第2話「残り香」

朝の地下鉄は、冬の始まりを告げるような、人いきれの湿った温度を孕んでいた。

紗良は吊り革につかまりながら、鞄の中で揺れる化粧ポーチの存在を意識していた。

ファンデーションは底が見えて久しい。ケースの縁についた粉を指でこそぎ取り、

最後の最後まで使い切っている。

「まだ使える」

そう思うたび、胸のどこかに小さな棘のような自己嫌悪が刺さる。

そんな状態の化粧品を使っている自分を、他人が見たらどう思うだろう。

――ダセえな、と。

けれど彼女はそれを買い替えない。

買い替えたら、負けだと思っている。何に、誰に、かはわからないまま。


オフィスに着くと、空調の乾いた風が顔を撫でた。

ミーティングの準備をしながら、紗良はなんとなく顔の粉っぽさを意識する。

ファンデーションの乗りが悪いのは分かっている。

――それでも、これはまだ使える。

心の中で言い訳を繰り返す。

「紗良さん、ここの数値、昨日の資料と微妙に違います」

隣の席の後輩・戸田が声をかけてきた。

モニター越しに向けられた視線は、責めているわけでも呆れているわけでもない。

ただ単純に、気づいたから言いました、というだけのものだった。

「……あ、ごめん。ちょっと確認する」

声は出た。

だが胸の奥は、ざらりとした砂利が転がるように痛んだ。

(指摘してきたな。どうせ大したことじゃないのに)

(こんなの、すぐ修正すれば済むレベルだろう)

(いや、そもそも私が悪いのか……ダセえな)

戸田に対してではない。

指摘された瞬間に、自己嫌悪の矛先が一気に自分自身へ向かっていく。

大きくはないミス。

でも、こういう小さな綻びに敏感なのが自分という人間だ。

画面の数字を直しながら、紗良は奥歯を軽く噛みしめた。

――こういう時、落ち着いて対処できる人間の方がよほどかっこいい。

わかっているのに、なぜ自分は毎回こうも心がざわつくのか。

指先は冷えているのに、掌だけがじんわりと汗ばんでいた。


昼休み、鏡の前で化粧を直した。

ファンデの蓋を開けると、残り香のようにほんのわずかな粉が隅に残っている。

パフを当てると、まるで残骸を拾うような手つきになってしまう。

(こんな状態でまだ使ってるなんて……)

鏡の中の自分を見て、ため息が出そうになる。

だが、目を細めてその気配を押し殺した。

ため息を吐くのは甘えだと思っている。

甘えはダサい。

そう心の中で呟きながら、粉の薄い化粧をどうにか整えた。

化粧室を出ると、窓の外は淡い曇り空。

紗良は天井を仰いだ。

――私の中には、いつからこんなにも「ダセえな」が増えたんだろう。

しかし、それを認めることさえ、どこか負けた気がするのだった。


午後の仕事に戻ると、さっきのミスはもう小さな水滴の跡くらいにしか思えない。

だが紗良の胸には依然、微かな波紋が残っていた。

その波紋が、これからどこへ広がっていくのか、彼女はまだ知らない。

――だけど、それもまた「行き方」の一部なのだ。

そう、どこかで思い始めていた。

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