第5話「揺らぐ輪郭」
翌週の月曜、朝の空気は冷たく張りつめていた。
紗良は駅からオフィスへ向かう途中、ビルの外壁に映る自分の姿をふと見つけた。
キャメル色のコートの襟が少しだけ折れている。
普段なら、こういう細部の乱れにすぐ気づいて直すのに、今日はそのまま歩き続けていた。
(まあ、いっか)
ほとんど無意識につぶやいたその言葉に、自分で驚いた。
“いっか”を許した自分。
それは、これまでの紗良の行き方とは確実に違っていた。
オフィスに入ると、空調の乾いた風がまた頬を撫でた。
紗良は自席につき、PCを立ち上げる。
その瞬間、デスクの上に置いた化粧ポーチが視界に入る。
週末も買い替えなかったファンデーション。
ケースを開かずとも、ほとんど残っていないことは分かっている。
(今日も、とりあえずは……これで)
そう思いながらも、胸にふっと浮かび上がる違和感があった。
“まだ使える”という執着が、以前ほど強く響かない。
むしろ、“なぜそこにこだわっていたのか”という疑問のほうが近い。
けれど答えはまだ見えない。
代わりに曖昧な靄のようなものだけが胸に残った。
午後、紗良は上司の佐竹に呼ばれ、会議室へ向かった。
週末に提出した資料について、何かあるらしい。
部屋に入ると、佐竹はコーヒーを片手に淡々と話し始めた。
「全体的にはよく整理されてる。ただ、ここのまとめ方だけ少し弱いかな。
方向性が曖昧に見えるから、もう一段深掘りしたほうがいい」
佐竹の声は穏やかだった。
責める気配も急かすような圧もない。
ただ純粋に、仕事としての指摘。
紗良は頷きながら聞いていた。
だが、胸の奥がざわつく。
昨日よりは小さい。
でも確かに残っているざらつき。
(曖昧……そうかもね)
(でも、“曖昧”ってそんな悪いこと?)
ミスを指摘された時とは違う、奇妙な感覚だった。
心のどこかで、自分を防御しようとする小さな部分がまだ残っている。
同時に、その隣で新しい声がする。
(たしかに、曖昧かもしれない。今の私。)
資料だけじゃなく、自分自身が。
その自覚が、静かに胸に広がった。
会議室を出ると、窓の外に淡い冬日の光が差しこんでいた。
紗良は深く息を吸い、吐く。
少し冷たい空気が喉を通り抜け、胸の中のざわつきを一瞬だけ和らげる。
(曖昧でも、悪くないのかも)
(それとも、曖昧なのは“変われる”ってこと?)
自分でも驚くほど前向きな解釈。
でも、すぐに自嘲が浮かぶ。
(いやいや、ポジティブぶるとか……ダセえな)
いつもの言葉。
だが、以前ほど強くは刺さらなかった。
むしろその言葉の形そのものが揺らいでいるような感覚があった。
帰り道、紗良はまた駅前のドラッグストアの前を通りかかった。
ファンデーションの棚が目に入る。
先週と同じ景色。
でも、先週とは違う目で見ていた。
(買うべきか、買わないべきか、じゃなくて)
(私はどうしたいんだろう)
立ち止まったまま、じっと棚を見つめる。
ケースの向こうで整然と並ぶ化粧品たちは、どれも新鮮な肌色をしている。
自分のポーチの中の、あの粉の残骸とはまるで別物だ。
(……まだ分かんないや)
そう思って、紗良は店には入らず歩き出した。
選ばなかった。
でも、逃げたわけでもない。
答えはまだ輪郭を持たないまま。
けれど、その揺らぎこそが、紗良にとって今もっとも「正直」な感情なのだと、
彼女はうっすら感じ始めていた。
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