第3話「乾く音」

帰り道、紗良は駅前のドラッグストアの前で足を止めた。

蛍光灯の白い光に照らされた陳列棚の奥で、いつも使っているファンデーションが静かに並んでいる。

値札の数字は、昼間ふと検索してしまった新作の価格よりはずっと安い。

(買えばいいじゃん)

心のどこかが軽く囁く。

だが、その声にすぐ別の声が重なる。

(いや、まだ使えるだろ)

(今ここで買うなんて、負けじゃん)

(それこそダセえな)

紗良は目線を逸らし、店内に入ることなく歩き出した。

足取りは早い。

まるで追われているかのように。


家に着くと、部屋はいつも通り静かだった。

玄関の灯りを点ける音が、空気の中でやけに大きく響く。

仕事での小さなミスを思い出すと、胸の奥が再びざわつく。

戸田は悪くない。

むしろあの場で正しく仕事をしただけだ。

(それなのに、なんで私はあんなに震えたんだろう)

自分が情けなくなる。

「ダセえな」と他者に向ける言葉は、結局いつも回り回って自分に突き刺さる。

回収されて、結局は自分の胸を抉って終わる。

そんな循環に、彼女自身が一番疲れていた。

バッグを置いて、洗面台に向かう。

クレンジングをする前に、ふとメイクをしたままの顔を眺めた。

薄い。

ファンデーションは肌の凹凸を隠しきれていない。

朝よりもさらに落ちて、頬の赤みも、疲労の影もそのままだ。

(……今日、ほんとダセえな)

洗面ボウルに手をつき、俯いた。

その姿は誰にも見られていないはずなのに、どこか見られている気がしてくる。

それほど、自分自身の視線が厳しかった。


顔を洗い終え、タオルで拭いたころ、ようやく呼吸が深くなった。

部屋に戻ると、仰向けになって天井を見つめる。

天井の白い面は無機質で、紗良に何も語りかけない。

だがそこに映る自分の輪郭だけが、妙にくっきりと感じられた。

(私、なんでこんなに毎日「正しくいたい」の?)

ふと浮かぶ疑問。

正しくあることは悪くない。

むしろ、美徳だ。

でも紗良の「正しさ」は、どこかねじれている。

自分を守るための鎧みたいなものになっていた。

その鎧がきしむ音がした気がした。

乾いた、ひび割れの予兆のような音。


ベッドの横に置いた化粧ポーチを手に取る。

ファンデのケースを開けて、指先で縁の粉を軽く触れた。

指紋にまばらに付着する薄い色。

それを見ていると、自分の頑なさが馬鹿みたいに思えてくる。

(これ、もう限界じゃん)

声にならないつぶやき。

でも、はっきりと胸の奥で響いた。

――もしかしたら、「ダセえな」って言葉で切り捨ててきたものの中に、

 本当は救われるべき自分がいたのかもしれない。

その考えが浮かんだ瞬間、胸のざわつきがわずかに緩んだ。

ほんの少しだけ、呼吸が軽くなる。

紗良はポーチを閉じ、そっと枕元に置いた。

まだ買い替える決意は固まっていない。

でも、心のどこかでなにかが変わり始めていた。

その変化の気配を、紗良はまだ「認めたくない」と思っていた。

だが同時に――

「認めてもいいのかもしれない」という微かな声が、確かに芽生えていた。

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