第8話「それでも、歩く」
朝、洗面台の前で、彼女はいつものように同じ化粧品の瓶を手に取った。数年前に買ったまま、残りは底をこするほど少ない。それでも「まだ使える」と言い続けてきた。
その癖が、どこか自分らしい気もしていた。自分を守る盾のようでもあり、みすぼらしい足枷のようでもあった。
ふと、彼女は蓋をしめて手を止めた。瓶の底に、ごくわずかに光る乳白色の残り。
「……ダセえな」
いつもの言葉が浮かぶ。だが、それはこれまでのような断罪ではなかった。
むしろ、どこかで微笑みながらつぶやいている。
“ここまでよく頑張ってきたじゃないか”
そんな、かすかな慈しみが混じっているのを自分自身が一番驚いていた。
仕事場に向かう電車で、彼女は昨夜の自分を思い出していた。黒いダウンの襟元に自分の呼気が白く溶けていったあの瞬間。
すべてを断罪する癖が、少しだけ揺らいだ。
揺らいだことを、恥ずかしいとも思わなかった。
むしろ、肩の力が抜けるような感覚があった。
昼、職場で後輩が書類を抱えたまま固まっているのを見つけた。どうやら小さなミスをしたらしい。
以前の彼女なら、心の中で瞬時に切り捨てただろう。
「そんな確認もできないなんて、ダセえな」と。
だが、今日の彼女は一拍おいてから声をかけた。
「大丈夫。直せばいいよ。私も同じミスしたことあるし」
後輩がほっと息を吐き、少し笑って「ありがとうございます」と頭を下げた。
その仕草を見て、彼女の胸の奥がゆっくり温まった。
夕方。
仕事帰り、彼女はドラッグストアに入った。陳列棚の前で立ち止まり、同じブランドの新しい化粧品を手に取る。
手のひらにあるそれは、少しだけ重かった。
値段を見て迷う自分が、いつもの自分らしくて可笑しい。
――買わなくてもいい。
――むしろ買わないほうが、自分らしい。
そんな声がかすかに胸で動く。
だが、彼女はゆっくりと呼吸し、棚に戻さなかった。
レジに向かう歩幅が、わずかに軽い。
「ダサいかもしれない。でも、いい」
声に出さずに呟く。
その言葉は、初めて“赦し”に似ていた。
店を出ると、夜風が頬に触れた。
どこか遠くで、冬の星座が点滅している。
彼女はマフラーを整え、歩き出した。
自分の基準は、きっとこれからも簡単には変わらない。
それでも。
その基準を握りしめる力だけは、少し緩めてもいいのだと、ようやく思えた。
彼女は自分の吐く白い息を見つめながら、小さく笑った。
「……ダセえ、でも。」
そして歩き続けた。
自分の足で、自分の速度で。
ダセえな サノ・ケヨウ @g307763
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