第3話 ❄️ ゲレンデの神話:2025年・如月裕一の挑戦
2025年12月1日 月曜日、午前8時
新潟県湯沢町、苗場スキー場。
如月裕一(33歳)は、新品のカービングスキーを肩に担ぎ、白い息を吐きながらゲレンデを見上げていた。暦の上では平日の月曜日。リフトはまだ閑散としているが、山頂からはこの冬最初の本格的な降雪を告げる銀世界が広がっていた。
「ここが、苗場…」
裕一の胸の高鳴りは、標高のせいだけではなかった。彼の人生のバイブル――1987年のあの映画の舞台。山頂の喫茶店、恋の予感、そして、セリカGT-FOURの疾走。裕一にとって、雪山は単なるスポーツの場ではなく、永遠のロマンスと冒険が息づく神話の地なのだ。
裕一が着ているのは、鮮やかなイエローのウェア。もちろん、劇中の主人公が着ていたものに近いデザインを再現したオーダーメイドだ。
「山を舐めるな、裕一」
背後から、低い声が響いた。師匠、草壁だ。
草壁は50歳手前。彼のウェアは白一色で統一され、余計な装飾は一切ない。彼の持つオーラは、華やかな苗場のリゾート感とは対極にある、孤高の職人のそれだった。元オリンピック候補で、現在は隠遁したスキーインストラクターとして、裕一に「本物の雪山」の厳しさを叩き込んでいる。
「師匠、お早いですね」
「お前が映画のセリフを心の中で反芻している間に、俺は既に雪の状態を確認してきた」
草壁は冷たく言い放った。
「いいか、裕一。雪山の神様は、ミーハーな奴には微笑まない。お前が憧れる彼らだって、そのロマンスの裏で、命懸けで雪と向き合っていた」
草壁は、裕一のイエローのウェアを一瞥した。
「今日のお前の課題は、神話から現実に戻ることだ。基礎滑走ではない。雪に語りかけ、雪の機嫌を理解することだ」
最初に向かったのは、まだ誰も滑っていない非圧雪の急斜面だった。
「カービング?コブ?そんなものは、雪が教えてくれる」
草壁は言った。「昨日からの冷え込みで、雪は極上のパウダーだ。しかし、その下には、昨夜圧雪した際の**硬い層(アイスバーン予備軍)**が潜んでいる。そこを理解せず突っ込めば、板が暴れ、お前は雪に突き放される」
最初のレッスンは「雪面と板の対話」だった。
「ターンをするな。雪に板を預けろ」
草壁は、まるで雪の上を浮遊しているかのように滑り降りた。エッジングは最小限。足首、膝、股関節のすべてが柔軟なサスペンションのように動き、板が雪の抵抗をなめらかにいなしていく。
裕一が真似をする。しかし、すぐに失敗した。
「ガチガチだ!板をコントロールしようとしすぎだ!」
草壁が叫ぶ。
「雪を信じるんですか?」
裕一は、パウダースノーに顔を突っ込みながら尋ねた。
「雪を信じるのではない。板と体が雪に対してどう反応するかを信じるんだ。映画の中の彼らは、恋を信じた。だが、その恋を成就させたのは、彼らがゲレンデで積み重ねた技術と経験だ」
草壁の言葉に、裕一はハッとした。彼は、憧れの主人公たちが、ただロマンチックだっただけでなく、トップレベルのスキーヤーであったことを思い出す。
「雪面は、一つとして同じ瞬間はない。風、気温、日差し…そのすべてが雪のコンディションを変える。お前がやるべきは、その瞬間の雪の機嫌を読み取り、板の踏み込みを1グラム単位で変えることだ」
裕一は、再び滑り出す。意識を集中し、ブーツの中で足の指先まで神経を行き渡らせる。雪が硬いと感じた瞬間、踏み込みを緩める。パウダーが深いと感じた瞬間、板の先端をわずかに持ち上げる。
まるで、板が自分の身体の一部になったように、雪の表情が読めるようになってきた。
正午。山頂の古いレストハウスで休憩をとった。
「午前中だけで、お前は3年分の滑りを改善した」 草壁は、ココアを一口飲み、窓の外の雪山を眺めた。
「危機感があったからだ。お前はこれまで、雪山を遊び場だと思っていた。だが、今は、ここで何かを掴まなければならないという切迫感がある」
裕一は、スキーに対する憧れだけでなく、現実の生活にも閉塞感を感じていた。仕事での昇進の行き詰まり、結婚への焦り、そして何よりも、**「何か特別なこと」**が起こるのをただ待っているだけの自分。
「師匠。僕は、あの映画の主人公みたいに、ここで運命の出会いをしたいと思っていました。滑ることよりも、誰かと恋に落ちることの方が…」
草壁は静かに言った。
「凍てついた心を溶かすのは、熱い恋か、それとも…お前の滑りで雪山を切り裂く熱意か、だ」
草壁は、スキー板を担ぎ、立ち上がった。
「ラストランだ。今日お前が手に入れた『雪を読むスキル』を全て使え。あそこを滑り降りろ」
草壁が指差したのは、上級者も避けるほどの複雑なコブ斜面だった。雪は午前中のパウダーから変わり、不規則に凍りつき、まるで牙を剥いた獣のようだ。
「無理です…僕はまだ、コブは…」
「コブではない。あれは、雪山が用意した障害物だ。お前が雪の機嫌を読めたなら、コブはリズムになる。読めなければ、ただの罠だ」
裕一は覚悟を決めた。
彼はリフトを降りると、コブの頂上へ立った。深く息を吸い込む。そして、雪面に感謝するように、静かに板を滑り出させた。
滑り出した瞬間、裕一はコブを敵として見なかった。コブ一つ一つが、雪が作った波のリズムに見えた。板の先端をわずかに上げて雪の抵抗を抜き、次のコブの裏側で衝撃を吸収する。
「よし…いける!」
裕一のイエローのウェアが、白いコブ斜面を縫うように、まるで炎の残像となって駆け下りていく。
山麓に辿り着いた裕一は、両手を雪に突き、大きく息を吐いた。身体は鉛のように重いが、心はかつてないほど軽く、澄み切っていた。
草壁がゆっくりと降りてきた。
「どうだった、裕一」
「師匠…雪は…雪は、僕に何もくれませんでしたが、僕自身の力を教えてくれました」
草壁は、無言で裕一の肩を叩いた。
「いいか、裕一。運命の人は、ゲレンデに立っているお前を見つけてくれる。だが、その運命を掴むのは、お前の確かな技術と、自信に満ちた滑りだ」
草壁は空を見上げた。雪は止み、夕焼けの光がゲレンデを染め始めている。
「さあ、帰るぞ。だが、一つだけ覚えておけ。今日のこの雪質は、二度と来ない」
裕一は、愛用のイエローのウェアのポケットに、ロマンスのセリフではなく、今日学んだ「雪の機嫌」の記憶を詰め込み、強く頷いた。彼の挑戦は、まだ始まったばかりだ。雪山の神話は、今、彼自身の物語として動き出した。
2025年12月1日 月曜日、午後6時30分
苗場プリンスホテルの大浴場。如月裕一は、硫黄の香る熱い湯船に沈み、全身の筋肉の軋みを解放していた。午前中のコブ斜面での激走は、身体に鉛のような疲労を残したが、精神には心地よい高揚感だけが残っていた。
「今日の雪は、二度と来ない」
草壁師匠の言葉が蘇る。裕一は、スマートフォンを防水ケースに入れ、湯船の縁に置いた。位置情報を起動し、お気に入りのゲームアプリを立ち上げる。
『戦国バトルロワイヤル』
アプリを立ち上げると、画面に自らのアバター、上杉景勝の凛々しい姿が現れた。景勝は、謙信の義子にして、寡黙な忠義の武将。裕一自身も口下手で不器用なため、彼の生き様に強く惹かれていた。
「よし、湯沢町の縄張りをチェックだ」
ゲーム内マップを見ると、画面の**「苗場エリア」**に、新たなミッションがポップアップしていた。
【越後の試練:雪中行軍】
対象エリア: 苗場、かぐら周辺
難易度: A
報酬: 稀代の軍師「直江兼続」召喚符
「雪山の神が、お主の踏み込みの深さを試している。この豪雪地帯を、板一枚で乗り越える度胸を示せ」
裕一は思わず息を飲んだ。直江兼続は、景勝を生涯支えた知謀の軍師。彼の召喚符は、古参プレイヤー垂涎のアイテムだ。
「このタイミングでAランクミッション……今日の俺なら行ける!」
湯船から上がり、身体を拭いていると、アプリにメッセージ通知が入った。ゲーム内のフレンドからだ。
送り主: 【謙信公の愛し子】(レベル98)
メッセージ: 「景勝殿、そちらのエリアにも*「雪中行軍」*のミッションが出ていますね。このミッション、地形の「踏み込み」と「抵抗」のデータがリアルタイムで反映される仕様らしいです。まさに、雪面と板の対話が試されるミッション…」
裕一は目を見開いた。
「リアルタイムで反映…?まさか、今日師匠から教わった**『雪の機嫌を読み、踏み込みを1グラム単位で変える』**ことが、ゲームの攻略法になるとは!」
謙信公の愛し子、通称**「愛し子」**は、裕一が一方的に尊敬しているトッププレイヤーだ。レベルも98と桁外れに高いが、ゲーム内での会話はほとんどしたことがない。
裕一は緊張しながら返信する。
如月景勝(裕一): 「愛し子殿、ご存知でしたか。まさに、現実の雪山での滑りが試されますね。当方、今日初めてその極意を師匠より学びました」
するとすぐに返信が来た。
愛し子: 「奇遇ですね。私も今日、ある場所で「雪の機嫌を読む」という、人生の極意を学びました。あの境地に至るには、熱意と切迫感が必要です。あなたにもそれが感じられますよ、景勝殿」
熱意と切迫感。
裕一は、午前中、草壁師匠に言われた言葉をそのまま返され、背筋が寒くなった。まるで、今日の彼の滑りを間近で見ていたかのようなメッセージだった。
裕一: 「愛し子殿は、どちらにいらっしゃるのですか?」
愛し子: 「ふふ。あなたの『縄張り』のすぐ近くですよ。私も兼続は欲しいので、明日、苗場のリフトが動き出す頃に、試練に挑むつもりです。では、明日、無事再会できることを願って」
メッセージはそこで途切れた。
裕一の胸の高鳴りは、湯船の熱さとは違う、新しい興奮によるものだった。
愛し子は、同じ湯沢・苗場にいる。
彼女(あるいは彼)も、兼続の召喚符を狙っている。
そして、彼女は裕一と同じように「雪の機嫌を読む極意」を今日学んだと言っている。
2025年12月1日 月曜日、午後8時15分
裕一はホテルのロビーで、部屋に戻る前にコーヒーを飲んでいた。目の前には、映画のポスターが貼られた観光パンフレットが置かれている。
「雪山の神様は、ミーハーな奴には微笑まない」
師匠の言葉を反芻していると、自動ドアが開き、冷たい外気を纏った一人の女性が入ってきた。
鮮やかなイエローのスキーウェアとは対極の、真っ白なダウンコート。ロングヘアは雪を払ったのか、濡れて首筋に張り付いている。彼女は、ロビーに入ると、フロントではなく、その脇にある古い休憩用のベンチに座り、白い息を吐きながら、両手に持ったスマホを必死に操作し始めた。
その姿は、まるで雪山から下りてきた**
裕一は思わず目を引かれた。彼女の指先が、何かをタップするたびに、スマホの画面から僅かに漏れる光が、彼女の顔を照らしている。
(まさか…あんなに真剣にスマホをいじって…)
裕一は、妙な確信めいたものを感じ、思わず自分のスマホを開いた。
『戦国バトルロワイヤル』
そして、ロビーにいる「愛し子」のプレイヤーの特定を試みる。
ゲーム内には「周辺のプレイヤー検索」機能がある。裕一がそれをタップすると、即座に、二人のユーザーが表示された。一人は、レベル5の初心者らしきアカウント。そしてもう一人は、見慣れたネームだった。
【謙信公の愛し子】(レベル98)
距離: 10m以内
裕一は顔を上げた。10メートル先にいる、真っ白なコートの女性。彼女のスマホの画面を、よく見ると、微かに**上杉景勝の家紋(竹に雀)**の影が見える。
彼女が、愛し子だ。
彼女は、スマホから目を離さず、深々とため息をついた。その声は、小さく、しかし、裕一の耳にはっきりと届いた。
「うそでしょ。こんなに近くに『景勝殿』がいるのに、挨拶もせず逃亡なんて…」
彼女は、裕一を視界に入れていなかったが、「景勝殿」という言葉に、裕一の心臓は飛び跳ねた。裕一のゲームネームは「如月景勝」。
彼女が顔を上げ、裕一の座るベンチに目を向けた。その瞳は、何かを探すように、強く、鋭かった。
裕一は、とっさに自分のコーヒーカップで顔を隠し、声をかけようとするが、喉が張り付いたように声が出ない。
「雪山は、遊び場じゃない」
「運命は、待つものじゃない」
師匠の言葉が、耳鳴りのように響いた。
彼は、雪山の急斜面で、1グラム単位の踏み込みは調整できた。だが、この現実のロビーで、1メートルの距離を詰めることができない。
彼女は、再び深々と息を吐くと、スマホをコートのポケットにしまい、立ち上がった。
「ダメだ。景勝殿は…やっぱりロマンスなんかより、雪の機嫌を読みに行っちゃうんだわ…」
彼女は、裕一のいるベンチを通り過ぎ、フロントへ向かい始めた。
裕一は、熱いコーヒーカップを置き、覚悟を決めて立ち上がった。
(雪を信じるんじゃない。体が雪に対してどう反応するかを信じるんだ!)
裕一は、一歩踏み出した。
「あ、あの…!」
彼の声に、彼女はゆっくりと振り返った。裕一は、その顔を見て、言葉を失った。まるで、雪山の神話から飛び出してきたような、凛とした、そして、どこか儚げな美しさだった。
彼女は、微かに微笑んだ。
「…私に、何か?」
裕一は、ロビーの緊張感と、自分の心臓の鼓動が、午前中のコブ斜面よりもずっと激しいことに気づきながら、口を開いた。
「あなたは…直江兼続の召喚符を…狙っていますか?」
彼女は一瞬、目を丸くしたが、すぐにその瞳に強い光を宿した。
「ええ。狙っていますよ。如月景勝殿」
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