第6話「軋む日」
週の後半、紗良は社内のプロジェクト会議に出席していた。
内容は新規案件の方向性について。
彼女はサブ担当として資料を作り、メンバーの前で説明する役目を任されていた。
「……以上が現状の整理と、初期の仮説になります」
声は震えていない。
それなのに――
説明が終わった瞬間、会議室の空気が固まったように感じられた。
上司の佐竹が、腕を組んで静かに言う。
「紗良、この仮説なんだけど……前提がひとつ抜けてない?
ここの市場データ、去年のじゃなくて一昨年のを参照してるよね」
紗良の視線が一瞬、手元の資料に落ちる。
見慣れた数字が、急に違う顔をして見えた。
(……やった。完全に見落とした。)
背中が薄く汗ばむ。
でも、次に浮かんだのはいつもの「ダセえな」ではなかった。
代わりに、胸の奥で小さく軋む音がした。
――もう、怖がるのはやめたい。
その思いだけだった。
「すみません。確認が甘かったです。
正しいデータを使って、今日中に修正します」
そう言った自分の声が、思った以上に澄んでいた。
会議室の空気がすっと動くのが分かる。
誰も責めていない。
誰も刺していない。
(ミスって、こうやって受け止めるんだ。
こんな感じでいいんだ。)
ふと胸が軽くなった。
会議が終わり席に戻ると、戸田が近寄ってきた。
「紗良さん、さっきの件、僕も確認できてませんでした。
一緒に直しましょうか?」
以前なら、こういう優しささえ“同情”に聞こえ、心が跳ね返っていた。
でも今日は違った。
「ありがとう。助かる」
自然に言えた。
その瞬間、紗良の中で長く固まっていた何かが、ひとつ溶けた気がした。
夕方、修正を終えてファイルを閉じる。
肩の力が抜け、深く息を吐いた。
(……今日の私は、ダサくなかったのかもしれない)
誰かの評価でもなく、善悪でもなく、
ただ“自分が自分に向ける言葉”の、ほんの微細な変化。
それが胸の奥で静かな振動になっていた。
帰宅途中の駅、紗良はまたドラッグストアの前で足を止めた。
毎日立ち寄らず、毎日通り過ぎてきた場所。
今日はひとつ深呼吸して、ゆっくりと自動ドアをくぐった。
ファンデーションの棚の前に立つ。
ケースを手に取る。
重みは、残りわずかな粉が入ったポーチのそれとはまるで違う。
(買わなきゃいけないわけじゃない。
買ったからって強くなるわけでもない。
でも……)
ケースを握る指が、ほんの少し震える。
(これを選ぶのは、“見栄”じゃなくてもいいのかもしれない。)
紗良はそのままレジに向かった。
歩みはゆっくり。
でも確かだった。
ドアを出た瞬間、夜風が頬を冷たく撫でた。
――ひび割れた鎧の隙間から、小さな新しい空気が入りこんでいた。
それが今はただ、心地よかった。
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