2、ワンルームの静けさ

 曇りのち晴れ? 空から落ちてくる滝のような雨を、バスの窓越しに睨んでしまう。

 予報通りが続いていたから、念のためを忘れていた。

 コンビニで傘を買うなんて、社会人のような余裕の行動は難しい。

 うんざりするほどの雨量を前に、降りた時のことを考えると嫌になる。

 降りる前にブレザーを畳んで、カバンに入れる。

 時刻は午後四時を回ったばかり、止みそうにない雨——道路の端でライトを点滅させる車の列と、乗り込む生徒たちの姿が見えた。

 咄嗟に窓から視線を外し、微かな息をつく。

 背もたれに体重を預けた。

 通路を挟んだ隣の席が目の隅に入り込んできた。

 小太り気味の男が鼻息荒く座っている。

 男が握りしめるレジ袋から、薄っすら透けて見えるアルコールの缶。

 ジッとスマホを見続けて、何度も人差し指で画面を叩いている。

 私は居心地の悪さを思い出し、目を逸らした――。

 

 

 次のバス停で降りると、無数に跳ねる雨粒が波のようにうねっていた。

 ここからアパートまでは走れば三分ほどの距離。

 私は唇をギュッと閉ざす。

 カバンを頭にかざして、ぼやける雨の中を駆け走った。

 傘代わりにしても意味がない。

 肌にはりつく制服と、撥水が追いつかないほど重くなったカバン。

 髪もべたべた……。

 早くシャワーを浴びて、バイトの準備をしないと。

 アパートの一階、階段手前が私の部屋。

 たくさんの人に助けられ、手にした私の居場所――。


「ブエッショォ!!」

「えっ」


 あまりにも豪快なクシャミに鍵を落としてしまう。

 コンクリートの床を跳ね、金属の擦れる音が鳴った。

 ビックリした……。

 落としたカギの側には、小さな緑色のカエルが座っていた。

 正確にはニホンアマガエル。近くの田んぼから来たのかもしれない。

 身を屈んでカギを拾うと、カエルは軽く前に跳ねた。

 ついカエルを目で追う。軒先の隅、フェンスで外から見えない場所に誰かが座り込んでいるのが見えた。

 このアパートの関係者ではなさそう。

 年齢もおそらく私とそう変わらない。

 パーカーとスカートの内側にジャージをはいて、足元は――素足。

 目の中の輪郭が薄っすら暗くなり、彼女だけがハッキリと視認できた。

 服は雨に打たれて暗く、重く染み込んでいた。

 彼女が座る地べたの周りも、水で色が深くなっている。

 どうして見知らぬ少女が、アパートの隅にいるのか。

 カギが手のひらに食い込んだ。

 このまま無視をしたっていいの。

 私は、私の事で手一杯――。


「ねぇ」


 そのはずだった。

 私の声帯は、理性を通り越す。


「あぁ?」


 予想外に彼女の返事は粗雑で、私を受け付けない言い方。


「こんなところでどうしたの?」


 ゆっくり、距離を測りながら寄っていく。


「アンタに関係ない」


 そう言われても、髪はずぶ濡れで今も毛先から滴っている。 

 困ってると言ってくれれば、私も素直に動けるんだけど。 

 彼女の手元にあるスマホの画面は、蜘蛛の巣状に割れていて何も見えない。


「風邪、引くわよ」

「うっさいなぁ、こっちにくんな」

「私、篠川しのがわさと。ここのアパートで独り暮らししてるの。アナタは?」


 距離をそこそこに、私は腰を屈めて微笑んだ。

 彼女は眉にシワを寄せながら、視線を割れたスマホに向けてしまう。

 薄っすらと蒼くなった唇が開く。


「……翠香すいか。で、何? アンタ、風紀委員でもしてんの?」


 皮肉を言うように、彼女は鼻で笑う。


「ただの帰宅部よ。ここは風邪引くから、一旦中に入らない?」


 名前は翠香。

 私は胸を撫で下ろし、もう少し近づいた。


「……なんも持ってねぇ」

「そうね。私と話をしてくれたら、それで十分」


 翠香は傾げながらも、可笑しいとでも言いたげな苦笑を浮かべる。

 やっと腰を上げてくれた。

 彼女の服はぶかぶかで、余計にか細い体がハッキリする。

 改めて顔色を見ても、全体的に青白い。


「変な奴」


 初めて言われた……私はもう一度微笑んで見せた。

 お互いずぶ濡れで、これ以上外にいると本当に風邪を引いてしまう。

 ワンルームの部屋に翠香を招く。

 小さなキッチン、ベッドと机とダンボールがいくつかの部屋。

 翠香はキョロキョロと部屋を見回す。

 

「なんにもねぇー、引っ越したばっか?」

「いいえ、二年目よ。それより翠香、まずシャワー浴びてきて」

「え、いや……アンタの家なんだからそれは――」


 借りてきた猫のように体を縮めている。


「いいのよ。私は着替えがあるから」


 そう言って翠香を脱衣場へ促した。

 さて、今のうちに色々と準備をしないと。

 ダンボールの中から新品の下着と学校のジャージを取り出す。

 ふと、机に並ぶ化粧品に目がいく。


「……」


 別のダンボールの中に入れて隅に隠す。

 さすがに翠香を置いてバイトに行くわけにはいかない。

 店長に連絡を入れると、


『智ちゃんが休むの珍しいねぇ。今日はお得意さんからご指名来てないし大丈夫だよ。休める時に休んでおきな』


 タバコをふかす息の音も聞こえてくる。

 高級なソファでふんぞり返る店長の姿が容易に想像できた。


「ありがとうございます。失礼します……」


 シャワーの音が響くなか、私は洗濯用のカゴを掴んだ。

 ぶかぶかのパーカーと、スカート、ジャージのズボンが入っている。

 でも下着が見当たらない。

 軽く唇を噛んでしまう。

 比較するつもりはないけれど、一歩遅れていたら、もっと我慢していたら、私も同じように雨宿りをしていたかもしれない――。




 暖房をつけたワンルームで、翠香は床に座り込む。

 私もシャワーを終え、マグカップに注いだ温かいコーンスープを飲む。

 翠香の分も用意したのだけれど、彼女の両手の中で彷徨っている。


「結構美味しいわよ」

「ん……あー」


 私が声をかけて、ようやく啜る。

 口に入った瞬間、翠香は目を大きくさせた。

 その次には温度を忘れて飲み干すという、勢いを見せる。

 口の周りについたスープを舌で舐め取り、顔色は微かに赤く染まっていた。


「今日は雨の予報もなかったから……ついてなかったわ」

「へぇ、アンタ篠川だっけ、なんで一人暮らし?」


 私は視線をカップに落とした。

 

「智でいいわ。私も翠香って呼ぶ」

「いいぜ」

「ありがとう。訳ありで、親と別居中なの」

「あぁ……そっか。学生ってアパート借りられるもんなの?」

「普通は無理よ。たまたま理解のある大人に助けてもらったの。翠香はどうして、あそこに?」


 踏み込んでみると、翠香はマグカップを力強く握りしめる。

 軽く唸って俯く。


「……逃げてた。結構な雨が降ってきたおかげで、うまく撒けたんだ」


 言葉が深く沈んでいた。なんとか明るく済まそうとしている気がして、私は小さく頷く。

 

「じゃあ絶好の機会だったのね」

「あぁ、もういっそ死んだ方がマシだって思ってた」


 翠香は決して重く言おうとしていない。でも、私は否定も肯定もできなかった。

 

「余計なお世話だった?」


 そう訊ねると、翠香は目を丸くさせた。

 少しの間そっぽを向いたあと、ちらっと私を覗き見る。


「いや……なんていうか、助かった――ありがとう智」


 ボソボソと呟く言葉に、私は遅れて微笑んだ――。



 余分な布団もない、窮屈なシングルベッドに二人分。

 雨音がハッキリ聞こえてくる。

 翠香は天井を見上げて、ジッと睨んでいた。


「翠香、大丈夫?」


 私が声をかけると、翠香はこちらに体を向ける。

 シングルベッドだと顔も自然と近く、さすがに背筋が伸びてしまう。


「平気。あーでもちょっといろいろ考えてた」

「明日からのこと?」

「学校サボったし、バイトもすっぽかしたし……どうすっかなって」

「ねぇ、私を助けてくれた人が制度に詳しいの、もし翠香が嫌じゃなければ相談するのもありよ」


 翠香は腕を組んで唸る。


「うーん……」


 かなり長いことを唸っている。

 それからすぐに、翠香はだらんと力なく瞼を閉ざす。


「え、翠香?」


 突然過ぎて、訳が分からず私は体を起こして呼びかけた。


「すぅ――」


 寝息……。

 寝付いただけと分かれば、全身の力が抜けてしまう。

 一体どれぐらいの時間雨に打たれていたのか。

 死んだ方がマシ、と吐き捨てた翠香の言葉を思い返す。


 私は、このままだと死んでしまうと思って逃げた……。


 同じ生き方を強要はできない。

 それでもこうして安心してくれたなら――私の行動にも意味があったと思える。




 翌日、ベッドが広くなっていた。

 ぼんやりと眠気がとれないまま辺りを見回しても、翠香の姿はなかった。

 干した洗濯物も完全に乾いていたか分からないのに、パーカーもスカートもジャージもない。

 ワンルームが、空っぽのように静まり返る。

 ベッドから離れて机に寄っていくと、紙切れが目に入り込む。


『昨日までマジで最悪だったけど、智のおかげでちょっとは楽になった。本当にありがとう。また遊びにくる――翠香(カギはポストに入れといた、ごめん)』


 クスッと笑ってしまった。

 カーテンの隙間から差し込む外の明かりに目がいく。

 そっと開けると、体を包み込むような優しい日差しが降り注いだ――。

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