せないなんて、申し訳ない気持ちになる。
だけど、さっきから胸の奥にあるもしかしてが――「冬華?」と声に出た。
人違いじゃないことを祈る。
少女は眼差しを弱めて笑った。
彼女の反応に俺がホッと口元を緩めた瞬間、少女の唇はキュッと閉ざしてしまう。
「久しぶり。また会えるなんてね、嬉しいよ」
再会を喜んでいるようには思えない口ぶり。
少女は背中を向けて、ベンチに座り直す。
田丸冬華——「またね」と言って別れた幼なじみだ。
八年前の面影が全くない。
俺が知っている冬華は引っ込み思案であまり主張しない子。
冬夜と冬華、名前が近いからクラスのみんなによく双子だのカップルだの揶揄われていた。
「前と雰囲気が違ってたから、びっくりした。すぐに気付けなくてごめん……あの、父さんの仕事が変わって、その」
「いいよ別に、冬夜は変わってないね」
冬華はギターを握り締め、また細い部分を触っている。
「えーと、そのギターどうしたの?」
「音の鳴りがちょっと変なんだよね」
淡々とギターに触れながら返してくれる。
ただ、思っていた答えと違う。
「……いつから、ギターを始めたの?」
「中学の時」
短い返事だけだ。
どうしようもなく分厚い壁を感じてしまう。
「えっと、えーと……冬華はどうしてギターを始めたの?」
俺の質問に、乾いた音が深く染み込むように広がった。
左手で弦を押さえ、右手で弾く。
数秒ほど奏でたあと、小さく頷いた。
「よし――お父さんの形見。中学の時に死んで、それから」
一瞬、頭の中が鈍くなった。
口がうまく動いてくれない。
「え……ど、どうして?」
躓きながら、なんとか声を出した。
そんな、そんなの聞いてない。
母さんなら知ってそうなのに、なんで教えてくれなかったんだろう。
「事故」
冬華の指先が柔らかく弦の上を動き回ると、音が重なり合い、曲になっていく。
胸を空っぽにさせる寂しい音色に感じる。
引くほど上手い演奏と、突然の訃報に頭の中がごっちゃになってしまう。
「あの、とう――」
「田丸!」
横から少し雑な呼びかけが割り込んだ。男の声だ。
冬華の口元が少しひくついたように見えた。
声とは反対に視線を逸らす彼女の代わりに、男を見た。
ぱっと目に入ったのは、モデルのように細く長い体と金髪のソフトモヒカン。
ギターを背負って、ポケットに手を突っ込んでいる。
長身から見下ろされる圧迫感に喉が詰まってしまう。
なんだこの人……。
「探したぜ、連絡無視すんなよなぁ」
横柄な言い方。聞いているだけで気分が下がる。
「こいつは?」
顎で俺を指す。
「……アンタには関係ない」
冬華はギターをケースにしまいながら答えた。
男は剃り込んだ髪の後ろを掻き、眉を顰める。
「あっそ。なぁこの前の話、なんで蹴ったんだよ。せっかく俺が紹介してやったのにさ、良い条件じゃん」
冬華は小さく息を吐き出し、男を鋭く睨む。
「まさか馬場城、私の演奏が同好会レベルだと思ってる?」
なかなかに尖っていて、自信に満ち溢れた言葉だ。
蚊帳の外にいる俺の背中が、ぞくりと震えあがってしまうくらいに強い。
馬場城という男は歯を剥き出しに表情を歪ませた。
「はぁっ!? あいつらがどんだけ有名か知ってんだろ?! フォロー数だって何十万だ!」
大声で怒鳴るようにSNSの数字うんぬんを言い出す。
でも冬華は全然興味がなさそう。
とはいえ彼の言動と態度は最悪だ。
詰まっていた喉が開く。
「ねぇ――」
「馬場城——」
同時だった。
冬華はゆっくりベンチから離れる。
ギターケースを片手に、俺の隣に立つ。
「ちゃんと練習したら? それ、飾りじゃないんだからさ」
俺の手首を、細くもゴツゴツと硬い指が掴んだ。
女子の手ってこんなに硬いの?
一瞬そんな気持ちが過ってしまった。
「う、うるせぇ! まだ話終わってねぇぞ! 田丸、あとで絶対部屋に来い!」
冬華の指摘が少し効いたみたいで、声色が焦っているように見えた。
馬場城さんに、うんざりといった顔色を向けた冬華は、
「行かねぇよ、ばぁーか」
冷静な口調で煽った。
ただ口をぱくぱくと動かす馬場城さんを置き去りに、俺は冬華に引っ張られながら表の道に出た――。
曲がり角に入ったところで、冬華の指先が離れた。
「ごめん。しつこい奴で……」
冬華は少し目を伏せて呟いた。
いきなり割り込んできたあの人が悪いんだ。
冬華のせいじゃないのに……。
俺は首を振って、笑ってみせた。
「ううん、大丈夫だよ。さっきの人は先輩?」
馬場城さんと一体、どういう関係なんだろう。
「仲間だった奴。私がギター始めた時、いろいろ教えてもらった。あれでも同い年」
同い年? 俺は思わず目を丸くさせた。
身長が高いのもあるけど、先輩風を吹かしていたからてっきり先輩かと。
「えぇっ全然見えない……」
静かに笑みを浮かべる冬華。
つられて俺も口角を緩めた。
駅前の商店街で立ち止まっているのもなんだし、俺はコンビニを指した。
「コンビニ寄ってもいい?」
冬華は静かに「いいよ」と返してくれる。
横断歩道を渡り、向かいのコンビニまで歩く。
「冬華はどこの高校に通ってるの?」
「通信制。ギターしながらバイト」
音楽を中心に生活しているみたいだ。
「そっか……プロ、目指してる感じか」
冬華は小さく「ははっ」と乾いた感じに笑うだけ。
コンビニに入ると、冬華は真っ先にATMへ。
店内にいる他のお客や店員の視線が、冬華に集まる。
一見冷たい印象のある横顔は、硝子みたいに繊細で綺麗だ。
奇異な目というより、つい惹かれて見てしまう感じだろうか。
ドリンクとお菓子を買ったあと、飲食スペースに寄らずに外へ出た。
冬華は紙パックのリンゴジュースを、ストローで吸う。
眼差しは遠くを見つめている。
目で追ってみても、どこかは分からない。
ストローから唇が離れ、冬華は細長い瞳をこちらに向けた。
「冬夜、ギター弾いてみない?」
突然の提案に、俺は身じろいでしまう。
「えぇ、俺音楽なんてしたことないよ」
「私が教える。最初のコードは複雑じゃないから」
俺は頬をかいて、ちらっと冬華を見た。
返事を待つ彼女の視線は、また遠くへ。
俺は何度か頷いた。
「まぁ、冬華が教えてくれるなら」
「おし、じゃあ早速、家に来なよ」
――八年ぶりの田丸家にやってきた。
母さんに送ったメッセージの返事は『遅くならないようね』という言葉だけ。
「入って」
静かなトーンの口調で手招く冬華。
「お、お邪魔します」
久しぶり過ぎて全身が強張ってしまう。
いくら幼なじみとはいえ今さっき再会したばかりなのに、部屋に上がっていいのか悩む。
なのに冬華は、全く気にする様子もなく二階に上がっていく。
玄関にぽつんと取り残されてしまい、恐る恐る二階にある冬華の部屋に向かう。
冬華の部屋で覚えているのは、ゲームと絵本の世界だ。
お互い持ち込んだゲームソフトで遊んだり、絵本の読み合いをしていた。
今も残っているんだろうか、少し不安がよぎる。
扉を開けて、冬華は「どうぞ」と顎を指す。
背筋を固めて部屋に踏み込んだ。
部屋は、ギター数本と空っぽの本棚。それから楽譜の束が机に積み上がっている。
ノートPCの上にも散らばり、部屋が音楽で満たされていた。
ここが、冬華の部屋? 思わず彼女を見つめてしまう。
冬華は腰に手を当て、軽く息を吐く。
「これでも結構片付けたほう」
僅かな期待が跡形もなく消えていた。
俺はただ頷き返すことしかできなかった。
「テキトーに座って」
そう言いつつ、冬華はイスを持ってきてくれた。
冬華はベッドに腰かけ、数本のうちの一本を掴む。
「ごめん安物。まぁ練習用ってこと」
安物と言われても、素人の目だとちゃんとしたアコースティックギターに見える。
手に取ってみると、思っていたより大きい。
こんなのを冬華は軽々と扱っているなんて……。
冬華のシンプルにざっくりした指導を受けながら、弦のチューニングと簡単に抑えやすいコードを教えてもらった。
弦に少しでも当たると、控えめながらも確かに音が鳴った。
冬華が弾くと意思を持ったように明確な音が鳴った。
正直、良いものと安価な物の違いは分からない。
なのに冬華が弦に触れると明らかに違う。
驚いたのは弦を押さえた時、意外と硬かった。
半時間練習しただけで、もう指の腹が赤い。
薄っすら、弦の輪郭が残る。
「……」
さっき、外で手首を掴まれたあの感触を思い出す。
「冬華って、毎日ずっと、ギターを弾いているんだよね?」
「まぁね」
「俺……ちょっとしか弾いてないけど、尊敬してもいい?」
冬華は眉を下げて、優しく笑ってくれた。
「好きにしなよ」
八年が遠くなるほど分厚い壁になっていて、俺は曖昧に笑うしかなかった。
彼女の痛みを、分かち合うことができないんだ。
その事実が、指先の痛みよりも鋭くさせた。
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