ダセえな

サノ・ケヨウ

第1話「朝の輪郭」

朝の電車は、いつも少し湿っている。

吊り革の列が眠気を抱えた人々の腕と揺れ、どこかだらしない。

そのだらしなさが、自分の胸にも同じ湿り気を落としてくるようで、紗良はいつも憂鬱になった。

向かいの席では、サラリーマンが器用に舟をこいでいる。

ネクタイは曲がり、シャツにはうっすらシワ。

膝には落ちそうで落ちないスマートフォン。

――ダセえな。

言葉は、誰にも聞こえないはずなのに、自分だけを鋭く刺した。

他人を見下すことでしか、保っていられない何かが胸に眠っている。

電車が揺れ、隣の女性のバッグが紗良の肩にあたる。

女性は気づかず、音漏れしている音楽に体を揺らすだけ。

その無自覚な幸福が、なぜか苛立たしい。

――なにノってんだよ。ダセえな。

駅に着くと、女子高生たちが元気に階段を駆け上がる。

背中から立ち上るような「今日も頑張ります」という匂い。

それが、紗良にはどうも苦手だった。

「がんばっちゃって、ダセえな……」

自分でも意図しないほど小さくつぶやいてしまい、

前を歩く男性が一瞬こちらを振り返る。

紗良はその視線から逃げるように、少しうつむいて階段を降りた。

外に出ると曇り空が広がっている。

どこにも向かないような色。

会社までの道はいつもより少しだけ遠く感じた。

ビルのガラスに映った自分の顔は、前髪がわずかに乱れていて、その乱れにまた心の声がささやく。

――お前が一番、ダセえよ。

紗良は歩調を早めた。


職場の空調は今日も強すぎた。

乾いた風が喉の奥まで侵入してくる。

むせそうになった瞬間、斜め前の湯川が声をかけてきた。

「大丈夫? 空調、寒いよね」

その何気ない優しさに、どこかざらつく感覚が生まれる。

こういう“善良そうな人間”の無防備さが苦手だった。

自分とは世界の温度が違うようで。

――その善人ぶりが、一番ダセえよ。

心の中で呟き、モニターに視線を戻す。

提出しなければならない企画書は白紙の海のよう。

昨日の夜、何度書いても「違う」と感じて消し続けた結果、何も残っていない。

昔はもっと簡単に書けた。

学生の頃、ノートいっぱいに散文や詩を書いていた自分がいた。

言葉が溢れて、手が追いつかない日々が確かにあった。

それを「ダサい」と切り捨てたのは、いったいいつからだろう。

「紗良さん、これ確認お願いします」

後輩の戸田が資料を持ってくる。

妙に緊張した表情。

その怯えがまた胸に刺さる。

内容を見ると誤字もなく、必要十分に整っている。

それが逆に、自分自身を焦らせた。

――丁寧ぶって。ダセえな。

「はい、これでOKです」

紗良は必要以上に淡々と返す。

戸田はほっとして席に戻る。

その安堵すら、自分を責める材料に変わる。

自分って、どうしてこんなに刺々しいのだろう。

なににこんなに構えているんだろう。


昼休み、近くのカフェでサンドイッチを頼む。

写真よりずっと薄く、具も少ない。

――こういうのが一番ダセえよ。

苦笑しながらひと口かじると、意外にも美味しい。

そのギャップがまた紗良を戸惑わせる。

窓の外には、横断歩道を全力で走る女性が見えた。

髪を振り乱してでも渡り切ろうとするその姿に、なぜか目が離せない。

――ああいうふうに走ったの、いつだっけ。

小学生の運動会で転んで膝をすりむいた日のことを思い出す。

母の言った「転んだっていいじゃない。真っ直ぐ走ったんだから」という言葉。

あの頃は、ダサさという概念すら持っていなかった。


午後、席に戻るとデスクに付箋が置かれていた。

“見積り表の数字、修正お願いします。湯川”

紗良は眉をひそめた。

自分の作成したものにミスがあるとは思えない。

半信半疑でファイルを開くと、数字が桁ひとつズレていた。

初歩的なミス。

喉が少し熱くなる。

「ああ……ダサ」

声は出ていないはずなのに、空気が震えた気がした。

胸がざわつき、指先がわずかに震える。

誰かに怒られたわけでもない。ただ淡々と指摘されただけ。

それだけなのに、自分の内側が揺れる。

――こういう時に軽やかに謝れる人間なら、もっと生きやすかったのかもな。

そんな情けない考えが

浮かんだ瞬間、

“取り繕うのがダサいんだろ”

心の声が自分を刺す。数字を修正しながら、視界がわずかに滲んだ。

涙ではない。

もっと冷たくて、形のないもの。


仕事帰り、夜風が頬に心地よかった。

ふとポーチを思い出す。

最近、ファンデーションの底が見えてきている。

買い替えればいいだけなのに、気力が湧かない。

高いからでも忙しいからでもない。

――減っていく化粧品と、自分の余裕。どっちも同じだな。

そう思うと、少しだけ笑えて、少しだけ苦しかった。

信号待ちのガラスに映る自分は、光に照らされてどこか薄い。

目の下の影も、疲れた頬も、隠しきれない。

――隠せないって、ダサい?

その問いは、不思議とやさしかった。

青信号が灯る。

影は細く揺れながらついてくる。

“ダセえな”という声は今日も胸の奥にいた。

ただ、その輪郭はさっきより少しだけ曖昧だ。

紗良は、夜道をまっすぐ歩いた。

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