第7話「言葉の抜け殻」
翌朝、紗良は新しいファンデーションを手に鏡の前に立っていた。
いつもの習慣とは違う重み。
新品のケースを開く感触がやけに鮮明だった。
パフに乗る粉は、驚くほど均一だった。
肌に触れた瞬間、思わず弱い笑みがこぼれる。
(あ……こんなに違うんだ。)
今まで無理やりつなぎ止めていたものが、
ここでようやく手放されたのだと実感した。
(じゃあ、私はずっと何を守ってたんだろう)
問いは浮かんだ。
でも、その答えを急ぐ必要はなかった。
出勤途中、コートの襟がまた少し折れているのに気づいた。
紗良は指で軽く整え、それからふっと肩をすくめた。
(まあ、どっちでもいいか)
その言葉に、以前のような自己嫌悪は一切なかった。
昼休み、給湯スペースで石井に声をかけられた。
「紗良、なんか今日雰囲気良くない? なんだろ、まとってる空気が違う」
石井の冗談めいた言い方に、紗良は一瞬だけ照れながら笑った。
「ファンデ、新しくしたからじゃない?」
石井が驚いた顔をした。
それがなんだかおかしくて、紗良は小さく笑った。
その笑いは、何かを隠すためのものではなかった。
デスクに戻ると、ふと「あの言葉」を思い出す。
“ダセえな”
ずっと自分を縛っていた呪文のようなその一言。
でも今、それはただの“古い習慣の抜け殻”に見えた。
誰かを切り捨てるためでも
自分を守るためでもない。
紗良の胸の中で、その言葉は音を立てずに崩れていく。
(なくてもいい。
あってもいい。
でももう、頼らなくてもいい。)
ぬるい午後の光がデスクに落ちていた。
紗良はその光の中で、そっと深呼吸をした。
世界は昨日と同じ。
仕事も、通勤路も、オフィスのざわめきも変わらない。
変わったのは、ただ一つ。
――自分に向ける“声”の質。
それだけで、世界はこんなにも違って見える。
紗良は画面を開き、今日やるべき仕事に手を伸ばした。
その指先にはもう、迷いはなかった。
小さく、確かに。
彼女はようやく、
“自分の行き方”を見つけ始めていた。
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