第4話「ほころびの形」

翌朝、紗良は目覚ましの音よりも早く目を覚ました。

薄いカーテンの隙間から射す柔らかな光が、部屋の輪郭をぼんやり照らしている。

胸のあたりが、少しだけ重かった。

昨日の帰り道に感じたあの“乾く音”の余韻が、まだ体のどこかに残っている。

起き上がり、洗面台へ向かうと、鏡の中の自分はいつもより少しだけ影が濃く見えた。

化粧ポーチを開き、例のファンデーションを取り出す。

蓋を開ける動作が、どこかもう「儀式」のようだ。

パフをそっとケースに押しつける。

粉はほとんどつかない。

分かっていたけれど、その事実が一層はっきりと突きつけられる。

(こんな状態で毎日、隠せるものなんてあるの?)

ふいにそんな考えが浮かぶ。

自分の弱さも、綻びも、疲労も、

この薄くなった粉ではどれひとつ隠せない。

(……隠そうとすること自体が、ダセえのかも。)

思った瞬間、胸がぎゅっと苦しくなった。

言葉は刃だ。

自分が自分に向ける刃は、ときに誰よりも鋭い。


出勤すると、オフィスは朝のざわめきに包まれていた。

デスクに座りPCを立ち上げた瞬間、また戸田が声をかけてくる。

「おはようございます。昨日の資料、今日クライアントに送るみたいです。

 紗良さんの直したバージョンで大丈夫ですか?」

戸田は軽い調子で言っただけ。

何の含みもない、ただの確認だ。

「うん、大丈夫。ありがとう。念のため、もう一度だけ見ておくね」

そう返す自分の声は思っていたより平静だった。

だが、その直後に胸の奥で小さく疼いたものがある。

(また確認しなきゃって思う時点で、私って……)

(慎重すぎ? いや、臆病なだけ?)

瞬間的に浮かぶ「ダセえな」の気配。

でもそれは昨日よりも弱かった。

代わりに、別の考えが浮かぶ。

(……まあ、でも。誰だってミスくらいするし。)

(それで死ぬわけじゃない。)

その緩い言葉に、自分でも驚いた。

まるで、心のどこかに風穴が開いたようだった。


昼過ぎ、紗良は社内の給湯スペースでお湯を注ぎながら同僚の石井に話しかけられた。

「ねえ紗良、最近ちょっと疲れてる? なんか顔色がいつもより薄いよ?」

冗談めかした言い方。

でも紗良は思わず反応してしまった。

(やっぱファンデ薄いってバレてんじゃん)

(やだ……ダセ……)

胸がぎゅっと縮まる。

だけど、昨日までとは違う。

「あー……ちょっと寝不足かもね。ありがとう、気をつける」

そう返して、軽く笑うことができた。

細い糸を張りつめて立っていた頃なら、こんな余裕は持てなかった。

石井が去った後、紗良は紙コップを手にしながら静かに息を吐く。

(人に言われても、死なないな。)

そう思った。

それは彼女にとって、驚くほど新しい感覚だった。


夕方、資料を提出し終えた紗良は、ふとデスクの上の化粧ポーチを見つめた。

小さな布の袋。その中に、彼女の弱さと習慣と矜持が詰まっている。

(今日も使い切った粉で一日やり過ごした。)

それを「努力」と呼ぶか「執着」と呼ぶかはわからない。

ただ、紗良の胸のどこかで、昨日の“乾く音”に続く、新しい音が生まれていた。

ひび割れから差し込む、微かな風の音。

それは壊れる予兆なのか、変わる予兆なのか、まだ判断がつかない。

けれど――

紗良は直感していた。

このままではいられない。

いられないことに、気づいてしまった。

その「ほころび」の形が、これから彼女のどんな行き先を示すのか。

紗良自身にも、まだ見当がつかなかった。

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