第2話 スキル「修復」
目の前に転がっている巨大な楕円形の物体は、先ほどまで俺を食い殺そうとしていた最強の生物レッドドラゴンの成れの果てであり、その滑らかな殻の表面には血管のような紋様が青白く脈動し、内側から溢れ出る強大な生命の鼓動が静寂に包まれたダンジョン内に低い音を立てて響き渡っていた。
俺の思考は恐怖と混乱の狭間で激しく揺れ動いていたが、手のひらに残る温かい光の余韻と全身を駆け巡る奇妙な全能感だけが、これは紛れもない現実なのだと静かに告げており、俺は震える足でその場にへたり込むことしかできなかった。
Sランク冒険者ですらパーティ単位で挑まなければ全滅必至と言われる深層の主が、一瞬にして生まれる前の姿へと変貌してしまったという事実は、俺がこれまで常識だと思っていた魔法やスキルの法則を根底から覆すものであり、俺自身の理解の範疇を遥かに超えていた。
「俺は一体何をしたんだ」
乾いた唇から漏れた独り言は誰に届くわけでもなく虚空へと消えていったが、その問いに対する答えは、俺の脳裏に浮かぶシステムログのような文字の羅列として明確に示されていた。 『対象の状態定義を初期値へロールバックしました』という無機質なメッセージは、俺のスキルである【修復】が単なる物理的な破損を直すだけのものではなく、時間の流れや存在そのものの在り方を強制的に書き換える権能へと昇華したことを意味していた。
俺は恐る恐る自分の胸に手を当てて鼓動を確認したが、先ほどまでの死の恐怖による動悸は嘘のように消え失せており、代わりに腹の底から湧き上がってくるのは、今まで感じたことのないような澄み切った魔力の奔流だった。 かつての仲間たちが俺を役立たずと罵り、ダンジョンのゴミ溜めに捨てていったあの瞬間の絶望は、今や彼らが想像もつかないような未知の力へと形を変えて、俺の体内に宿っていたのだ。
俺は立ち上がり周囲を見渡すと、ドラゴンの巨体によって粉砕された岩壁や、戦闘の余波で崩落した天井の瓦礫が散乱している惨状が目に入り、まずは身の安全を確保するためにこの場所を整える必要があると判断した。
本来であれば土魔法の使い手が数人がかりで数日かけて行うような補修工事が必要な状況だったが、今の俺には魔法など必要なく、ただ頭の中で「あるべき姿」を強くイメージするだけで十分なのだという、確信めいた予感があった。
俺は崩れ落ちた瓦礫の山に向かって右手をかざし、それらが一度も壊れたことのない堅牢な壁として存在していた数分前の時間を想起しながら、体内の魔力を指先へと集中させた。
「直れ」
俺の意思に応えるように黄金の粒子が瓦礫の隙間へと浸透し、重力を無視して浮き上がった無数の岩塊が、まるで早回しの映像を見ているかのように互いに組み合わさり、一瞬にして隙間ひとつない完璧な石壁へと再構築された。
それは単に破片を繋ぎ合わせただけのものではなく、風化していた表面の汚れすらも消え去り、まるで採石場から切り出されたばかりのような美しい光沢を放つ新品の壁となってそこに鎮座していた。 俺は出来上がった壁に触れてその冷たく硬い感触を確かめながら、自分の能力が物理的な修復の域を完全に逸脱していることを改めて実感し、背筋が震えるような興奮を覚えた。
物理法則を無視して時間を遡り、対象の状態を最盛期、あるいはそれ以上の状態へと定義し直すこの力があれば、ダンジョンの深層という過酷な環境であっても生き延びることができるかもしれないという希望が、胸の中に灯った。
不意に腹の虫が鳴り響き、俺は自分が極限の空腹状態にあることを思い出したが、食料の入ったマジックバッグはすべてリサたちに奪われており、手元には水一滴すら残されていないという絶望的な状況は変わっていなかった。
しかし今の俺の視界には、ダンジョンの隅に転がっているボロボロの装備品や、かつてここで命を落としたであろう冒険者たちの遺品が宝の山のように映っており、その中には朽ち果てて中身が腐敗したポーションの瓶や、カビだらけになった乾パンのようなものも含まれていた。 俺はその中から泥まみれになって原形を留めていない革袋を拾い上げ、中に入っているヘドロのような黒い塊がかつては干し肉だった残骸であることを臭いで判別すると、躊躇うことなく【修復】の光を注ぎ込んだ。
腐敗という現象は時間の経過と微生物の活動によって引き起こされる物質の劣化であり、俺の能力が時間を巻き戻すものであるならば、腐る前の新鮮な状態に戻すことも理論上は可能なはずだった。
光が収まると同時に、鼻を突くような腐敗臭は香ばしい燻製の香りへと変わり、俺の手には保存状態が完璧で、肉汁すら滴るような極上の干し肉が握られていた。
俺は夢中でその肉にかぶりつき、口の中に広がる塩気と旨味に涙が出そうになるのを堪えながら咀嚼し、飲み込むことで胃袋の中に生の実感を流し込んだ。
腐ったゴミですら新品のご馳走に変えることができるこの力さえあれば、食料問題は何の障害にもならず、むしろ地上にいた頃よりも贅沢な食事ができるのではないかとさえ思えた。
腹が満たされると同時に、俺は自分を蹴り飛ばしたガイルによって負わされた脇腹の打撲痕や全身の擦り傷にも意識を向け、それらに対しても自分自身を対象とした【修復】を試みることにした。 自分自身の時間を巻き戻すという行為には多少の恐怖があったが、傷ついた細胞が再生し痛みが引いていく感覚は病みつきになるほど心地よく、数秒後には俺の体から古傷を含むあらゆる怪我が消え去り、疲労すらもリセットされていた。
俺は完全に回復した体で立ち上がり、先ほど壁を直して作り上げた即席の安全地帯の中で改めてドラゴンの卵を見つめ直し、この強大な力の使い道を冷静に分析し始めた。
この【修復】というスキルは、対象が生物であれ無機物であれその構成情報を読み取り、俺が望む時点の状態へと強制的に上書きする概念干渉能力であり、その応用範囲は無限大と言っても過言ではない。 例えば壊れた武器を直すだけでなく、錆びた剣を伝説の聖剣だった頃の輝きに戻すことも可能だろうし、病に侵された人間を病気になる前の健康な体に戻すこともできるはずだ。
さらには先ほどのドラゴンのように、敵対する存在を無力化するためにその存在自体を「発生前」まで巻き戻すという攻撃手段としても使えることが証明されている。 これはもはや生産職のスキルなどという生易しいものではなく、神の御業に近い禁忌の力であり、もしこのことが外の世界に知れ渡れば、国同士の戦争すら引き起こしかねない危険な代物だった。
だがそんな懸念よりも今の俺の心を満たしていたのは、かつて自分を無能だと嘲り捨てていった元仲間たちへの暗い優越感と、これから始まる自由な生活への期待だった。
彼らは俺がいなければ装備の手入れすら満足にできない連中であり、今頃は刃こぼれした剣や綻びた鎧に悪態をつきながら、俺のありがたみを痛感している頃かもしれないが、もう二度と彼らのためにこの力を使うつもりはなかった。
俺はこのダンジョンの中で誰にも縛られることなく、自分のためだけにこの力を振るい、思うがままに生きていくことを決意し、そのためにはまずこの殺風景な岩窟を快適な住処へと作り変えることから始めようと考えた。 手始めに俺は、地面に散らばっているドラゴン戦の残骸とも言える無数の岩石や金属片を集め、それらを素材として家具や寝床を生成しようと試みたが、そこでふと部屋の隅に埋もれている錆びついた剣の柄のようなものが、微かな魔力を放っていることに気がついた。
それはただの古びた鉄屑のように見えたが、俺の【修復】の目が捉えたその剣の「本来の姿」はあまりにも神々しく、圧倒的な威圧感を放っており、俺は吸い寄せられるようにその剣へと手を伸ばしていた。 触れた瞬間に脳内へ流れ込んできた映像は、この剣がかつて神話の時代に邪神を討ち果たしたとされる伝説の聖剣そのものであり、長い時を経て力を失い朽ち果てていたとしても、その芯にある高貴な魂は死んでいないことを伝えてきた。 俺はこの剣を直したいという純粋な衝動に駆られ、それは損得勘定や護身のためといった理由を超えた、職人としての本能が魂を揺さぶったからに他ならなかった。
「お前もまた、忘れ去られ捨てられた存在なのか」
俺は錆びついた刀身に優しく触れながら、自分自身の境遇と重ね合わせるように語りかけ、全神経を集中させてこの剣が最も輝いていた黄金時代の姿をイメージした。 かつての世界を救い、人々に希望を与え、そして今は誰にも知られることなくこんな暗い場所で眠っていた最強の剣を、俺の手で現代に蘇らせるのだ。
指先から放たれた光は、これまでで最も強く眩い輝きとなり、ダンジョンの闇を切り裂きながら錆と汚れを浄化し、数千年の時を超えて伝説を呼び覚まそうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます